展覧会遠征 北九州編

 

 さて2月最初の大型連休(金曜日は休暇を取っている)となった今回の遠征目的地は北九州地区である。昨年末に初めて九州に足跡を示したが、今回はいよいよ本格的に北部九州を回ろうという計画である。と言うわけで、今回の北九州というのは北九州市ではなくて北部九州と言う意味である。なお以前にも述べたと思うが、本年度は「東北・九州方面強化年間」となっているので、本遠征はその年間計画に従ったものである。

 さて今回用いる交通機関であるが、ほぼ当然のようにJRとなる。切符に関しては北部九州中心と言うことで周遊切符の福岡ゾーンを使用することにした。なおこの周遊切符、JR内でもマイナーな存在であるのか、みどりの窓口で購入しようとすると駅員がよく分からなくて、マニュアルと首っ引きなんてことは日常茶飯である。今回もそのように購入には結構手こずった。

 

 当日は例によっての早朝出発。レールスターでまずはゾーン入口の小倉を目指すことになる。この行程は最近よく通っている行程。早朝出発の疲れから気がつくとうつらうつらとしていて、意識を取り戻した頃には広島を過ぎている。前回の遠征で下車した新山口を過ぎると、新下関を通過してすぐに関門トンネル。意外と長いトンネルであるが、これを抜けると小倉に到着である。非常に順調な行程であるが、断続的に雨が激しく降るという悪天候が気がかり。そう言えば、昨年末の遠征でも途中で雨に当たられたし、その前の北陸遠征に至っては台風並みの土砂降りと、どうもここのところ雨に祟られている。

 今回の移動エリア(出典JR九州HP)

 小倉に到着するとすぐに乗り換え。福岡ゾーン内は特急の自由席が乗り放題なので、ここから特急ソニックで最初の目的地である中津を目指す。到着したのは新鋭885系車両のいわゆる「白ソニック」。内部はなんと革張りシートでなかなかに豪華である。ただこの革張りシート、へたってきた時にはどうするんだろうか? なお「九州では特急は指定席を取るのが常識」と聞いていたので混雑が気になっていたが、この便に関しては自由席はガラガラであった。

白ソニックの内部は革張りシートで高級感がある。

 博多方面から鹿児島本線経由でやってきたソニックは、小倉でスイッチバックすることになる。列車は西小倉を過ぎたところで鹿児島本線と、城野を過ぎたところで日田彦山線と分かれると日豊本線をひた走る。日豊本線は小倉から大分を経由して鹿児島までを結ぶ九州の長大なる幹線であり、全線電化、またこの辺りは複線化もされているのでソニックは快調にぶっ飛ばす。沿線は最初は小倉の市街地内だが、直に閑散とした地域になってくる。次に家が増えてきたと思ったら中津に到着。その間、30分程度である。

 中津出身の有名人と言えば福沢諭吉であるが、中津はいきなり駅前から諭吉ワールド、駅前ロータリーには当然、商店街からみどりの窓口までなぜか諭吉一色である。キャッチコピーは「一万円札の街」とか。なんのこっちゃ?

左 駅隣接の名店街の看板  中央 緑の窓口  右 ホテルの屋上までなぜかすべて諭吉ワールド

 とりあえずロッカーにトランクを放り込んで身軽になってから、これからの対策を考える。さてここからの移動であるが、観光案内所で無料のレンタサイクルがあるというので、当初は自転車での移動を予定していた。しかし生憎のこの天気、現在は雨がやんでいるようであるが再びいつ降り出すやら分かったものではない。やむなく自転車は諦め、駅前からタクシーでとりあえず中津城を目指すことにする。私の目的が「観光」であることを聞いた運転手は、あえて福沢諭吉旧居の前を経由して中津城に向かう。辺りはかなり道が細く、中津は昔の情緒の残った街のようである。ざっとルートを確認して、中津城から十分に歩ける距離であると判断してこの後の予定を組む。

 

 「中津城」に到着。鉄筋コンクリートの天守だとのことだが、外から見る分にはなかなかに趣があって良い。タクシーを降りて傘を広げている間に雨が強くなり始め、瞬く間に豪雨に変わる。これはもし自転車で強行していたらとんでもない目に遭っていただろう。なお後にホテルに入ってから、実はこの時に福岡地域には大雨警報が発令されていたということを知ることになるのであるが、この時はそのようなことなど想像さえもしなかったのである。傘はあるもののあまりの大雨にたまりかねた私は、さっさと中津城の天守閣に飛び込む。

       中津城天守

 中津城は元々は黒田官兵衛こと黒田孝高が築城したが、黒田家が移封になった後に細川氏、小笠原氏を経て最終的には奥平氏の城として明治を迎えたという。その後、明治維新で御殿を残して建造物は解体、政庁として使用されていた御殿も西南戦争で焼失してしまったとのこと。現在の天守は藩主奥平氏の末裔が音頭を取って寄付金などを合わせて建設されたものとか。ただ中津城に天守閣があったという資料はないことから、はっきり言えば「とんでも天守」である。

 中津城の縄張り(現地案内看板から)

 天守閣内部は例によって極めて普通の現代的ビル。中津藩にまつわる資料などが展示されている。中津城は山国川の河口に築かれた水城であり、川の水を引き込んだ堀によって守りを固めていた城である。現在は堀のほとんどは埋め立てられているようだが、天守屋上から眺めると、かつての堀跡であるだろうと思われる地形が見える。

  西には山国川 南には堀の跡らしきものが

 天守から降りて本丸の石垣をグルリと回ると、江戸時代の石垣跡と言われている表示がある。確かに石垣をよく見ると、数度に渡って積み増しされているようで、特に天守の下の石垣は最近になって積み上げたものであることが分かる。この辺りもこの天守が「とんでも天守」である所以でもある。

 右が黒田如水時代の本丸跡石垣、左が細川忠興時代の石垣だとか

 天守直下の石垣は明らかについ最近のものである

 中津城の見学を終えると、福沢諭吉旧居までプラプラと散策。路地が入り組んだ町並みは江戸時代と言うよりは昭和レトロの風情か。福沢諭吉旧居はその奥にある。ごく普通の農家という印象。隣には福沢にまつわる記念館のような物が建っており、福沢に関する資料などが展示されている。

 福沢諭吉旧居

 雨が若干小降りになってきたし、まだ時間があるので駅まで歩くことにする。中津には寺町と呼ばれるお寺の密集地帯があり、格好の散策コースである。途中の円応寺にはカッパの墓があるのでそれを訪ねる。カッパは水を司るということである。どうも最近遠征が雨に祟られているので、とりあえず「お手柔らかにお願いします」と頼んでおく。

  

左 風情のある寺町をブラブラ         右 カッパの墓     

 最近は地方の衰退が著しいが、この中津でもデパートの廃墟があったりなど、どうも今ひとつ活気のないのが気がかりである。とりあえず駅前商店街をプラプラしながら昼食を摂る店を物色。「日の出寿司」という看板が目についたのでそこに入店する。注文したのは「昼定食(680円)」。にぎり寿司に茶碗蒸しがついてくる。さすがに高そうなネタはないが寿司はうまく非常にCPが高い。

 中津駅に戻るとトランクを回収、再びソニックで小倉に戻る。今回も白ソニックだが、自由席は往路よりは混雑していた(と言っても座れないほどではないが)。雨はさらに激しさを増してきておりやや前途が不安。小倉手前で博多からやってきた青ソニック(883系)と併走する。

 これが青ソニック

 小倉に到着するとまた乗り換えである。今日の最終目的地は久留米。普通に考えると鹿児島本線経由になるんだろうが、それではあまりに面白味がないと言うわけで、前回少しだけ乗車した日田彦山線と久大本線を経由して沿線視察がてら久留米に向かおうという計画。日田彦山線は小倉から彦山を経由して夜明で久大本線と合流する路線だが、実質的にはそこから二駅先の日田まで運行されている。またこの日田までが福岡ゾーンのエリア。やはり周遊切符は最大限有効に活用したい。

 

 全線単線非電化というローカル線なので、運行されているのはディーゼル車。二両編成のキハ147系である。これは出力不足に泣いた旧国鉄のキハ47系を機関換装強化したものだという。全車ボックス型クロスシートという配置はいかにもレトロである。

   

 小倉を出た時には結構乗客がいるが、小倉市街地のはずれに当たる志井ぐらいまでにバラバラと下車していき、それ以降はかなり閑散とした状況になる。その後、沿線はかなり山の中という印象になり、山中の集落をつないでいく印象。傾斜も結構あって、これはエンジン換装をしないと非力なキハ47系では到底運行不可能だろうと思われる。周辺はいかにも鉱山という雰囲気だが、そのものズバリの「採銅所」駅を過ぎた頃から再び民家が見え始め、途中から三セク路線である平成筑豊鉄道と併走する頃になると周辺は都会めいてきて、田川後藤寺に到着。

 採銅所付近の風景

 ここで乗り換えになるが乗り換え先の列車もやはり二両編成のキハ147。ここからは彦山方面に向かうことになり、すぐに辺りは山岳列車めいた雰囲気となる。沿線には棚田なんかも見えたりして結構風光明媚な箇所もある。そしてこれらの山岳地区を抜けた辺りが夜明。久大本線乗り換えの客が大量に降車するが、時刻表では日田で乗り換えても同じであることを確認している私は、そのまま終点の日田まで乗車する。

 彦山を過ぎた辺りの棚田

 日田はやや趣のある中規模都市というイメージ。ただ駅から出ている時間的余裕はなく、ここでは直ちに久留米行きのワンマンカーに乗り換え。これが真っ赤なキハ220系車両。先ほどの日田彦山線では真っ黄色の列車とすれ違ったし、ここの駅には真っ青な車両も留置してあり、とにかく原色の派手な列車の目立つ路線である。これで後は緑とピンクがいたら鉄道戦隊を組めそうである。

  

 ロングシート単両編成の車内は満員状態。列車は日田を出るとしばらくは山間の谷間という印象だが、すぐにだだっ広い平地に出る。九州山地の北辺に沿って走るという路線のようである。おかげで風景に変化が乏しく沿線風景は正直あまり面白くない。また単線非電化路線であるが、有名観光地の湯布院へのアクセス路線として使用されているために、特急との待ち合わせなどの停車があり(途中で特急ゆふいんの森とすれ違い)、それが久留米までの所要時間の長さにつながっているようである。

 特急ゆふいんの森とすれ違う

 1時間以上を要してようやく久留米に到着。それでなくてもロングシートは疲れるのに、車内が結構混雑していた上に、隣の席では子供がバタバタと大騒ぎし(何度か蹴飛ばされた)、向かいの席では一杯気分の親父が大騒ぎ(とにかくうるさい)、同じ車内では持っていた日本酒の瓶を割ってしまう乗客がいたり(臭いが車内に立ちこめて酒が苦手の私には地獄)などやたらに疲れる車両であった。

 JR久留米駅

 降り立った久留米は中規模都市というイメージ。駅では新幹線対応の工事も行われている。とりあえず駅前に出るが、駅前も工事中で仮設バス停はかなり遠くに。とりあえずトランクをゴロゴロと引きながら移動しているとバスが到着、このバスで次の目的地に移動する。次の目的地は私の長年の懸案事項の一つでもあり、本遠征の目玉の一つであった美術館である。目的地は中心繁華街を通り過ぎた若干郊外めいたところの公園内にある。

 


「ランキングで楽しむ石橋美術館」石橋美術館で4/18まで

 ブリジストンは大きな美術館を二つ有しているが、一つは東京のブリジストン美術館で所蔵品は西洋絵画が中心である。もう一つがこの久留米の石橋美術館で、こちらは日本人画家による作品、特に近代洋画がコレクションの中心となっている。それらの作品の中から人気投票によって選ばれた作品などを中心にした展覧会。

 人気投票1位は黒田清輝の「針仕事」で、2位はこの美術館の看板とも言える青木繁の「海の幸」であった。これ以外にも藤島武二、岡田三郎助などの作品が上がっており、いずれもなかなかに私好みの作品でもある。

 全般的にコレクションのレベルが非常に高く、とにかくそのことに一番驚かされる。見応えのある作品が実に多いので本来ならもっとゆっくりと時間を取って回りたかったのが残念。やはりいつか再訪したい。

 


 美術館の見学を終える頃にはもう夕方。今は冬なので公園内も殺風景だが、春にもなると花も咲くのだろう。この美術館はいずれ再訪したい。とりあえず今回はバスで宿泊ホテルを目指す。

 今回宿泊するホテルはグリーンリッチホテル久留米。例によって大浴場付き、朝食付きなどの条件を指定するとここしかなかったというホテルである。私は有線LANにこだわったために別館の方になったが、別館は建物が若干古い上にフロントや風呂などは隣の本館に行く必要があるので不便だが、その代わり若干宿泊料が安いという構成になっている。設備的には過不足はないのだが、やはり難点は部屋が私の好みよりは少々暗いことか。いつも思うが、ビジネスホテルにはなかなか部屋の明るいところが少ない。いつも大抵明るいのはドーミーチェーンで、これが私がドーミーインを愛用する理由の一つ。

 ホテルに入ったところで一息。若干早めであるが夕食に出かけることにする。とは言うものの、久留米には何のあてもない。ホテルのあるのは繁華街の近くであり、ざっと見渡しただけでも飲食店は多そう。とにかく夜遊びには不自由なさそうな街という印象だが、酒とは無縁の私にはそっちは関係ない。たまに雨がぱらつく天候だし、疲れたし、店を選ぶのも面倒になってきたので、ホテルの向かいにあった「とり翔」に入る。

 ここは博多地鶏の焼き鳥の店らしい。メニューをパラパラと見たところ「博多地どり刺身盛り合わせ(1800円)」というのが目についたのでこれを注文。さらにやはり夕食であるので「地どりおにぎり(340円)」を合わせて注文する。

  

 まずは突き出しが出てくるが、これがなかなかにうまい。しばらくして料理が出てくる。地鶏の刺身はずり、肝、ムネ肉、せせり、ささみ湯引きの盛り合わせで、肝はごま油をつけて食べるように指示される。なお鮮度が命なので30〜40分以内に食べてくれとのことで、グズグズしていると引いてしまうらしい。

 肝はごま油で頂く

 まずは肝にごま油をつけて。これが甘い。私は内臓系は苦手な人間なんだが、鮮度がよいのか変なクセがないので食べられる。また歯ごたえのあるずり、食べ応えのあるムネ肉、そして旨味のあるせせり、いずれもなかなかのもの。ただ食べやすさという点ではやはりささみの湯引きか。

 鶏の刺身は初めての体験であったがなかなかのものであった。夕食を堪能するとホテルに帰還。後は風呂の時間(男女入れ替え制である)までまったりと原稿打ちで過ごし、風呂で疲れを癒すと床に就くのであった。

  

☆☆☆☆☆

 

 翌日は6時に起床すると、早朝から活動を開始する。まずはホテルで朝食を摂り、ただちにチェックアウト。バスで大学病院まで移動する。と言っても何も病院に用事があるわけではない。用事があるのはここから少し歩いたところにある「久留米城」である。

 久留米城は江戸時代には有馬氏の城であったが、戦国時代には大友宗麟と龍造寺隆信による争奪戦が繰り広げられた地であるという。その後、豊臣時代に毛利秀包が近世城郭としての整備を開始し、田中氏が引き継いだ後に完成させたのが有馬氏のようである。その後、有馬氏11代を経て明治時代を迎え、廃城後には建物はすべて破却、今日では本丸の石垣だけが残っているという。

 本丸東部は見上げるほどの高石垣

 どうも知名度の点でやや落ちる城だったため、私は正直なところあまり期待していなかったのだが、突然に目の前に現れた石垣に息を飲む。高い。とにかく高い。石垣東側に回り込むと真下から見上げることができるのだが、高所恐怖症の私にはこれだけで目眩がしそうな高さ。この石垣はそのまま北側までつながっており、西側は 川に面している。こちら側から見た風景は城と言うよりも小山と言ったイメージ。多分、かつては城の堀はこの川とつながっていたのであろうと推測される。

左 旧大手門の跡  中央 本丸南西部石垣  右 本丸南東部石垣

 一渡り石垣を観察すると、本丸内に登ってみる。現在は本丸内は神社となっており、かつてを偲ばせる建造物はいっさい残っていないが、その広さがこの城の規模の大きさを感じさせる。

 本丸内は神社になっている

 久留米城の見学を終えたがバスの到着時間までにまだ余裕があるので、城下の見学がてらJR久留米駅まで徒歩で移動する。ちょうど久留米が誇る巨大地場産業であるブリジストンの広大な工場周辺を巡ることになる。かつてはこの工場の敷地は二の丸・三の丸であったと言うから、やはりかなり大規模な城郭であったと言うことである。

 

 JR久留米に到着。この後は熊本に移動の予定であったが、予定の列車までにかなり時間がある。この時に私の頭がめまぐるしく動き始める。どうも私の性格からいって、久留米駅でボーっと列車を待つのは性に合わない。瞬時に決断する「予定を変更しよう」。熊本ではなくて逆方向に向かい、鳥栖から吉野ヶ里遺跡を訪問しようという考え。本来ならこれは明日の予定にしていたツアーだが、今日は今のところは天気が悪くないので、予定を早めにこなすに越したことがないと判断した次第。

鳥栖駅に移動すると、長崎本線に乗り換え

 とりあえず快速で鳥栖に移動すると、ここでトランクをロッカーに放り込んで身軽になると、長崎本線の普通に乗り換えて吉野ヶ里公園駅を目指す。長崎本線に突入した途端に沿線はだだっ広い平地。農耕民族がこのようなところに集落を作らないはずがない。吉野ヶ里遺跡がここから出たのもある意味当然か。ただこのような地は農耕には良いが、防御を考えた場合には地形に頼りようがない。そう言うわけで環濠集落にならざるを得ないというわけだろう。

 吉野ヶ里公園駅にはすぐに到着する。駅自体は最近になって整備されたようで新しい。ここから「吉野ヶ里遺跡」を目指すのであるが、500メートルという表示がある割にはやけに遠い。かなり歩いたはずなのに残り距離が一向に減らないのである。確か最初の表示ではゲートまで5分とか書いてあったはずなのに・・・。まるでインチキ不動産屋の広告である。久留米でかなり歩いた後だけに相当キツイ。結局はゲートにたどり着いた時にはヘトヘトになっていた。

吉野ヶ里公園駅から延々歩き、ゲートが見えた頃にはヘトヘトに

 ゲートを入ると係員からの説明がある。それによるとここから先にはいくつかのゾーンがあり、最終的には発掘された墳丘墓を見学することになるらしい。で、その墳丘墓がどこにあるのかと見れば、はるか向こうの丘の上。それを見た時には私は思わず目眩がする。

    

 入場するといきなり環濠集落に出くわす。外壁は土盛の上に木柵を張り巡らしており、トータルで高さ2メートル以上ぐらいはある。その内側に堀を造り、その内側にはさらに逆茂木を並べているという堅固な構えによって守られた集落内に、半地下式の竪穴住居及び高床式の見張り台を複数並べた構造となっている。自然の防御のない地形では、これだけの堅固な構えが必要だったのであろう。ただこれだけの構えでも、実戦では果たしてどれほど役に立ったのかは分からない。特に私が気になったのは、火攻めに非常に弱そうであるということである。なお本来は堀は土堀のはずであるが、さすがにそれではすぐに崩れてしまうため、再現施設ではモルタルで固めてあるようだ。

  

 場内にはこの手の再現集落が複数築かれている。また遺跡の発掘物を展示した展示館もある。その展示館での説明によると、九州地区の人間は本土に比べると大柄な方であったが、それでも身長が女性で150センチ程度(私の好きなNHKの首藤アナぐらいか)で、男性でも163センチ程度だったという。当時の基準だと167センチの私でも大男になったようだ。

   弥生時代の女性と男性

 入場した正面にある環濠集落が南内郭でここの東には住居が散在する南のムラが、南には倉と市が存在するが、見学順路は尾根沿いに中のムラを過ぎて北内郭へと向かうルート。とにかく内部が広いのでくまなく回っていると足がもちそうにないし、それに建造物にもあまり変化がなさそうなので順路に沿って回ることにする。

要塞式の門と見張り櫓

竪穴式住居

見張り台から望む遺跡の風景

 北内郭の中には神殿などの高層建築が林立している。現在、神殿は修繕工事中であったが中は観察することが出来る。神殿は内部二層の高床高層建築で、1階は集落のメンバーが集まっての会議場で、2階は巫女が御神託を聞くための部屋となっている。単なる神殿というよりも、今でいう国会議事堂の役割も持っているようである。

左 北内郭(右の足場が工事中の神殿)  中央・右 神殿の1階と2階

 北内郭を抜けて西に進むと墳丘墓がある。外から見ると単なる方形の巨大な土盛だけであるが、ここは内部で大量の甕棺墓が発見されており、それを見学することが出来る。内部は保存のために温湿度がコントロールされているようで、入場した途端にモワッとした感覚があり、カメラのレンズが猛烈に曇る。ここからは多くの甕棺墓と共に副葬品なども発掘されており、発掘研究の最前線地区でもあるようだ。なおここからさらに西部地域では現在も発掘作業が継続されているようであり、この地域は一般客は入場できないようになっている。

左 外から望む墳丘墓  中央 入口  右 内部には遺跡が保存されている

 入口からかなり遠くまで来てしまったので、ここから構内を周回している電気自動車でゲートまで戻ることにする。場内交通として8人乗り程度の電気自動車が、入場ゲート付近と最奥の墳丘墓付近を遺跡の外側を回る形で1時間に2往復している。車自体はカートに毛が生えたようなものでとにかくよく揺れる。

 

 一周して感じたのは、ここは吉野ヶ里遺跡公園という名称よりは、佐賀弥生村の方がふさわしいと言うこと。とにかく敷地は広大であるし、実際に遊園地も隣接しているし、域内は遺跡と言うよりは再現建造物が主であるしということで、どこから見ても大型テーマパークである。それにしても九州はハウステンボスと言い、スペースワールドと言い、なんでこんなにテーマパークが好きなんだろう。

 それはともかくとして、ゲートまで帰ってきたときにはもうヘトヘト。久留米城との連チャンのせいで完全に足が終わってしまった。もう長距離を歩くだけの元気なんてどこにもない。再びあの距離を駅まで戻るのは気力・体力共に不可能と判断、タクシー乗り場に向かうと電話でタクシーを呼び出す。

 

 結局はタクシーで吉野ヶ里公園駅に帰ってくると、再び鳥栖にとって返し、トランクを回収してから特急リレーつばめで熊本に向かう。リレーつばめの車内は満員で、自由席は席を探すのが困難なほど一杯。ようやく席を見つけたが、「九州の特急は指定席を取るのが常識」という意味をようやく理解する。

  

 リレーつばめは山陽新幹線と九州新幹線を接続するための代替新幹線のようなものなので、新鋭787系電車が投入されている。デザインはかなり新幹線を意識しているようだが、荷物棚がオープンではなくふた付きであるところなど、何となく雰囲気が飛行機のような気もしないではない(私は飛行機に乗ったことはないが)。ただどちらかと言えば革張りシートのソニックの方が高級感がある。

 リレーつばめは久留米を過ぎると大牟田に停車、次の停車駅が熊本だが、その前に西南戦争の激戦で有名な田原坂を越える。「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ田原坂」・・・って、これは間違い。明らかに大井川と混同している。正しくは「雨は降る降る、人馬は濡れる、越すに越されぬ田原坂」である。さらにもう一つありがちな間違いを挙げておくと、越すに越されぬのは薩摩軍ではなく、官軍の方である。西南戦争では薩摩軍は熊本城を包囲するも結局は落城に追い込めず、最終的には撤退のやむなきに至っている。このためか田原坂を攻撃したのは薩摩軍だと思いこんでいる者が多いようだが、田原坂と熊本城の位置関係を考えるとこれはおかしいのに気づくはずだ。実際は熊本城包囲軍を攻撃に向かった官軍を、薩摩軍が田原坂で迎え撃ったのがこの戦いであり、だから「越すに越されぬ」のは官軍の方なのである。この戦いは日本で最初の近代銃撃戦と言っても良いような戦いで、一日あたり数十万発もの銃弾が飛び交ったと言われている。その銃撃戦のすさまじさを示すエピソードとしては、何と正面衝突して互いにめり込んだように変形している銃弾が多数発見されているという。

   

 この熊本の防御のための北の要衝を越えるとすぐに熊本に到着である。熊本に到着すると市内の移動は路面電車を使用することにする。とりあえずは一日乗車券を購入。このまま熊本中心部に向かいたいところだが、せっかくであるからまずは逆向きに終点の田崎橋まで乗ってみる。現在熊本駅は新幹線対応のための工事中であるが、駅前もそれに合わせて工事しているようで、熊本駅−田崎橋間の線路も移動させるべく工事が行われている。とは言うものの、実際はこの区間は車内はガラガラで、終点の田崎橋も特に何があると言うところではない。正直なところ廃線にならなかったのが不思議なぐらい。

出典 熊本市交通局HP

左・中央 新型低床式車両  右 田崎橋駅周辺は何もなし

 田崎橋で折り返すと、熊本市内中心部を目指す。辛島町で上熊本方面からの路線と合流するが、この辺りが熊本の中心街で人通りも多い。ここから熊本城前、市役所前といったところは熊本城至近地域で一番熊本らしいところ。水道町前までぐらい中心街が続くが、交通局前辺りから繁華街は一端途切れる。JR豊肥本線とすれ違うあたりぐらいからは郊外公園的な雰囲気があるが、終点の健軍町にはまた商店街の類が見られる。

田崎橋から折り返し

いろいろなタイプの車両とすれ違いながら、終点の健軍町に到着

 運行本数は多く、乗客もかなり多い。市民の足としてかなり定着している印象を受ける。なお熊本の都市としての大問題は交通渋滞。お昼時の決して混雑するとは言えない時間帯であるにもかかわらず、道路はかなり混雑しており、それが路面電車の運行にも影響を与えていた。これはもっと本格的に車の流入規制を検討した方が良さそうである。なお路面電車は車の運転マナーの影響を受けやすく、一台軌道内に入り込む馬鹿がいるだけでも運行に支障を来す。そう言えばかつて都市の路面電車が次々と廃線になった一因にはこれもあった。当時は特に道路の整備が遅れていたために各都市で渋滞が慢性化しており、線路内を走行するような馬鹿が続出して、路面電車がまともに運行できなくなったのである。今でもそこまでの馬鹿はいなくても、右折時に線路内に頭を突っ込んでくる馬鹿はいる。ちなみに不思議なのは、なぜか右折時には車体を斜めに停車しないといけないと考えている馬鹿が未だにいることだ。こういう馬鹿ドライバーは車がウインカーを装備している理由を理解していないのだろう。とにかく交通の妨げと事故の源は往々にしてこういう一部の馬鹿ドライバーに起因する。

  熊本交通センター(バスターミナル)

 終点の健軍町までの視察を終えたところで辛島町まで引き返す。今日宿泊するホテルはこの近くにあるはずである。今日宿泊するのはドーミーイン熊本。ホテルは熊本のバスターミナルの真ん前にある。とりあえずチェックインまではまだ時間があるので、荷物を預けると再び出発する。

 

 ホテルの隣の通りからは「熊本城」がすぐ真っ正面に見えている。なかなかに絵になる城である。櫨方門から入って南方から天守方向を目指すが、折り重なった石垣が非常に美しい城である。この石垣を間近に眼にした途端に心の底から感動が湧きあがり、思わず「ありえねぇ・・・」という言葉が口をついて出る。今、この時にこの場所に自分がいることが信じがたく、眼にしている光景が信じられないという感覚である。気がつくと、感動のあまりに涙までにじんでいた自分に再び驚く。建造物の類からここまで強い感銘を受けたのはほぼ初めての体験である。

 熊本城復元予想図(現地看板より)

左  櫨方門 中央 飯田丸五階櫓  右 連なる石垣が美しい

 一番最初に見学したのは飯田丸五階櫓。廃城後に取り壊されたが当時の写真などが残されていたことから、近年に復元された建物だという。最近の復元らしく、木造でかなり忠実な復元を行っている。櫓というには形が複雑で奇妙な印象を受けるが、そもそもは熊本城における独立城郭のような構成になっており、ここはその天守にあたるような構造になっているという。つまり城内に出城が入り込んでいると考えれば良いそうな。さすがに名将加藤清正が築いた城というだけあって並の造りではない。

左 裏側から見た飯田丸五階櫓 中央 その内部  右 櫓城から望む未申櫓

  実に絵になる天守

 そこからさらに抜けて一段上がったところに天守がある。鉄筋コンクリートの「なんちゃって天守」なので近くでよく見ると安っぽさがあるが、遠目に見る分には非常に絵になる天守である。なお熊本城では城郭全体を往時の姿に復元整備する計画を進めているとのこと。ただ最近の復元はかなりクオリティの高い復元だけに、この計画が完了すると天守閣が一番安っぽいということになってしまいそうである。実のところ、同様の問題は戦後に建てた「なんちゃって天守」を抱えている多くの城郭で起こっている。だから私は戦後のお手軽復元は、あの馬鹿な戦争での城郭破壊に次ぐ新たな破壊になってしまっていると嘆くのであるが。

 

 天守に登るには復元された本丸屋敷の下をくぐって裏側に回り込むことになる。この辺りの素直に目的地にアクセスできない構造は、さすがに軍事施設である城郭である。なお熊本城の堅固さは、西南戦争における薩軍の攻撃において、薩軍側は一兵たりとも城内に入場できなかったという事実によって証明されている。なお天守閣はこの戦いの数日前に不審火で焼失しているが、その真相は不明とか。普通に考えると薩軍に気脈を通じていた内通者による放火と考えられると思うが(特に旧士族階級には薩軍に対する同調者は少なくなかったはずだし)、籠城側司令官が兵の決意を固めるために自ら火を付けさせたという説も有力とか(砲撃戦が一般的なっていた当時には、天守閣は既に軍事的意味は失っており、下手をすれば単に的になるだけである)。

   本丸屋敷の下をくぐって天守入口へ

 天守の前にやってくると修学旅行生などでごった返している。また地元ガイドなのか、鎧武者がウロウロしていたりもしている。天守自体は鉄筋コンクリートの単なる近代ビルなので中身には特に面白いところはない。展示内容もよくあるパターン通りのもの。やはりどうしても「なんちゃって天守」の場合、展望台としての役割以外はあまり期待できないのである・・・。

天守よりの風景

上左 未申櫓  上中央 元太鼓櫓  上右 戌亥櫓  下左 宇土櫓  下中央 南方の風景

 天守を見学した後は、復元された本丸御殿内を見学。こちらはキンキラキンの障壁画なんかも復元されていていかにも豪奢な雰囲気。正直なところ、天守よりは数倍見学価値があろうというものである。

 天守台を降りてくると、熊本城見学するならここを訪問しないと嘘という現存の宇土櫓に立ち寄る。木造の急な階段がいかにも現存であることを感じさせる。天守の方はあんなに観光客がごった返していたが、こちらの方にほとんど来ないのか内部は閑散としている。もっともその方が、見学する側にも管理するにも好都合だとか。地元ガイドの方も、建物の傷みなどのことを考えると、観光客がワッとやってこない方が良いと明言されていた。

 現存の宇土櫓

 宇土櫓の見学を終えると頬当御門の方に抜けるが、こちらは熊本城の正面に当たるので、大天守・小天守・宇土櫓が立体的に重なってなかなかに格好がよい。櫨方門方面とはまた違った意味での感動がある。つくづく、いろいろな方角から見ても悉く絵になる城である。この「絵になる」という点では、熊本城は姫路城をも越えているかもしれない。姫路城は南方向からは非常に絵になるのだが、東西方向から見ると少々プロポーションが崩れるのが否定できない。その点、ここの城は方向が変わると違う表情を見せてなかなか良い。

左 南大手門 中央 戌亥櫓と石垣  右 元太鼓櫓

 熊本城の見学を終えたところで、プラプラと美術館まで歩く。本来はこの辺りまで城のエリア内らしく、近くに門らしきものがある。美術館では「人体の不思議展」を開催中であったが、私は人間の三枚おろしには興味ないのでこれはパス。常設展の方を一回りするが、なぜか印象に残る作品はなし。まあもうかなり疲労がきているし、落ち着いて美術館を回るという状況でないのも事実である。

 

 ここからさらに歩いて市立博物館の前まで来るが、ここで完全に足の方が終わってしまった。もう中に入る気力もなく、諦めてホテルに戻ることにする。とは言うものの、こんなところからどうやって帰ったらいいのやら。最悪はタクシーでも呼び出そうかと思ったが、よくよく考えるとタクシー会社の電話番号を知らない。とりあえず大きな道路に出るしかないかと歩いているうちに目の前にバス停を見つける。どうやら市内ループバスのコースのようだ。時間を確認すると後5分ほどで到着予定。これぞ神の助けというやつである。このバスで交通センターまで移動、ホテルにようやく帰りつく。

 

 ホテルに戻ると部屋で休息してようやく人心地つく。熊本ではある程度疲労することも考慮して、やや贅沢目のドーミーインである。ここは温泉付きなので早速温泉で一息と行きたいところだが、それをしてしまうと夕食を摂りに外に出るのが億劫になってしまいそうである。そこでとりあえず先に夕食に繰り出すことにする。

 最寄りの辛島町の繁華街をウロウロ。とりあえず夕食は熊本飯が良かろうということで、事前調査で店には目星をつけている。訪れたのはビルの地下にある「むつ五郎」。熊本飯では結構有名な店だという。

 まず注文はとりあえず「馬刺(2200円)」。ここの馬刺は霜降りの肉だが、意外としつこくなくて美味。私は馬刺は赤みの方が好みなのだが、この霜降りならいける。

 

 次に注文したのは「生姜焼き」。これはうまいのは当然だが、ボリュームもあってなかなか良い。さらに「心臓焼き」も追加。こちらは先ほどの生姜焼きよりは歯ごたえがある。

   

 再び生物ということで「たてがみ」を注文してみる。以前に食べたときはイカの刺身のような印象を受けたが、ここのはもっととろけるような感覚がある。なかなかに美味。

 

 これで最後はやはり夕食だということでお茶漬けで締め。以上で  円であった。味的には申し分ないが、CPがもう一息という気がしないでもない。馬刺が少々高すぎるのか。なおここはどちらかと言えば一杯飲む系の店なので、私のように酒も飲まずに猛然と30分ほどで食いまくる客というのはかなり異端だろう。何しろ入店したのは一番遅くて、店から出るのは一番早いというタイプの客なので、店からすると奇妙な客だろうと思う。ただそれでも嫌がられる風はなかったのが何より。

 

 夕食を終えたところでもう一つの美術館を訪問。それは大分近代芸術センター。ここは繁華街のビルの中にある都市型美術館で、そのために閉館時間も午後8時と遅いのがありがたい。この手の美術館が増えると、サラリーマンももっと日常的に芸術に触れやすくなるのだが、どうも未だに郊外型美術館が多くて夕方にはさっさと閉館してしまうし、中には名古屋ボストン美術館のように明らかな都市型美術館にも関わらず、土日には5時には閉館してしまうという意味不明な美術館もある。美術館の側ももう少し考えてもらいたいところである。

   

 芸術センターでは「メリーゴーランド」と銘打った現代作家の競演と赤十字の所蔵品の展示を行っていた。前者は例によっての一発芸寄せ集めなのだが、それなりのバリエーションはあって一応は楽しめた。後者については東山魁夷の作品があったりするのに驚いたが、一番印象に残ったのは東郷青児の作品。一つはいかにも彼らしい作品だが、もう一つの壁画用に描いたという作品は彼らしくないタッチと題材の作品で妙に印象に残った。

 

 美術館の見学を終えたところでホテルに戻ろうとするが、よく考えると市電の一日乗車券を持っていることから、ついでだから残りの上熊本駅までの路線も見ておいてやろうという気になる。辛島町で上熊本行きの列車に乗り換える。こちらの路線は途中で熊本行きの路線と分かれて直進、比較的狭い路地を抜けると、後は北行きの道路の中央を延々と北上する。熊本はどこでもあるが、どうもこの道路も渋滞がひどいようである。やはりこの都市は設計をやり直す必要がありそうである。

  市電の上熊本駅

 上熊本駅は一大ターミナルになっているようだ。隣にJR上熊本駅が見え、駅前広場の反対側には熊本電鉄の上熊本駅が見える。この駅をのぞくと、渋谷駅前に転がっている「青ガエル」(私は個人的にケロロ列車と呼んでいるが)こと東急旧5000系が停車している。渋谷駅前のは単なる飾りだが、ここのは現役車両であるようだ。

 上熊本周辺を視察すると、再び同じ列車で折り返してホテルに戻ったのだった。ホテルに戻ると温泉でゆっくりと疲れを癒し、しばしこの原稿を執筆してから眠りについたのである。

  

☆☆☆☆☆

 

 翌朝の目覚めは最悪だった。夜中に激しい下痢をして、それがそのまま朝まで続いてしまったのである。ただ吐き気や腹痛は一切ない。とにかくひどい下痢という状態。食あたりも考えたのだが、私の体質として食あたりの場合にはまずは吐き気が来る。思い当たるのは風邪。昨日は熊本がやや暖かめの上にとにかく歩き回ったから、汗をかいては上着を脱いで、そのうちに寒くなってきたら上着を着るということを繰り返していたので、風邪をひいてしまった可能性はある。風邪が胃に入ったのに、馬刺しのような生ものを食べ過ぎたせいか。それとも昨晩の風呂上がりのコーヒー牛乳か。

 しかも体調の悪さは下痢だけではない。昨日2万8千歩も歩いたせいで、足の裏にマメが出来てしまって痛いのなんの。靴を履こうとして靴べらを当てた途端に、かかとに出来たマメにふれて思わず悲鳴。これはかなり行動を制約されそうだ。

 とにかく下痢を何とかしないと動けない。とりあえずホテルで下痢止めをもらってしばらく様子を見ることにする。それにしてよく昨日に吉野ヶ里を訪問したものだ、今日のこの状態なら吉野ヶ里なんてとんでもないところである。もっとも久留米城、吉野ヶ里、熊本城という三連コンボのせいで足の方はつぶれてしまったのであるが。 

 とりあえず9時前まで様子を見て、回復とはほど遠いものの動けないという状態ではなくなったのを確認してからホテルをチェックアウトすることにする。ただまだ1時間おきぐらいにトイレに通う必要がある状態。過激な下痢止め策として、とりあえず腹の中にあるものを全部出してしまって空の状態にしたが、それでもまだまだ危険状態。今日の予定は最小限に絞るしかないようだ。

 

 さて今日の最初の予定だが、昨日視察の余裕がなかった熊本電鉄の視察からである。熊本鉄道は熊本郊外の御代志とJR上熊本及び藤崎宮前を結ぶ鉄道路線である。しかし年々収益が悪化しており、廃止の論議も起こっている(熊本電鉄としては「このままでは廃線にせざるを得ない」と揺さぶって自治体の支援を引き出そうとしているようだが)。同社では起死回生の策として、全線をLRT化して市電と相互乗り入れするという計画を考えているという。 

 駅案内看板より路線図

 さてまずは目の前の交通センターに行くと、藤崎宮行きのバスに乗車する。熊本電鉄の苦戦の大きな理由の一つに、市の中心部まで乗り入れていないということがあると思われるのだが、実際にこの藤崎宮駅も意味不明な場所にある。バス停で下車したものの周りを見渡しても駅のようなものは無し。ウロウロしているうちにようやく線路を見つけたのでそれに沿って南下したが、どこに駅があるのか不明。結局は雑居ビルの奥のような訳の分からない場所に駅を発見。駅を見つけるのに手間取ったので、危うく列車に乗り遅れるところであった。

藤崎宮駅は本当にわかりにくいところにある

 車内は乗客が3人ほど。やはりこの時間帯のこの方向には乗客はあまりいないようである。列車はそのまま住宅街の裏通りを抜けるような形で走行。電化されているが単線路線であり線形も良くないのか速度はあまり出ない印象。二つめの北熊本に到着すると、上熊本方面からきた青ガエルが待っている。そちらから乗り換えてくる乗客が数名。やはり意味不明の場所にある藤崎宮よりも上熊本の方が利用者が多そうである。この路線は三方向からやってくる路線が合流するこの北熊本でタイミングを合わせるタイプのダイヤになっているようだ。島根の一畑電鉄と似たパターンのダイヤ構成である。

 北熊本まで沿線はこんな感じ

 北熊本以北はこんな感じ

 列車はそこからは道路沿いをひたすら北上していくルート。沿線にはそれなりに住宅はあるし、また電波高専などの学校もあり鉄道運営の条件としては最悪というほどではない。やはり最大の問題は沿線のモータリゼーションなんだろう。終点の御代志駅は実に何もないところ。バスの停留所と隣接している。

 御代志駅周辺にはバス停以外本当に何もありません

 御代志でしばらく待ってから、乗ってきた列車に乗車して引き返す。北熊本で青ガエルに乗り換え。先ほどの御代志行きと違ってこちら方向はかなり乗客も多い。熊本電鉄は全線単線電化路線であるが、藤崎宮−御代志の路線が途中ですれ違いがあるのに対し、北熊本−上熊本の路線は支線のような形になっていて、一両の青ガエルが往復運転されているようである。北熊本からは熊本市街の周辺をなぞるような経路を辿り、上熊本に到着する。

北熊本駅で青ガエルに乗り換えて上熊本駅に到着
 この路線の現状を考えると、やはり熊本中心部に乗り入れをしていないというのは致命的な利便性の低さになっている。そう言う点ではLRT化による市電との相互接続は一つの解決策だろう。藤崎宮からもう数キロ路線を延長して水道町辺りから市電に乗り入れることが出来れば効果はかなり期待できると思われる。ただ明らかな問題は藤崎宮周辺の混雑。ここから水道橋に接続となると、国道の中央を通るルートが現実的だと思われるが、この道路自体がかなりひどい渋滞に見舞われている現状である。ここに果たしてLRTを通す余裕があるか。どちらかと言えば、先日訪問した上熊本の方が互いの駅の近さを考えると、相互乗り入れはかなり現実的であるが、ここで相互乗り入れしても、市の中心部にアクセスするにはグルリと遠回りになってしまうので利用者にメリットが乏しい。

 熊本は明らかに交通渋滞が都市の大問題となっている。これはインフラ整備が遅れているところに急激にモータリゼーションが進行した結果の不整合だろう。そう考えると、根本的に都市を再設計する必要があると思われるが、市民の合意を取り付けるのは困難だろうし、それだけの実行力のある政治家が登場するかどうか・・・。熊本電鉄のLRT化は本来はその大計画の一環として行われるべき計画でもある。とにかく一番の愚策は、目の前の採算性だけを重視してせっかくある鉄道を廃止してしまうことである。一度廃止してバスにしてしまった路線は二度と復活できない。そして鉄道が廃止された都市は次第に衰退に向かう。これは今まで各地でさんざん繰り返されている図式である。

 これで熊本での予定は終了である。さんざんいろいろ苦言を呈したが、基本的には私は路面電車のある城下町は好きであり、この都市にも一種の愛着を感じている。いずれ遠くない未来にここを再訪するであろうと考えている。だからこそこの都市には、早計な判断で衰退に向かって欲しくないのである。

 

 若干の名残はあるが、上熊本から特急有明に乗車すると次の目的地の二日市を目指すことにする。特急有明は明らかにリレーつばめと同型の車両を使用している。自由席車内の混雑は結構ひどく、「九州では特急は指定を取るのが常識」という言葉をかみしめるような状況。ただ幸運にも何とか座席は確保できる。

     特急有明はリレーつばめと同型車両

 さすがに特急だと移動にはさほど時間はかからない1時間強で二日市に到着。次の目的地はこの近くに出来た九州国立博物館である。トランクを駅のロッカーに放り込むとバスでの移動。ここで移動のコースとしては2つ考えられる。1つは西鉄二日市駅までバスで移動して、そこから西鉄で太宰府を経由するルート。もう1つは直接にバスで博物館前まで行くルートであるが、こちらのバスは1時間に1本程度とか。

  JR二日市駅

 時刻表を調べると博物館行きのバスはまもなく到着するようであるのでこれを待つことにする。しかしこれは結果として大失敗であることが後で判明する。というのはとにかく目的地まで無駄に時間がかかる(バスがかなり大回りをする)し、到着したバス停も「博物館前」とは名ばかりで入り口までは延々と上り階段を歩かされることになる(しかも雨による土砂崩れがあったとかでさらに大回りさせられる)し、現地に到着した時には「だまされた」という言葉しか出なかった。

 

 博物館自体は非常に巨大な建物で新しい。ただいかにも山の中に無理矢理作った印象のある施設で、そのせいで雨で土砂崩れなんかが起こってしまったようである。内部もとにかく広大。東京、京都、奈良の国立博物館はいずれも複数の建物があるが、ここは単独の建物で巨大なものを建設したようである。そのため、単独の建物としては国立博物館では最大だろう。

とにかく馬鹿馬鹿しいまでに巨大な建物

 特別展は妙心寺展を開催中。妙心寺展はかつて京都で開催されていたが、それの巡回ではなくて全く別の展覧会と言って良いほどに中身をリニューアルしているという。確かに妙心寺だけでなく九州の寺院の寺宝も併せて展示してあり、兄弟梵鐘の展示など全く新しい展覧会というイメージであった。ただ私は彫刻としての仏像は嫌いではないが、お寺系と基本的には相性が良くないので楽しめる部分と面白くない部分が半分半分というところ。

 特別展の上の階には常設展示が。こちらは九州らしく日本と大陸にまつわる出土品の展示。これがまたいかにも国立博物館らしく圧倒的な物量で、そちらに興味のあるものならかなりじっくり楽しめそうだが、私は考古系に対する興味が今ひとつなのと、とにかく今は体調が悪い(腹は不調だし、足もかなりキツイ)のでじっくり見ている余裕など無し。ここはいずれ改めて訪れることにしたい。

 

 一回りしたところでかなり疲れた。特に強制的に下痢を止めるために朝から水と食料を断っているので、空腹もさることながらかなり脱水症状が来ている。そこでここらで一息つこうと喫茶コーナーに向かう。館内の一階はホールとショップになっているが、妙心寺展絡みで京都物産展のようなものが開催されており、京菓子があちこちで販売されており、私もよく見たことのあるような店が出店している。とは言うものの、関西の人間が何もわざわざ福岡で京菓子を買う意味もないので、さっさと通り抜ける。それにしても妙心寺展のせいか、やけに仏教関係者の姿が目立つ。中には僧侶が引率している団体旅行という趣の連中もいる。

 喫茶コーナーにたどり着くと「ぜんざいセット(ほうじ茶付)」を注文。ほうじ茶を頂きながらようやく人心地つく。また温かいぜんざいが空腹に染みる。とは言うものの、これを食べ終わるやいなや、すぐにトイレに走らないといけないのが現在の私の体調である。

 

 国立博物館の見学を終えるとトンネルを通って太宰府側に抜ける。ちょうど太宰府の横から博物館までエスカレーターと動く歩道によるルートが完成している。やはりここに来るときはこちらから来るのが正解。私が来た裏ルートは明らかに間違いである。車で来る者ならともかく、公共交通機関で来る者にとっては裏ルート側は全く無意味と断言しよう。

左 動く歩道と  中央 エレベータを乗り継ぐと  右 ここに出る

 太宰府は小学校の修学旅行以来だが、有名な寺院の割には社殿がいかにも新しくて、そう言う点での趣には欠けているようである。またすぐそこに太宰府遊園地があるなど意味不明な寺院。もしかして寺院のマルチ経営の走りだろうか。とりあえず学問の神様と言うことで、私の仕事上での成功を祈願して太宰府を後にする。

   太宰府の建物は意外と新しい

 太宰府の参道筋はかなりにぎやか、と言うか竹下通状態である。名物の梅ヶ枝餅を扱っている店だけでも無数にあるが、それとは無関係のスイーツ店もやたらに多い。しかし私はあいにくの体調なのでこれらをすべてパス。今回の腹痛は私のダイエットを成功させるための天の配剤だったのだろうか・・・。ただあまりに苦しい。

  竹下通化している参道筋

 竹下通を抜けると西鉄の太宰府駅に到着する。ここから西鉄二日市駅まで移動。九州私鉄の雄である西鉄の車両は何の面白みもない典型的な都市型私鉄車両。二日市駅からはバスでJR二日市を目指すのだが、バス停の位置が分からずにウロウロしているうちにバスが行ってしまい、次のバスまで30分以上待つ羽目に。体調が良ければ歩くところだが、とにかく足が終わってしまっているだけにどうしようもない。

    西鉄二日市から電車で移動

 JR二日市でトランクを回収すると快速列車で博多を目指す。これがやけに飛ばす。沿線もこの辺りからはひたすら市街地でとにかく面白みはない。福岡南駅で増結と後続車待ちのためにかなり長い停車をした後、ようやく博多に到着する。

 

 博多駅はごく普通の大都会であった。さすがに九州の中心。大阪、名古屋に匹敵する大都市である。とりあえずは地下鉄でホテルを目指す。目的のホテルは地下鉄祇園駅のすぐそばにある。今回の宿泊ホテルはドーミーイン博多祇園。熊本に続いてのドーミーインである。

 ホテルに入ると一息。腹の具合もようやく落ち着いてきたようであるが、体調の方はまだまだかなり悪い。特に足の痛みが洒落になっていない。今日はこのままおとなしくするか・・・と思っていたのだが、いざホテルに収まると貧乏性が頭をもたげてじっとしていられない。結局は夕食がてら外出することに。

 

 もう既に5時を回っているので美術館などで開いているところはほとんどない。しかし一つだけ福岡アジア美術館は8時まで開いている。そこでそれを訪問することに。

 目的地はビルの7階。典型的な都会型美術館。私が訪問時はジュディ・オングの木版画展とアジア美術コレクションを展示していた。ジュディ・オングの木版画については、芸能人の趣味という域を明らかに超えており、かなり本格的な芸術作品であった。「天は二物を与えず」なんて言うが、これはただの凡人の気休めであって、現実には二物も三物も与えられている人間はいる。そう言うことを考えずにはいられないのであった。なおアジア美術の方はやはり欧米系とは感性に違いがあるが、基本的には現代アート系であるので私の興味からはずれるものであった。

 

 さて夕食であるが、実のところ全くあてがない。いや、正確に言うとあてがなかったわけではないが、そこまで歩ける状態でないことに気づいたのだった。しかもやはり風邪をひいているのか、わずかに寒気を感じ始めている。そこで地下鉄でさっさとホテルの近くまで帰ると、ホテルの向かいにあるラーメン屋「長浜ナンバーワン」で夕食を済ませることにする。注文したのは「チャーシュー麺(650円)」

 

 博多ラーメンと言えばとんこつでしつこいというイメージがある。実際ここのラーメンも白いスープでいかにも脂っこそうである。しかし一口食べてみると見た目とずいぶんイメージが違う。意外なほどにあっさりしているのである。おかげで非常に食べやすく、実に私好み。また硬めの細麺というのも私の好みに合致している。正直なところ適当に選んだ店だったので大して期待していなかったのだが、なかなかにうまいラーメンを食べることが出来た。さすがに博多は侮れない。

    

 結局はこのラーメンが今日一日で口にした初めてのまともな食事であった。ようやく生き返った私は、ホテルに戻ると大浴場でゆったりと体を温め、この日はやや暖房を高めに設定して早めに床についたのであった。

  

☆☆☆☆☆

 

 いよいよ最終日である。前日の温泉の効果か、朝の起床時には軽い頭痛はあるものの熱っぽさはなくなっていた。また幸いにも胃腸の具合も復活。よしこれで今日は全力でいけそうだと立ち上がった途端に「あいたたた」。残念ながら足の豆の方はそう簡単に治るものではなく、こちらの制約はつきまといそうであることは覚悟しないといけないようだ。

 ホテルで朝食を済ませると7時台にチェックアウト。体調はほぼ復活したものの足が完全に死んでいる状態なので、今日は鉄道を中心にしたメニューに切り替える。当初の予定では福岡市内をあちこち回るつもりだったが、この足の状態ではそれはまず不可能。どうせ福岡はいずれ再訪することもあると腹を括り、市内巡回計画は大幅に縮小する事にした。

 

 そういうわけでまずは「21世紀の地域振興と交通について考える市民の会」としてのサークル活動から開始することにする。今回の視察対象は博多から桂川を結ぶ篠栗と宇美から西戸崎を結ぶ香椎線である。

 まずは博多から篠栗線で長者原を目指す。乗車したのは817系電車。驚いたことにこのシート、木質ベースの上に革張りクッションという独特のものである。かもめといい、JR九州は革張りが好きなんだろうか。なお篠栗線は単線路線だが電化されており、  線として筑豊本線と一体化した運営をされているので運行本数は結構多い。それだけにすれ違いタイミング取りなど運行は結構大変そうだ。

   

 市街地を抜けるような路線を走っているとすぐ上を飛行機が飛んでいく。福岡は飛行機の利用率の高いことで知られる都市だが、それは福岡空港の利便性の高さによるものだろう。何しろ博多から地下鉄で二駅である。これでこそ使う気にもなると言うもので、つくづく関西国際空港なんて造ったのは大馬鹿である(いっそのこと和歌山地方空港に名前を変えた方がよい)。ましてや成田空港など正気の沙汰ではない(これも千葉空港に名前を変えるか)。

 数分で長者原に到着。ところでこの駅名だが「ちょうじゃばる」と読むのが正しい。田原坂(たばるざか)といい、原を「ばる」と読むのはこの地方の方言だろうか。

  長者原で香椎線と篠栗線は直行 下が篠栗線

 長者原では香椎線に乗り換え。香椎線も単線だがこちらは非電化である。また香椎線と篠栗線は90度の立体交差をしており、線路は直接にはつながっていない。ここからまずは西戸崎方面を目指す。

 沿線はまだ博多の市街地の名残があるという風景。香椎で鹿児島本線と遭遇すると、さらに先で立体交差して乗り越えていく。ここからは半島状の海の中道に入るのだが、そもそもの地盤が砂州であるためか路盤が悪いようで、列車が飛び跳ねるように上下に振動する。

    海の中道

 西戸崎は特に何があるというようなところではない。あえて言うなら開発中のリゾート地といったところか。ただウォーターフロントではあるものの、ここは天候が荒れたときにはとんでもないことになるような・・・。

   西戸崎駅周辺は特に何もなし

 西戸崎ですぐに折り返すと、香椎で乗り換え、そのまま宇美を目指す。長者原から先は急に沿線が田舎めくのが印象的。明らかに周辺風景はローカル線なんだが、運行本数は多いし、利用客もそれなりにいる。

  途中で乗り換え

 宇美は何と言うこともない田舎町という印象。ちなみに近くに宇美八幡があるらしいが、私は神社仏閣マニアではないので特に興味はない。さっさと引き返すことにする。

  宇美駅駅前

 長者原まで引き返してくると、ここでさらに篠栗線を奥まで進むことにする。この方向は長者原を過ぎるとすぐに辺りは閑散とする。そのうちに段々と山の中に。途中の篠栗には民家が密集しているが、それを過ぎると再び山の中。長いトンネルを抜けるとそこは完全にローカル線の世界となる。やがて筑豊本線との合流駅である桂川に到着、私はここで下車して引き返すことにする。

  トンネル東部はこんな感じ

 筑豊本線は若松から原田に至る路線だが、その中間部分の折尾−桂川部分は篠栗線及び鹿児島本線の一部を加えた福北ゆたか線として運営されているので本数もそれなりに多いが、それ以外の部分は完全にローカル線化しているという。特に桂川−原田間(通称原田線)は1日に運行本数が8本という超閑散路線になってしまっているという。その原田線からやって来たと思われるキハ31形もホームに見られるが、次の発車時刻を確認すると1時間以上先。やがてその列車はどこへとなく去っていく。

  桂川駅に停車中の原田線車両

 しばらく待った後、小倉方面からやってきた快速電車が到着するが、中は超満員。博多まで立ち通しを余儀なくされる。正直、今の体調ではこれはきつい。

 

 ようやく博多駅に到着した時には昼頃。とりあえずトランクをロッカーに預けてから市内に繰り出そうと考えるが、ここで全くロッカーの空きがないことに悩まされる。博多駅では数カ所に分かれてロッカーがあるのであるが、それらがことごとく塞がっている。駅の規模に比べてロッカーの絶対数が少なすぎるのである。正直、今まで各地の駅を回ったが、こんなお粗末な体験をしたことは初めてである。結局はあちこちをぐるぐる回って、ようやく偶然に空きロッカーを見つけるまでに30分以上をロスすることになってしまった。

 トランクをロッカーに預けてようやく身軽になると、目的地までバスで移動。最初の目的地は福岡市立美術館である。この美術館は福岡城に隣接しており(と言うか、そもそも福岡城の敷地内にある)、美術館見学後は福岡城も見学しようという目論見がある。

 

 美術館に向かうバスは、博多最大の繁華街である天神地区を抜けて「福岡城」周辺を巡る。何も残っていない城と聞いていたが、こうして周囲を回ってみると意外に敷地は大きく、また内部の高低差もそれなりにある。これを見た時点で、この城を見て回るだけの時間も体力も現在は残っていないと判断、福岡城の見学は後日に回すことにする。

福岡城はかなり大きな敷地
 

 美術館はバス停からやや歩いたところにある。規模は大きい。特別展では「トリノエジプト展」を開催中であったが、この展覧会は東京で見ている上に、近日中に神戸にも巡回する予定であるのでこれはパス。常設展の方を見て回る。コレクションはかなり多彩。陶器の類から現代アートまで様々。それなりに面白いものもあるのであるが、残念ながら足の方が既に言うことを聞かなくなってきており、展示に集中できない状態。

  福岡市美術館

 美術館の見学を終えた頃には本格的に足の方が終わってしまっていた。本音としてはさっさと帰途につきたいところだが、まさかそういうわけにもいかない。とりあえず県立美術館については後日に回すのはやむを得ないとしても、もう一カ所、市立博物館だけは訪問しないわけにはいかない。ただその移動手段が思い当たらない。調べればバスがあるのかもしれないが、博多のバス路線はさっぱり分からないし(やはり旅行者には一番分かりにくいのはバス路線であり、この点でも路面電車にメリットがある)、もう既に停留所まで歩くのもキツイ体の状況になっていることから、やむなくタクシーを利用することにする。

 結局はタクシー代1300円を要して現地に到着。かなりコストを要してしまったが、とにかくもう体力に余裕がないので仕方ない。

 


「ポンペイ展 世界遺産 古代ローマ文明の奇跡」福岡市博物館で3/7まで

 

 火山の噴火によって多くの住民もろとも一瞬のうちに火山灰に埋もれてしまった悲劇の都市ポンペイ。かつては単なる伝説と言われていたのであるが、現実に遺跡が発掘されるに至って考古学的には非常に価値の大きな遺跡となっている。ゲーテが「後世にこれほどの喜びを与えてくれる悲劇はない」と語っているように、惨劇で一瞬に壊滅してしまったことで、古代ローマの都市がそのままタイムカプセルのように今日に伝えられることとなったのである。それらの貴重な発見物を展示した展覧会。

 他の遺跡などとは一番違うところは、壁画の類が多数残存していることである。通常の遺跡であるとそれらは風化し、色褪せしてほとんど残ることがない。しかしポンペイにおいてはかなり状態の良い壁画も発見されており、往時の煌びやかな都市の姿を思い起こさせることが出来る。

 個人的には一番印象に残った展示物は、風呂好きと言われていたローマ人が使用していた家庭風呂。燃料をガスに変えればそのまま現代でも通用するようなシステムになっており、古代ローマの技術レベルでの高さを十二分に感じさせるものであった。やはり中世暗黒の時代の狂信と迷信にさらされる前のローマ帝国は、かなり文化レベルが高かったということをつくづくと感じさせられたのである。

 


 

 この博物館、とにかく規模が大きくて常設展示の方も面白そうなのであるが、もう既にそっちを回るだけの体力も時間も残っていない。残念ながらこれは次回以降の課題ということにして博物館を後にする。

 しかし困ったのは帰りの行程である。辺りを見渡してもバス停はどこにもないし、かといってさすがにここから博多駅までタクシーに乗る度胸も財力もない。結局は最寄りの地下鉄の駅まで歩いたのだが、これが結構な距離。最終的にはこれが私の足へのとどめとなってしまった。

  地下鉄で博多へ移動

 博多駅に到着するとトランクを回収、みやげものを購入した後、特急有明で小倉を目指すことにする。特急待ちの間にホームで食べたラーメンが結局はかなり遅めの昼食。どうも考えてみると昨日からラーメンしか食べていない。

土産物  左 モンドセレクション最高金賞受賞の博多通りもん  中央・右 九州地区限定のひよこのピィナンシェ

 特急有明は鹿児島本線経由で小倉を目指す。沿線は途中で山の中があるが、概ね住宅が散在しているところを抜けていくイメージ。大体言えるのはやはり○○本線と名の付くところは概して車窓は面白くないと言うこと。途中で筑豊本線との合流駅である折尾を過ぎると、突然にスペースシャトルが見えるが、これがテーマパークのスペースワールド、やがて左手に大きな赤い橋が見え始め、周辺がゴチャゴチャし始めるとまもなく小倉に到着である。

  スペースワールド

 小倉に到着すると新幹線の券売所に行列ができている。やはり連休最終日ということで帰りの客が多いようだ。私はそれを横目に見ながら自販機でエクスプレス予約のチケットを受け取るとレールスターで帰途につくのであった。なおこの日は小倉駅で買い求めた弁当が夕食となったのである。

   

 終わってみると反省する点が多々ある遠征であった。何よりも途中で体調を崩してしまったのが不覚。風邪が腹に入っての下痢はアクシデントとしても、足を壊してしまったのは完全にミスである。日頃から鍛錬して体を鍛えておく必要があるが、それとともに自分の限界を超えない日程にしておく必要性を痛感せざるを得なかった。どうしても体力に余裕のある前半に調子に乗って無理をし過ぎて、終盤になって疲労で行動力ががた落ちというパターンが多いような気がする。今回なんか、最終日での博多では予定の目標の半分もこなしていない。福岡城と県立美術館は完全にスルーになってしまったし、市立美術館と市立博物館もじっくり見学とはほど遠い状況になってしまった。これは今後の反省材料である。

 なお遠征から帰宅後、治まっていたと思っていた風邪が完全にぶり返し、2日後には38度以上の高熱を発して見事にぶっ倒れることになってしまった。幸いにして熱は1日寝ていたら大体下がったが、腹の不調は1週間近く続いたのであった。また足の方も数日はまともに歩くのがつらいという状況で、つくづく無謀な遠征だったと思い知ったのである。

  

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