展覧会遠征 佐用編

 

 さて今回の遠征であるが、播州の佐用方面を目指すこととした。智頭急行沿線のこの地域は以前から私が興味を持っている地域だが、昨年の豪雨で大被害を受けたことでも知られている。遠征計画は以前からあったものの、この豪雨の件で延期になってしまっていた。最近、ようやくその被害も癒えてきたとのことであるし、この際だから現地に直接いくらかでも経済支援になればとの考えもある。

 

 山陽自動車道から播磨道に乗り換えると播磨新宮まで、この道路は将来的には中国道の山崎ICに接続する予定というが、果たしてこれは実現するのやら。現在ではあまりに中途半端なところで終わっていることから、利用車はほとんどなさそうである。また播磨新宮で降りたところにある学研都市もSPring8は全国的に知られているが、都市開発自体は低調そのものであり閑散としている。筑波の二匹目のドジョウをねらったこの手の学研都市は各地で計画されたが、東京という大都市を後背に控えた筑波と違い、それ以外の場所は各地で失敗しているようだ。後背に大阪を控えた田辺の学研都市でさえうまく行っていないのだから、後背に何もない播磨新宮などは推して知るべしである。

 播磨新宮から山道を抜けると佐用の市街に到着する。ここが昨年は水浸しになった地域である。こうしてみるとそれなりに人口はありそうだが、確かに山間の川縁の低地に位置している。現在の佐用川はあの大惨事が信じられないほどおとなしく静かな川であるが、ひとたび豪雨となれば牙をむくのであろう。

 

 まずは今日の第一目的地だが、この佐用から少し南下した上月である。ここには「上月城」という山城があり、かつて諸勢力間で争奪戦が繰り広げられたところである。しかしこの城が何よりも有名になったのは、尼子氏再興を目指す山中鹿之助が尼子氏末裔の尼子勝久を立てて、秀吉の支援を受けてここに籠もった上月合戦によってである。この合戦において毛利は10万を超えるの兵力を送り込んだが、一方の秀吉は三木城攻略中の上に東播磨も未だに去就が定まっていない不安定な状況のため、尼子残党軍に十分な支援を送れなかった。さらに秀吉に信長からの撤退命令が出たこともあって鹿之助らは完全に孤立。見殺しにすることが忍びない秀吉からは早急に撤退するようにとの書状が送られたが、彼らはそれを拒絶して玉砕した。尼子勝久らは城兵の助命を条件に自刃、捕らわれた鹿之助は連行される最中に処刑されたという。

 上月歴史資料館

 まずは車を上月城近くの歴史資料館に止めるとそこの見学から。歴史資料館というものの展示内容は民俗資料館の方が近いようで、内部は地元で行われていたという紙漉に関する資料などが多い。現在も有志によって紙漉が行われているようである。

 出典 上月歴史資料館HP

 一渡りの見学を終えて、上月城の地図も入手するといよいよ上月城跡の視察に入る。上月城はこの資料館の向かいのそう高くない山の上にある。山頂に本丸跡があり、そこまでは一応登山道は通っている。とは言うものの、簡単に丸太で足場階段を作ってあるだけであり、足を踏み外すと転落する危険はある。

   登山道入口と登山道

 ところで一般的に山城見学に適しているのは冬だと言われている。それは夏だと汗だくになってしまうということもあるが、山城見学で最大の脅威であるマムシやスズメバチの活動が鈍るということが非常に大きい。またもう一つのメリットとして、この時期は山の木の葉が落ちているので、見通しが良いということもある。この時も枝の合間から下界の風景が見え、現在の標高がどの程度か分かる。

左・中央 途中の堀切  右 本丸手前の曲輪

本丸の風景 右の奥に見えるのが赤松氏の供養塔
 

 堀切や曲輪の跡をいくつか抜けるとようやく山頂に到着、ここが本丸跡である。ここにはかつてこの城を治めていた赤松氏の供養塔が建てられている(この城を守っていた赤松政範は秀吉の攻撃によって自害、その後に尼子氏残党がこの城に入った)。この本丸を取り巻くようにいくつかの曲輪があり、尾根づたいに西方の二の丸につながっている。

     

尾根づたいに二の丸に移動できる

 二の丸方向からはいくつかの堀切を超えて登山道が麓まで通じている。ただこの登山道、整備が中途半端なのか、途中で倒木などがゴロゴロあったり半分道が崩れていたりなどやや危険な箇所がいくつかある。また大雨でもくれば危ないのではないかと思われる。

左 二の丸からの風景  中央 ここをさらに下ると  右 三の丸がある

左 さらに堀切を過ぎて下る  中央 遊歩道と分岐して下山  右 しかし道はとんでもない状態
 

 下まで降りると麓を巡る形で入口まで戻ってくる。こうして麓を巡ると斜面は比較的険しく、とてもよじ登って攻める気など起きない。この城を攻略した毛利氏も、大軍による力攻めではなく、完全包囲で食料と水を断つという月山富田城攻めでも行った持久戦を仕掛けたらしい。時間はかかるが味方の損耗を防ぐかなり有効な戦術であって、毛利らしいとも言える。これに対して後詰めのない絶望的な籠城戦を強いられていた尼子側はなすすべもなかっただろう。猛将山中鹿之助と言えども城兵の士気の低下を食い止めることは出来ず、逃亡兵が相次いだとのことであるから、かなり悲惨な状況である。

 

 上月城の見学を終えると次は平福に移動する。平福は因幡街道の宿場町で川を利用した水運でも栄えた町である。現在も川沿いに江戸時代の屋敷や土蔵が建ち並ぶ風情ある町並みが残っているという。

 佐用を通過して北上するすると右手の山の上に城らしきものが見えてくる。これが「利神城」だという。利神城はそもそもは別所氏によって建造されたものだが、秀吉の中国攻めの際に山中鹿之助らの攻撃により落城、その後は毛利方の宇喜多氏が所有し、江戸時代初期には池田氏によって整備されるがその後に廃城となって今日に至っているという。

  遠くの山に石垣が見える

 非常に見事な石垣が下から見えるから後で登ってみたいと思いつつ、まずは昼食を先にすることにする。道の駅宿場町ひらふくで車を止め、そこで昼食とすることにする。注文したのは「鹿肉コロッケ定食」。どういう点が鹿肉なのかは分かりにくかったが、牛コロッケなどに比べるとあっさりしているイメージであり、普通にうまい。とは言うものの特徴はなし。

 

 なお参ったのは隣の席がチェーンスモーカーのオバハンだったこと。こうタイプの行動パターンは常に共通である。まず食事前にはタバコで丹念に舌をヤニコートした上にニコチンで味覚を麻痺させ、食事後には必ず臭い煙を撒き散らして回りの者の食事を台無しにすることなしには絶対に店を出られない。つくづく迷惑な人種である。最低限、飲食店での分煙は早急に徹底して貰いたいところである。

  川筋の街並みにはダメージが見える

左・中央 この集落を代表する古い商家だが、現在修復中  右 近くに寄ってみるとダメージがさらに明らかに

 食事を終えると街並みの見学に出る。確かに風情のある街並みなのだが、明からさまに痛みが目立つ。どうやら先の大雨での被害はこの地域でもかなり出ており、その被害がまだ完全には修復されていないらしい。実際に現在工事中の家屋も見受けられた。近くの民俗資料館に入館した時に話を聞いたところでは、かなりの家屋が浸水したらしく、これで駄目になった家も少なくないという。ちなみに利神城が廃城になった後は、平福には陣屋が設置されたらしいが、その門だけが道路沿いの高台に移築されて今も現存である。

  移築されている陣屋の門

 なお利神城へのアクセス状況を聞いたところ、現在は城周辺の崩落が激しくて、役所としては公式には「登山は控えてくれ」との声明を出しているのだとか。登山道にも進入禁止の旨は出しているらしい。どうしてもというなら強制的に止めることはしないが責任は持てないとの話。つまりは「なお君もしくはその仲間が転落し、あるいは死亡しても、当局は一切関知しないからそのつもりで。」というミッションインポシブル状態であるようである。実際に望遠レンズで山頂を観察してみただけでも、かなり石垣に崩れが生じていることは確認できる。さすがに私は「死して屍拾う者なし」という隠密同心心得の条を飲み込めるほどの度胸はないし、何よりも先ほどの上月城で既に足腰が若干ぐらついており、もしもの時に不覚を取る可能性が上がっていることを考え、登山は断念することにする。

  遠くから見ても石垣の崩落が見える

 こうなると早急に整備して貰いたいところだが、なぜかこの城跡は遺跡に指定されていないらしい。これだけの立派な城跡がなぜ? キチンと整備したら観光資源としてもかなり有効であるとも思われるのに。

 民俗資料館に展示してあった利神城の模型

 ちなみにもし私が巨額の資金を動かせる立場にあれば、歴史資料に基づいてこの城の修復を実行するだろう。往時には三層の天守閣も存在したという。さぞかし勇壮な姿となろう。さらに併せて津山城の天守も再建、姫新線に城巡り観光快速「キャッスルライナー」を走らせて観光開発なんて考えも浮かぶ。最期のダメ押しは、若手実力派俳優を起用して山中鹿之助を主人公にした大型時代劇を放送しての宣伝。前半は月山富田城が落城して逃亡しつつ、尼子氏再興を誓って「われに七難八苦を与えたまえ」と月に祈るところまで。後半は尼子勝久を立てて立ち上がるが上月城の合戦で敗北して処刑されるまで。これを徹底的に格好良く、なおかつ切なく描く。当然ながら月山富田城での完全ロケ、さらには復元した利神城を上月城に見立てての完全ロケでクライマックスを。またドラマの色づけとして、若手人気女優を起用して鹿之助を巡る女性として登場させ、さらに話題作りに若手人気タレントを鹿之助を尊敬して彼につきまとう若者(彼は最期の合戦の後も生き延び、後世に鹿之助の最期の様を伝える役になる)として起用する。播州地域は盛り上がるだろうし、尼子ゆかりの島根県にも感謝されそうである。

 なんて妄想が大きく膨らむが、駄目だ。事業としての採算性がまるでない。やはり私は経営者としての才覚がない。どちらかと言えば趣味に走りすぎて老舗の会社をつぶすタイプの人間である。

 

 いつまでも妄想を膨らませていても不毛なので、次の目的地に向かうことにする。やはり山城攻略で汗をかいたら温泉に入りたいというのが人情。さらにここから北上した粟倉温泉に向かうことにする。山道の走行になるが、ここら辺りは兵庫、岡山、鳥取の県境が入り組んでいるところである。佐用は兵庫だが、そこから若干北上した宮本武蔵ゆかりの地(智頭急行にはそのものズバリの「宮本武蔵駅」もある)である大原からは岡山県、そこを抜けると粟倉温泉になるが、これをもう少し北上して智頭に入るとそこは鳥取県である。

 粟倉からは現在建設中の鳥取道が部分開通していて無料開放されているようだが、カーナビの支持に従っていると、間違ってそちらの道に誘導されてしまう。慌てて次の出口で降りると引き返す。今回向かったのは粟倉温泉黄金泉である。

    黄金泉はなぜか狸

 こじんまりとしたシンプルな施設になぜか狸の像がおいてある。どうやらここのシンボルは狸のようで、狸の水風呂なんてのも中にあるようだ。放射能泉とのことでことさらに強い浴感はないが、優しい湯であるのでゆっくりと暖まることが出来る。結局はここの露天風呂でまったりとする。これで上月城攻めでの疲れをじっくりと癒すのであった。

 風呂から上がると施設内のそば屋でそばを一杯。その後はしばし大広間でまったりとした後に帰途につくことにする。途中で道の駅で土産物を買い求めて、最終目的地である姫路市立美術館に向かおうとしたのであるが・・・今までゆっくりしすぎたためか時間不足。結局は断念してそのまま直帰したのだった。あ、美術館遠征のはずが城廻だけで終わってしまった・・・。

  

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