展覧会遠征 波賀編

 

 さて先週は新しい車の運転感覚に慣れるために近場の遠征を実施したのだが、今週もそのパターンをとることにした。ただ近場には展覧会に関してはめぼしいものはなし。そこでやむなくお城+温泉のパターンをとることとした。何やらどうも所期の目的から大幅にそれつつあることを感じる今日この頃。全く私の人生は脇道ばかりである。

 

 今回の目的地は波賀。竜野で姫路バイパスを降りると、そこから山崎方面に北上する。途中で中国自動車道の山崎ICを過ぎるとさらに北上。この辺りになると道は山間を走るようになる。目的地は道の駅みなみ波賀を過ぎてさらに少し北上したところにある。

 

 今回の目的地は「波賀城」。この辺りをかつて治めていた芳賀七郎が築いたとされ、戦国時代末までは播磨の中村氏の配下となって中世山城である。現在では辺りは史跡公園となっており、例の竹下内閣のふるさと創生ばらまき1億円で整備されたらしき「なんちゃって天守」まで建っているとか。

 国道29号線を北上していると、波賀城の方向を示す標識が立っている。それに従ってグルリと山の周囲を回り込むように車を走らせる。道幅は広くはなく傾斜もかなり急であるが、道自体は整備されている。いきなりここで私の新車の登坂力テストを行わされることに。ボディにやや重さを感じるものの、パワー自体は十分にあるようである。ただその分、以前のカローラ2よりも燃費が高いのが頭の痛いところ。

 山道をしばし登っていくと駐車場が整備されており、そこからは徒歩で移動することになる。200メートルほど歩くと冠木門と建物が建っている。さながら入場ゲートといった雰囲気だが、建物内は無人で入場は無料。どうやらトイレはここですませておけということらしい。

  

 冠木門の脇には全国の山城で定番の「熊に注意」の看板が立っている。ただこれにいちいちビビっていたらどこにも行けない。とりあえずはなるべく賑やかに登ることにする。

 門からはいったん降りてから再び登ることになるのだが、この通路の脇には崩れた石垣のような石がゴロゴロ転がっている。かつてはこの辺りにも石垣があったのだろうか。

 

桟道ルートは通行禁止        本丸上には祠がある  

 登りルートは2つあるのだが、桟道のようなルートの方は立ち入り禁止になっている。ばらまき1億円で整備されたとしたら、木造施設はそろそろ老朽化してくる頃である。桟道が腐って落ちでもしたのだろうか。もう一方のルートを登るがどちらにしても登りの距離は大したことはない。とは言うものの、階段を数段上っただけで息が上がるし、左膝が痛み始めるという我が身のあまりの体力のなさ及び老朽化には嫌になってくる。

 5分も登ればなんちゃって天守のところに到着する。これは山頂の二の丸とでも言うべき位置に建っているが、ここのスペース自身がかなり狭いのでまさにギリギリに建っている印象。ここからさらに上がったところに本丸と言うべきスペースもあるが、ここには小さい祠があってそれでいっぱい。とにかくスペースの狭い城である。屋敷を建てるのは無理で、小屋がせいぜい。恐らく屋敷は麓にあったと思われる。ただこの山上だけでは詰めの城として使うにも狭すぎる。そもそもこれでは多数の兵は詰められないし、物資をため込む場所も水の手もなさそうである。そう考えると、むしろこの高台は物見櫓的な施設で、本来の本丸は下の石垣の残骸のようなものが転がっている辺りにあったのかもしれない。また駐車場から冠木門に向かう間にも削平地のように見える部分があったことから、その辺りに曲輪が連なっていたのか?(後世の改変の可能性も高いが)

 

 なんちゃって天守は「学習資料館」と看板の掛かった木造二階建ての小さな建物。中には発掘資料らしきものが展示されているが、点数はわずか。一応時代考証だけはキチンとやったと見られ、二階に上る階段は非常に急。ここを登ると狭い二階があるが、展望は天守の外の方がよく利く。一応時代考証はしているようだが、果たして全体としてどれだけ考古資料に基づいているのかには不明な点が多い施設であった。やはり本音は観光目的が第一なんだろう。

 

 波賀城から降りてくると、昼食を摂ることにする。来た道を少し引き返して道の駅はが南に行く。昼食はそこにあるレストランで摂ることに。注文したのは「鮎釜だし茶づけ(980円)」

 山の中だから鮎という安直なイメージで注文しただけのメニューだが、これが予想外にうまい。川魚で味が強めの鮎にだし汁がよく合う。これに添えられていたわさびを加えるとさらに味がすっきりして美味。川魚は臭いから嫌いと言うものもいるが、これはろくなものを食べたことがない証拠。そりゃそこらの川で釣ってきた鯉でも食えば臭かろうが、キチンとした川魚ならそんなことはない。やはり味の強さは川魚の方が上ということを感じる。茶漬け形式はその味の強い魚をさっぱりといただく日本人の知恵で、名古屋のひつまぶしと同じ発想である。

 

 昼食を堪能したところで温泉に行くことにする。この近くの温泉ということで一宮温泉まほろばの湯を目指すことにする。カーナビに目的地を入力するとその指示に従って走行。しかしこのカーナビが誘導したのは高野峠を越えるとんでもない峠道だった。このカーナビは以前にも四国で私を狭い峠道に誘導したことがあったが、つくづく峠道の好きなナビである。峠の走り屋さん向けのナビか? 途中で急激に道幅が狭まると共に傾斜が急になるが、途中で引き返すわけにもいかずにそのまま走り抜けることに。いきなりノートの峠性能をテストする羽目になってしまった。峠の登りをブイブイと走っている内に、迷い込んでしまったらしいステップワゴンがつかえているのに出くわす。後ろから見ていても分かるぐらいの不安な運転。超ノロノロ運転の上にブレーキ踏みっぱなしである。そのうちに私の後ろから軽までやってきてつかえてしまう。しばしそのままトロトロ走行だったが、途中で道が下りに転じた時、一部道幅が広がったところでステップワゴンが左に寄って一時停止したので、そこで一気に抜き去る。ここからはダウンヒル走行となる。CVTは通常ではエンジンブレーキの効きが悪いので、ギアを落として走行。大小のコーナーをいくつか抜けていくうちに、この車の感覚がだんだんと分かってくる。思わず「分かってきたぞ、この車の乗り方が」という言葉が出る。こうなると走行ペースが上がってきて、気がつくと後ろに着いていた軽が見えなくなっていた。

 

 とにかくひどい道であった。途中から道幅はすれ違い不可の幅になるし、舗装もアスファルト舗装ではなくてつぎはぎのセメント舗装の箇所があったりなど凄まじい道。特に東側の下りになってから、対向車が来たら万事休すのかなりひどい部分があったので、ここで対向車が来なかったのはラッキーと言うべき。途中で対向車とは数台すれ違ったが(なんと一台はトラックだった)、いずれも西側の登りの時で、まだしもいくら道幅のあるところであったのが救い。いきなりとんでもないトレーニングになってしまった。おかげでようやく山道を抜けた頃にはかなり運転感覚がしっくり来るようになっていた。ただそれでなくても燃費の悪い車が、この山道走行でさらに燃費を悪化させたであろうことを考えると少々頭が痛い。それにしてもこれで国道とは・・・と思って調べてみれば、この国道429号線は別名酷道429号とも呼ばれている悪路。そう言えば、かつて生野銀山から黒川温泉を経由して青垣峠を越えるとんでもない道を通ったことがあるが、あれも国道429号だった。私は酷道マニアではない(と言うか、むしろ酷道は避けたい口)のであるが、山城や温泉を巡っているとどうしても酷道に迷い込んでしまうことがある。

 

 目的のまほろばの湯は山道を抜けるとすぐに到着する。谷間の集落の中で隣には家原遺跡があり、その遺跡を中心に観光開発をしたという印象のところ。何やらここもどことなくバラマキ一億円の臭いがする。

 浴場は露天風呂と内風呂のシンプルな構成。サウナがないので私のように端からサウナには入らない者にはよいが、サウナ好きには不満かも。泉質はオーソドックスなナトリウム・カリウム塩化物泉で、しょっぱいお湯。温泉としては特別なものはないが、開放感のある露天風呂が気持ちの良いところ。

 風呂からあがってさっぱりするとコーヒー牛乳を頂いて少しくつろぐ。この手の地方の日帰り温泉施設の定番で、いわゆる産直コーナーなどもあるようである。スイカなどを販売していた。

 

 温泉を出たところでまだ時間に余裕があることから、となりの宍粟市歴史資料館を覗く。展示物は考古資料から民俗資料に及び、要は地元一宮の歴史を伝えるという施設。この辺りがかなり以前から人が住んでいたということや、この地方の村が明治維新に翻弄される過程などにはなかなか興味が湧いた。ちなみに今はこの辺りは平成の大合併で宍粟市となっているが、そもそもは一宮町である。行政の効率化を図っての合併推進であるが、それが日本の地方の画一化を促して、地域の魅力を奪っている方向に向かっているのは複雑な心情である。往々にして風情と効率というのは両立せず、実は観光には一番大事なのは風情の方なのである。果たして効率一辺倒の世の中が正解なのかについては少々疑問がある。

  歴史資料館

 ついでだから隣の家原遺跡も覗いてみることにする。先ほどの歴史資料館の展示にもあったように、ここは太古から人間が住んでいたところなので、当然ながらこのような遺跡もあると言うこと。ここの遺跡の特徴は、縄文から中世に至る複合遺跡であること。そのために縄文時代の竪穴式住居から、中世の掘立柱建物のまでの各様式の建築物が復元されており、それぞれ縄文村、弥生村、古墳村、中世村となっている。もっとも中世だけは明らかに建物が違うが、縄文から古墳にかけてはいずれも竪穴式住居なので、古墳村は高床式倉庫があるのだけが違い、弥生と縄文に至ってはその違いはほとんど分からなかった(実際は弥生の方が柱の数が多くて複雑な構造の造りになっているとのことだが)。

左 縄文の住居  中央・右 中世の建物

左 古墳時代の住居  中央 住居内部  右 弥生時代の住居

 復元建築はそれなりに面白いが、ここもどことなくバラマキ一億円の臭いがする施設である。また竪穴式住居がそろそろ老朽化しつつあるように思われたことも気がかり。

 

 これで今日の予定は終了。後はノートで帰途についたのであった。これで大分運転感覚もつかめたので、いずれは長距離遠征に繰り出したいところである。

 

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