展覧会遠征 秋田編

 

 以前から何度も言っているように、今年は本来は東北・北海道方面強化年間である。年初予定では今年一年をかけて東北地区を回っていくつもりであった。しかしあの大震災で三陸地域が壊滅、とても旅行という状況でなくなってしまったのである。とは言うものの、東北すべてが壊滅したわけではない。太平洋岸は壊滅状況ではあるが、日本海岸はほぼ無傷と言っても良いという。震災から半年、日本海側では既に観光に力を入れつつある時期だとか。そこで以前より予定していた秋田方面遠征をこの時期に実行することと相成った。

 

 経路としてはまず新潟空港に飛び、そこから日本海岸を北上していくルートである。スーパー旅割を有効活用するために出発は平日の金曜日。まずは伊丹空港の早朝便で新潟空港まで飛ぶ。ただこのルート、大分飛行機に慣れた感のある私だが、今回は今までと違う格別の緊張感がある。と言うのは、今回乗る機体がボンバルディアであるということだ。今まではボーイングの737や767などの中型ジェットばかりに乗っていたのだが、プロペラ機に乗るのは初めてである。それに何よりもいろいろと噂もある「ボンバルディア」。高知空港での華々しい胴体着陸は未だに記憶に新しいところである。着陸時に無事に前輪が降りたら機内で拍手が起こるとか、前輪が降りないで胴体着陸となった時、機長が機内放送で「本機はこれより胴体着陸を行いますが、大丈夫ですのでご安心ください・・・慣れていますから」と言ったとか、嘘とも本当ともつかない噂を多々耳にしている。

 

 若干緊張気味で空港に到着した私。手荷物検査を受けて出発ゲートに向かうが、ゲートがいつもと違う場所。プロペラ機の場合は連絡橋でなくてバスで移動するらしい。またボンバルディアは荷物スペースが小さいので普段よりも一回り小さいキャリーを持参していたのだが、満員のために機内持ち込み可能サイズでもキャリーは貨物で預けるように指示される。面倒なことである。

 すし詰めのバスでエッチラオッチラと機体のそばに運搬される。思っていたよりも機体は小さく、何よりも高さが低い。確かにこれでは連絡橋は接続できない。機内もとにかく狭いという印象である。やがてエンジンがかかると滑走路に乗った機体は一気に加速する。出足は明らかにジェットには劣るが、それでもやはりかなりのGが来る。エンジン音がうるさいが、ジェットのような甲高い音ではなく、もっと低い音である。この時に頭をよぎるのは、どうかこの音が飛行中に止まらないようにということだけ。離陸すると急角度で上昇するが、Gの細かい変動が多くてやや気持ち悪い。

 プロペラ機はジェット機と違って低い高度で飛ぶ。そのために地上の風景がよく見えるのだが、これは私のような高所恐怖症の者にはひたすら気持ち悪い。そのうちに左手に雪のかかったかなり高い山が見えるが、これが立山か? ここを過ぎてしばらくすると機体はようやく着陸態勢に入り、私の心配をよそに無事に着陸をする(かなりガツンとした感触の着陸だったが)。どうやら胴体着陸などといったイベントは経験しなくて済んだようだが、正直なところやはり今後ボンバルディアにはあまり乗りたくないというのが本音。やはり信用していない機体に命を託すのは精神衛生上良くない。

 空港で荷物を受け取るとバスで新潟駅へ。荷物受け取りのために当初予定のバスよりも一本遅れたが、これはそもそも折り込み済みである。

 新潟からは快速「きらきらうえつ」で酒田を目指す。これは週末などに羽越線で運行されている観光快速である。今回、どうせ羽越本線を行くのならこの列車に乗ろうと考えて、事前にチケットは手配してある。実のところを言うと、この列車に乗ろうと思ったから「危険を冒して」ボンバルディアに搭乗したというのが事実である。

左 きらきらうえつ外観 中央・右 座席風景

左 先頭部分の展望室  中央 二号車のラウンジ  右 ラウンジ横の売店

 ホームでしばし待つときらきらうえつが入線してくる。いわゆる改造列車だが何とも派手な外観をしており、これが「きらきら」なのかと妙に納得(笑)。内部のシートは特急仕様で、眺望のためだろうと思われるが床全体が底上げされている。また車両がバリアフリー対応になっているのは今風。また2号車にはラウンジスペースもある。

 沿線は田んぼばかり

 平日のためか乗客はそう多くはない。新潟駅を出た列車は例のごとく田んぼの中を突っ走るが、そろそろ稲刈り時期を迎えた田んぼが綺麗である。

左 きらきらうえつ弁当  中央 車掌さんからのメッセージが  右 見た目も楽しいが、味もなかなか

 以前に訪問した村上に来た辺りで昼食にする。やはりこういう時は弁当。車内で購入した「きらきらうえつ弁当(1200円)」を頂く。駅弁の常でCPは良くはないが、沿線の名物を並べたという弁当はなかなかにうまく、そして見た目も楽しいものに仕上がっている。九州のソニック弁当なんかと比べると雲泥の差。

海岸は奇岩の連続

 村上を抜けると電化形式が直流電化から交流電化に変わるのでデッドセクションがある。また村上以北では沿線はトンネルと日本海の繰り返しとなる。途中の桑川駅は夕日の名所とかで、帰りのきらきらうえつはここで夕日見停車をするらしい。この辺りの海岸は奇岩の連続である。そして鼠ヶ関でいよいよ山形県入り。あつみ温泉駅を過ぎると海岸線に別れを告げた列車は庄内平野に入っていく。そうなると再び沿線は田んぼの連続。

 

 やがて列車は鶴岡に到着。ここで大部分の乗客が下車する。私も今日の宿泊地は鶴岡であるが、今はここで降りずにさらに先に進む。鶴岡で数分停車した後、次の停車駅の余目駅は陸羽西線との分岐駅であるが、駅前にはほとんど何もないところ。ここを過ぎてさらにしばし田んぼの中を走行、ようやく町が見えてくるとここが酒田である。酒田駅には行き止まりの0番ホームがあり、ここに陸羽西線の車両が入っていることから、陸羽西線は事実上はここから運行されているようである。

   酒田に到着

 酒田はかつて貿易で栄えた港で、古には「西の堺、東の酒田」と言われたとか。しかし今となっては見る影もなく衰退している印象を受ける。酒田に来た目的は本間美術館と酒田市美術館の訪問。ただ本間美術館は駅から歩ける距離だが、酒田市美術館は車でないと到底たどり着けない距離。一応は周回バスが走っているのだが、なぜかこの発車時間がきらきらうえつの到着の2分前といった嫌がらせとしか思えないようなダイヤ。駅から出た私の目には、定時に出発したバスの後姿が飛び込んでくる。

 

 やむなくまずは本間美術館の訪問を先にすることにする。酒田の本間家は戦前まで日本最大の地主で、「本間様には及びもせぬが、せめてなりたやお殿様」との歌が詠まれるほどの栄華を極めていたという。この歌を聞くと、本間家が持ち上げられているというよりも殿様が馬鹿にされているような気がするが、財政的に窮乏した庄内藩は何度か本間家の支援を仰いでいるとのことなので、それも仕方のないところ。しかしその本間家も第二次大戦敗戦に伴う戦後の農地解放でほとんどの農地を失い没落する。本間美術館はその本間家ゆかりの美術品を展示している美術館で、本館の建物は本間家四代目当主が迎賓館として建設したものとか。

左 新館  中央 こちらが本館  右 本館の庭園

 私の訪問時には新館にいわゆる文人画と陶器、本館には浮世絵関連の展示が行われていた。生憎と展示品の方は私にはイマイチ。それよりも館の庭園とか建物全体の造りがいい味を出していて、その方が堪能できた。

 

 本間美術館の見学を終えると、タクシーで酒田市美術館に移動することにする。しかし酒田市美術館は市街からかなり離れた地にありとにかく遠い。結局はタクシー代が1600円以上もかかってしまう。酒田では車で動くのが当たり前になっているのか? そう言えば青森の美術館も三内丸山遺跡の近くのとんでもないところにあったし。

   酒田市美術館

 酒田市美術館に入館すると、なんと出し物は「佐川美術館所蔵平山郁夫展」。これには思わずずっこけてしまう私。1600円もタクシー代を使った挙げ句に、よりによって佐川美術館の所蔵作品に巡り会おうとは・・・。しかもこの展覧会には函館でも出会った記憶がある。一体どこまで平山郁夫と縁があるんだ・・・。なお所蔵作品展の方については森田茂の作品を展示。非常に個性的な絵画で、あまり好きなタイプではないが印象には残る作品。美術館の規模も結構大きく、自治体の規模を考えるとそれなりに力の入っている施設のようだ。どうせなら所蔵作品中心の展示の時に訪問したい。

 

 美術館の見学を終えると、隣にあるはずの土門拳記念館を目指すことにする。しかし隣のはずが実は10分以上歩かないといけないかなり先。どうも東北地域は地形の縮尺が違うようである。到着した時にはかなり疲れてしまう。

 土門拳記念館

 土門拳記念館で展示されていたのは、土門拳の広島の写真と仏像の写真。広島シリーズは一種のドキュメントで非常に生々しく、原爆というものについて感じさせる作品。特に今は北朝鮮の核開発や、福島での原発事故などがある時世なので、より一層深刻に感じさせられるところ。また仏像の写真はいかにも彼らしい迫力ある写真で、仏像に生命を感じられるぐらい。

  

巡回バスと途中で見えた本間家住宅

 土門拳記念館の見学を終えると酒田駅に戻ることにする。しかしさすがにもう一度タクシーに乗る財力はないので、帰りはバスを利用することにする。バスは市街をグルグル回りながら20分ほどかけて駅に到着する。途中で本間家住宅の前も通るが、確かにかなり立派な建物である。酒田はこのような往時の繁栄を物語る観光名所があるのだが、現地に来てみるとどうも観光地としての演出が下手なように思われる。そもそも明らかに観光目当ての「きらきらうえつ」のダイヤとバスのダイヤがリンクしていないなどは問題外。酒田は本気で観光開発を目指してはいないのだろうか? しかし観光に代わる強力な地場産業があるようにも見えないし、何やら疑問の多い町である。

 

 酒田駅に到着すると普通列車で鶴岡に引き返す。ホームには村上行きの2両編成のなぜか気動車が待っている(村上の手前に交直切り替えのデッドセクションがあることと関係しそうだが)。秋田方面からやって来た電車と接続してから出発する。どうも羽越線の運行は酒田で分離されている模様。列車は30分以上を要して鶴岡に到着する。平日の夕方のせいか高校生の利用が多い。

 鶴岡駅に到着

 鶴岡駅に到着すると、まずはホテルにチェックインする。今日の宿泊ホテルはルートイン鶴岡駅前。部屋に荷物を置くと直ちに町に繰り出す。鶴岡には鶴岡城があるのでそれを見学する予定。鶴岡城まではやや距離があるので駅前からタクシーに乗る。

 

 「鶴岡城」は庄内藩の藩庁だった城郭。かつての本丸の中央には今では神社が建っている。全体的に公園整備が進んでいて往時の遺構はあまり残っていないが、それでも神社の裏手には土塁の跡があり、櫓跡が残っている。またこの辺りはかつての石垣跡と思われる石がごろごろ転がっている。さらにこの方向には堀の跡も残っているので、一番城郭であったことをイメージしやすい地域でもある。

 鶴岡城の隣にはかつての藩校だった致道館がある。入場無料だが、残念なことに既に入場時間を過ぎてしまっている。その向かいには鶴岡アートフォーラムがあるが、鶴岡美術館でなくアートフォーラムという名が物語るように、貸館中心の施設のようである。またここの隣の公園部もそもそもは城のゆかりの施設のようだが、後世に手が加わりすぎていて、どこが往時の遺構か分からない。

左 鳥居があるのが二の丸大手門跡  中央 ここは堀だった場所  右 本丸内の藤沢周平記念館

左 本丸中央の荘内神社  中央 神社裏側には土塁が残っている  右 本丸御隅櫓跡

左 隅櫓跡の土塁を登ると奥に堀が残っている  中央 二の丸西部から堀越に本丸  右 大宝館と本丸南部堀
  

     左 藩校だった致道館    右 アートフォーラム手前の石垣も遺構らしいが

 鶴岡城の見学を終えるとバスで駅前に戻る。途中で道路工事に出くわすが、交通誘導がひどすぎるせいでバスが10分以上に渡って立ち往生。ゆったりしているというか、どんくさいというか。これが大阪なら間違いなくバスの客から怒号(下手をすれば鉄拳制裁)が飛んでいるだろう。ようやく駅前に戻ってくるが、駅前にはあまり店がない。バスの流れを見ていると、駅前行きのバスはすべてエスモール行きとなっている。どうやらここが鶴岡最大のショッピングセンターの模様。そこでここに立ち寄ると、飲み物や菓子類を仕入れてホテルに戻る。便利ではあるが旅情に欠ける。

 

 さて夕食だが、面倒なのでホテル近くの飲食店で済ませる。一応は地元産品の店のはずだったのだが、可もなく不可もなくのこれといった特徴のない料理であった。どうも酒田だけでなく、鶴岡も観光地としての演出があまりうまくないようだ。

 

 ホテルに戻ると入浴。後はさっさと床についてしまう。

  

☆☆☆☆☆

 

 

 翌朝は6時前に起床、ホテルで朝食を摂ると8時半頃とやや遅めのチェックアウトをする。昨日はかなり晴れていたが、今日は前線と台風15号の影響かどんより曇っているが、相変わらず蒸し暑い。

 キハ110

 鶴岡駅からはまずは酒田駅まで移動。到着したのは二両編成のキハ110。まさか電化区間でキハ110に出会おうとは・・・。

左 奥が酒田駅0番ホーム  中央 秋田行きの電車  右 車内風景

 酒田では秋田行きの三両編成の電車に乗り換える。これがロングシートの典型的な通勤型車両。土曜のせいかこの時点では車内はガラガラ。酒田を出た列車は北上、やがて右手に鳥海山が見えるようになってくる。吹浦からは海沿いのルートになるが、沿線人口はあまり多くなさそう。やや大きめの集落は象潟周辺のみ。

 鳥海山が見える

 海を離れた路線がやや内陸に入ってくると羽後本荘に到着。ここで大量の乗降が。私もここで一旦下車することにする。改札を出るととりあえずトランクをロッカーに放り込む。

 

 私がここで途中下車した目的の一つは由利高原鉄道を視察すること。由利高原鉄道とは国鉄に切り捨てられた矢島線を引き継いだ第3セクター路線である。しかしながら地方の第3セクターの例に漏れず、経営的にはかなり苦戦している模様である。

 

 由利高原鉄道の羽後本荘駅はJRと隣接している。と言うよりは、JRの駅の中に由利高原鉄道の改札口があるだけ。改札を通ると通路はJRと完全共通であり、4番ホームを使用しているが、隣の3番ホームにはJRの列車が到着するようになっており、各地の第3セクターの中にはJRと設備的に完全に分離しているところもあるが、ここは未だにJRの支線の印象が強い。なお駅に自動券売機はなく、改札で硬券切符を販売している。

左 おばこ号  中央 おばこ号車内  右 なんと硬券切符だ

 車両は単両のディーゼル車。YR1500との表記があるが、基本的には地方の3セク路線でよく見かけるタイプの車両である。内部はクロスシートで、列車には「おばこ号」との表記があるが、実際秋田おばこのアテンダントが乗車している。

 

左 沿線風景  中央 鮎川駅舎  右 前郷駅でのタブレット交換

 羽後本荘駅を出るとしばし羽越線と併走。羽越線との別れ際にあるのが次の薬師堂駅である。軌道は徐々に標高を上げていっているようだが、高原鉄道の名からイメージするような山岳列車とは違い、沿線風景は常に田んぼである。なお晴天時には鳥海山が見えるとのことなのだが、残念ながら列車が出発すると同時ぐらいに雨がぱらつき始め、鳥海山は遠くにかすんで全く見えない。

  

かなりの雨になってきたので遠くが全く見えない

 沿線には小集落があるのみで沿線人口もそう多くはなさそう。地元民らしき利用者や時折「歩こう会」の類の団体が乗車してくるが、沿線人口を考えると経営が苦しいのも仕方のないところ。そのために観光に力を入れている模様。途中の曲沢駅は鳥海山の撮影スポットらしいが、今日のこの天候では虚しい。次の前郷はこの路線の唯一の交換可能駅で、タブレット交換が行われている。また始発と終着以外で唯一の有人駅のようで、駅舎奥に宿直室らしきものも見えた(窓から布団が見えた)ことから、駅員の宿直もあるのかもしれない。なお先ほどの曲沢駅はこの前郷の一つ手前なので、つまり曲沢で下車して写真を撮ると、数分で反対方向の列車がやってくるということにもなる。

 

 沿線風景は終着の矢島まで似たようなものである。沿線の見所は黄金色の田んぼと鳥海山だが、前者は私のような田んぼ好きでないとピンと来ないだろうし、後者は今日のような天候では無意味。なかなか観光開発もしんどそうな路線である。

矢島駅

駅前風景

 終着の矢島はそこそこの集落。なおここには「八森城」という城郭が存在していたことが知られている。八森城は戦国期にこの地域を治めた大井氏が支城として築いたものだという。その後、江戸時代初期に最上氏の配下の楯岡氏の居城となるが、最上氏の改易によって打越氏の居城となり、打越氏が断絶した後は生駒氏が入ってそのまま明治を迎えたという。戊辰戦争では新政府軍側についたために庄内藩の攻撃を受け、城主の生駒親敬は城に火を放って逃走したとか。

 この丘の上が恐らく八森城

  

手前はお寺に奥は学校になっている模様

 集落を見下ろす位置にいかにも城郭向きの台地があるので、その上に城が存在していただろうことは容易に推測が付く。本来なら現地に出向きたいところなのだが、残念ながら折り返し時間が20分しかないのでそれは断念して駅に戻る。

ヤマトラッピング列車

 秋田美人のお見送り

 駅に戻ると先ほどの車両が後ろにもう一両増結して二両編成になっている。しかもなぜかその車両が宇宙戦艦ヤマトのラッピング車両。そう言えば矢島駅の構内になぜか怪しいヤマトの模型があり、これは何なんだと首をひねったところである。しかし由利高原鉄道とヤマトの関わりだけはどう考えても分からない。松本零士と縁もゆかりもない敦賀にヤマトと999の像があるみたいなものか。そう言えばかつては一世を風靡した松本零士氏も、最近は金儲けの手段を選んでいないとの噂があるがその関係か? 正直なところ往年の999ファンの私としては、あまり老醜をさらして欲しくないとの気があるのだが。

  

羽後本荘に到着した列車と羽後本荘駅改札(左がJR、右が由利高原鉄道)

 このラッピング列車で羽後本荘駅まで戻ってくると次の行動である。次の目的はこの地にある「本荘城」を見学すること。本荘城は本荘藩の藩庁だった城だが、そもそもは最上氏配下の楯岡氏が築城したものである。最上氏が改易の後に宇都宮から本多正純が移封されることになったが、これを拒否して秀忠の怒りを買った正純は佐竹氏預かりの身となってしまい、代わりに六郷氏がここに入ることになり、そのまま明治を迎えている。なお戊辰戦争で官軍側についたことから奥羽越列藩同盟に属する庄内藩の攻撃を受け、その際に自ら城を焼き払って撤退したとか(八森城と同じ経緯を辿っている)。

復元大手門

 駅から歩いて行けないこともない距離のはずだが、正確な場所を覚えていないのと雨がひどくなっていることからタクシーで現地に移動する。タクシーは市役所の中に入り、冠木門の前で止まる。これが現在の入り口の模様。

 大手門をくぐった正面、奥の高台に二の丸と本丸がある

二の丸から三の丸を見下ろす

 本荘城は平山城で山頂の本丸を環状に二の丸が取り巻く輪郭形式で、その周囲にさらに屋敷を構えた三の丸が存在したようである。現在はこの三の丸は市役所と公園になっているようで、公園の正面には堀が残っているのと、城門が復元されておりなかなかに様になっている。本丸上には「なんちゃって本丸御殿」とも言えるような本丸の館なる建物が建っており、中にはこの城に関する資料なども展示されている。

 本丸の館への登り口はかつての本丸虎口の痕跡がある

 現在は本丸部は神社と先ほどの本丸の館などになってしまっているが、本丸周囲を取り囲んでいた土塁は残存しており、櫓の跡なども確認できる。また城の南方には大きな池が存在するが、これは恐らくかつて城の周囲を取り囲んでいた堀の一部をなしていたのだろう。建物の類は全く残っていないし、本丸周辺などもかなり改変がされたようであるが、城の縄張りを把握できるだけの遺構は残っている。なお土塁上や二の丸を一周したのだが、閉口したのはやたらに立派なクモの巣が多くてこれに進路を阻まれたこと。山深い城ではないのに、これはこの公園を訪れる者がそう多くないということなのだろうか。

左 本丸の館  中央 本丸の神社  右 本丸の館裏の土塁

左 土塁上から具足櫓跡を見る  中央 二の丸の煙硝倉跡へ降りる通路  右 煙硝倉跡

左 三日月堀  中央 建物の礎石  右 城の奥のこの池は外堀の名残か

左 弓矢倉跡へ登る通路  中央 東御門跡  右 二の丸のこのスペースは館跡か

左 弓櫓跡は展望台になっている  中央 弓櫓跡からの風景  右 鉄砲櫓跡

 本荘城を一回り見学して降りてくると、市役所の前でタクシーが待っていたのでこれで駅まで戻る。晴れていたら十分に歩ける距離なのだが、とにかく雨がひどい。すでに体もカメラもずぶ濡れになっており、これ以上雨の中をトボトボと歩く気には到底なれなかった。

 

 駅まで戻ってくると普通列車で秋田まで移動する。この区間もこれまでと沿線風景には大きな差はない。ようやく辺りが都会めいてくると秋田に到着である。ホテルに向かう前にかなり遅めの昼食を摂ることにする。面倒なので店は以前にも入店したことのある「秋田比内や」。今回は「きりたんぽ鍋(1800円)」を注文する。

  

 きりたんぽを食べるのは初めてだが、私がイメージしていたよりはご飯粒が残っており、雰囲気としては焼おにぎりに近い。ただ残念ながらそうおいしくは感じない。きりたんぽの実力がこの程度なのか、それとも店のチョイスを誤ったのかは私には分からない。それとこれが秋田流なのか、味付けがややしょっぱいのが関西人の私には気になるところ。

 

 昼食を終えるとホテルへ移動。今日の宿泊ホテルはホテルグランティア秋田。ルートイン系列のホテルである。ホテル目指して秋田市街を歩くが、ホテルの前に一カ所立ち寄ることにする。以前の秋田訪問の時に立ち寄る暇がなかった美術館である。大型ビルの中に入居している。

 


「アメリカ現代版画への招待」秋田市立千秋美術館で11/6まで

  

 CCGA現代グラフィックアートセンターが所蔵する「タイラーグラフィックス・アーカイブコレクション」からロイ・リキテンスタイン、フランク・ステラ、デイヴィッド・ホックニー、ロバート・マザウェルといった巨匠の版画作品を展示。

 版画作品と言うが中には明らかに版画ではなく立体造形に属するような作品もあり、いかにも現代アート的である。個人的には芸術的感慨を受けるような作品は皆無であったが、色遣いなどに妙味を感じる作品は多々あり、その辺りはいかにもアメリカンアートという感じはした。もっともリキテンスタインのアメコミはもうゲップが出る。一発芸にももう少し工夫が欲しいところだ。

 


 美術館の見学を終えるとホテルまで歩く。それにしてもホテルまでが遠い。雨がひどくなってきているのでトランクなどはずぶ濡れである。この時点で何となくイマイチ感が漂ってしまう。

 

 ホテルにチェックインするとまずは大浴場へ直行。このホテルはいわゆるスーパー銭湯が隣接しており、そのためかホテル全館が土足禁止という奇妙な構成になっている。温泉大浴場はやや褐色がかったしょっぱい湯が張られている。どうやらナトリウム塩化物泉のようだ。肌当たりは悪くない。もっとも浴場自体の雰囲気がいかにもスーパー銭湯なので、あまり落ち着いた気分にはなれない。どうも私はこういう施設とはあまり相性は良くないようである。

 

 入浴が終わったところで一気に疲れが出る。今日はあまり歩いた気がしないのだが、それでも本荘城内探索やホテルまでの移動などで一万歩を越えてしまっている。本来なら夕食のために町に繰り出すところだが、とにかく疲労が強いし、雨はひどいしでホテルから出る気がしない。やむなくホテル内のレストランで夕食を済ませることにする。例によって可もなく不可もなくである。

 

 部屋に戻ってくるとテレビをつけるが、それでなくても最近のテレビは見るべき番組がほとんどない上に、秋田はチャンネル数も少ないのですぐに消してしまう。パソコンを引っ張りだして原稿書きを始めるが、こんなに疲労が強すぎる時には文章がさっぱりまとまらない。諦めてかなり早めに床につくことにする。

  

☆☆☆☆☆

 

 

 翌朝の目覚めはあまり良いとは言えなかった。夜中に歯が痛んで一旦目が覚めてしまった。どうも治療済みの歯が一本、以前から具合が良くないので何かのはずみで痛くなることがある。とりあえず湿布で痛みをごまかして再び床につくが、一度完全に目覚めてしまったせいで後は朝方まで浅い眠りが続くことになってしまった。

 6時に目覚めるとチェックアウトの準備を済ませてから、荷物を持って食堂へ行く。ルートインは朝食メニューがかなり規格化されているので昨日とほとんどメニューの違いはなし。また歯の痛みがまだ残っているせいもあって食欲もさっぱりである。とりあえず大混雑の食堂で簡単に朝食を済ませると、ホテルの送迎バスで駅に向かうことにする。またまだ列車の発車までには十二分な時間があるのだが、この送迎バスは1時間に1本ほどしかないので、次のバスだと駅の到着がギリギリになってしまう。かといってタクシーを呼ぶのももったいないし、この雨の中をトランクを引っ張りながら歩いていく気はしないし、消去法での選択である。ルートインホテルは悪くはないのだが、いろいろな点でもう一歩と感じる部分が多々ある。この辺りが未だに私の中で定宿としてのポジションが二番手である理由でもあるのだが。

 行き止まりの7番ホーム

 秋田駅に到着したのは列車の発車の1時間前。とりあえず特急つがるが発車する7番ホームに移動するが、このホームは秋田新幹線のホームの北半分で、中央で線路を遮断して南側が標準軌、北側が狭軌となっている。おかげでつがるが発着する7番ホームは一番最果ての地となってしまっている。

  

 待つことしばし、青森方面から乗客を満載した列車が到着、これが折り返し特急つがるになる。青森方面からの乗客は中間改札を通って秋田新幹線に乗り換え可能だが、東北新幹線の新青森駅が開業した今となっては、この乗り換えルートはマイナールートだろう。実際、この乗り換えをする乗客は数人しかいない。

 私は指定席を確保しているが、指定席はかなりの乗車率である。自由席の状況は見ていないが、乗客の流れを見ていると自由席の方が空いているのではないかと思われる。列車が出発するが、雨がひどくなってきているようで、車窓にはぼんやりと田んぼの黄色が浮かんでいる状態である。

 大館駅

 この路線には以前に弘前から秋田まで移動したことがある。沿線は当初は田んぼで、鷹巣を過ぎた辺りから徐々に山の中になっていく。大館はそんな中にある。

左・中央 駅内の壁画  右 駅内のハチ公神社

 大館で下車する客は数人。向かいのホームには花輪線の快速八幡平が停車しているが、これはキハ110を四両編成したというとんでもないもの。ここでこれに乗り換える予定だが、乗り換え時間に余裕があるので一旦ここで駅の外に出ることにする。

左 駅前のハチ公の像  中央 標識もハチ公  右 駅のキオスクにはハチ公菓子

 幸いにして日本海岸を離れるとともに雨はほとんどやんでいる。しかし大館駅前は想像以上に寂れているという雰囲気。時間に余裕があるので軽く食事でもと思っていたのだが、駅前には飲食店さえなく、あるのはハチ公の像だけ。なぜハチ公なのだろうと疑問を感じたのだが、この辺りは秋田犬の産地であり、ハチ公の故郷と言うことらしい。それはともかく、ハチ公を見ても腹は膨れない。やむを得ないのでキオスクでおにぎりを買い込むと列車に戻る。

キハ110の4両編成は初めて見た

 車内で待つことしばし、ようやく列車が出発する。奥羽本線と分かれた列車は次は東大館に停車。どうやら大館市街の中心はこちらにある模様。どおりで大館駅が寂れきっていたはずである。ただ駅には人影はほとんどない。

 十和田湖駅を過ぎた風景

 大滝温泉辺りまでは沿線は田んぼとその合間の集落で、意外と沿線人口はありそうであり、秘境線をイメージしていた私は肩すかしを食らう。大滝温泉を過ぎると沿線がやや山岳めくが、それでも人家は見えており、むしろ奥羽本線の方が秘境線である。列車は十和田南でスイッチバックする。

 湯瀬温泉手前の風景

 花輪線が秘境線めいてくるのはここ以降である。平地が続くのはその名も八幡平駅まで。これはここまでの平地が八幡平という訳か、それともここからが八幡平なのか地理に疎い私にはよく分からない。八幡平駅を列車が通過するとあたりは急激に山岳めいてきて、そのうちにすごい山中を走るようになる。次の停車駅の湯瀬温泉は深い山の中。山中を走ることしばし、ようやく集落のある平地に出たと感じるのが田山。しかしここをしばし走ると再び深い山になる。その後は山間のわずかな平地を縫うような感じで列車は走り、そして安比高原を抜けると一面の田んぼの世界に突入、まもなく好摩に到着する。

 好摩駅

 ここから盛岡まではいわて銀河鉄道の路線になる。しばし何もないところを走るが、ようやく都会が見えるとそれが盛岡。

 

 盛岡ではいわて銀河鉄道のホームに列車が到着するので、ここからJRへの乗り換えには長い移動が必要になる。非常に駅の造りが不親切で不便になっている。えっちらおっちら移動した挙げ句、ようやく一関行きの普通列車に乗り換える。

 花巻駅に到着

 沿線はしばしは盛岡の市街の続きだが、すぐに田んぼばかりの世界になる。やがて新幹線と離れるといよいよ何もない中を延々と走ることになる。そのうちに田んぼの中に町が見えてくると花巻。ここで一旦途中下車することにする。

 

 花巻で途中下車したのは、ここにある「花巻城」を訪問するため。東北の要地であるこの地には既に平安時代から城があったと言うが、それを近代城郭に改めたのは南部氏であり、一国一城令の後もこの城は存続を認められ、周辺地域の政治の中心となっていたが、明治になって廃城を迎えたとのこと。駅のロッカーにトランクを預けると、駅前の観光案内所で花巻城のマップを入手する。どうやら駅前から下っていくと花巻城にたどり着くようだ。

 花巻は意外と起伏のある町。駅から下っていくとイトーヨーカ堂があるが、その反対側の丘の上が花巻城跡らしい。城があった一帯は小高い丘になっており、北側は崖になっている上に水路もあったようなので、こちら側の防御は万全である。ここから坂を上って、かつての門跡を過ぎると本丸跡にたどり着く。本丸跡には西門を復元してあり、ここが一番城らしい部分。

 復元西御門

本丸風景

 本丸内は今は公園になっており、ゲートボールをしている老人などがいる。スペースはかなり広大で、本丸屋敷などもあったのだろう。北側と東側はかなり険しい崖であり、東側の最外郭には天然の掘たる北上川もある。これらの方向は地形を使って防御していたようだ。南側は地形的にはなだらかな斜面になっているので、こちらには二の丸、三の丸などを配し、堀を造って防御していたようである。現在はこのあたりはグランドや住宅地になっており、堀跡の一部が残るののみで、門跡などは標識が立っているだけ。ただ道路に何となく昔の曲輪の配置の名残がある。規模的にも小さくない城だし、市街の中の城の割には比較的遺構が残っているようである。

左 御隅櫓跡  中央 外を見下ろす  右 本丸井戸跡

左 鐘撞堂下御堀  中央 御厨跡  右 二の丸部分はグランドになっている

左 本丸入口  中央 御長屋前御門  右 時鐘堂

 さらに南に向かうと、体育館の横に時鐘楼が建っている。この鐘は当時のものらしい。ここまで見学すると再ぴ本丸跡を通って駅前に戻ることにする。ただ駅まで坂道を登っていくのがしんどくなったので、イトーヨーカ堂からバスに乗ることにする。

 

 駅でトランクを回収するとさらに東北本線を南下することにする。ただやはり東北本線は田んぼばかりで車窓が退屈である。また列車の方も悪名高きロングシート車ばかり。何も鉄道マニアに嫌がらせをしているわけではないのだろうが、長距離を乗るにはしんどい車両である。こういう辺りはJR各社に共通の「長距離は新幹線に乗れ」という政策の反映。長距離を在来線で移動されないために、在来線の乗り心地はできる限り最低レベルに抑えているのである。同様の区間はJR東海の静岡地域、JR西日本の姫路以西(特に姫路−岡山間)が存在する。

 いわてデスティネーションキャンペーン?

 この頃になると、花巻で歩き回ったせいか歯の痛みが洒落にならないようになってきた。もう見た目をかまっている余裕がないので、湿布を出してきて顔に貼る。こうなるとどうにかごまかすしか方法はない。

 田んぼの中を走行することしばし、再び新幹線と合流する北上は一応は都会。しかしそこを過ぎるとまた田んぼ。ようやく一ノ関に到着。今日は一ノ関に宿泊する予定なので、このままホテルに向かっても良いのだが、まだ行動可能時間が残っている。少し悩んだが、このまま列車を乗り換えて小牛田に向かうことにする。というのは以前に東北本線を小牛田までは視察しているからである。今回一気に東北本線の視察を終えてしまおうという考え。

 

 一ノ関−小牛田間の沿線も基本は田んぼである。時折山に遮られることはあるが、そう深い山があるわけでない。何となくこの地域が大農業地帯になる理由が分かった気がする。

 夕闇が迫ってくる

 小牛田に到着する頃には日は西に傾いていた。これで東北本線視察終了である。これからまた同じ列車で折り返す手もあるが、それはあまりに工夫がないので、ここから陸羽東線で古川まで移動し、そこから新幹線で一ノ関に戻ることにする。

  奥の細道車両

 陸羽東線のホームには奥の細道のエンブレムを付けた2両編成のキハ110が停車している。このルートは鳴子温泉へのアクセスルートで、鳴子温泉駅まではそこそこの本数があるようだ。また乗客も意外にいる。

 小牛田を出ると沿線は田んぼ。そもそも小牛田自体が駅前に何もないところである。しばし田んぼの中を走って、やがて人家が増えてくるとそこが古川。どうやら古川の方が小牛田よりも都会のようである。いよいよもって東北本線は謎の路線である。

左 古川駅  中央 在来線と新幹線の改札が隣接  右 新幹線で一ノ関へ

 古川駅では在来線の改札と新幹線の改札が隣接している。一ノ関−古川間の運賃を支払って改札を出ると、一ノ関までの新幹線の切符を購入して新幹線改札を通る。新幹線駅という割には改札内には全く何もなく、相生駅と非常によく似た雰囲気である。

 一ノ関に到着

 まもなく新幹線が到着。山の中を走る新幹線は、途中でくりこま高原駅というこれまた何のためにあるのか不明な駅を過ぎると、一ノ関にすぐに到着する。

 

 一ノ関で宿泊するホテルは蔵ホテル一関。駅前からホテルまで歩くが、この間にも歯の痛みは洒落にならないレベルになりつつある。ホテルにチェックインすると、どこかに休日診療が可能な歯科医がないか調べてもらうが、結局はどこにも全くないという調査結果に。これはシップで誤魔化し続けるしか仕方ないようである。

 とりあえず夕食に出るが、あまり食欲がない。面倒くさくなったので、ホテル近くのそば屋でてんぷら定食をいただいてそれに終わりにする。やはり歯が痛い。

 

 夕食を摂って帰ってきてテレビをザッピングしていたら「江」が目に飛び込んでくる。どうやら三成の最後らしいのだが、なんと豊臣家の今後を秀忠に託して死んで行く三成に絶句・・・。もうここまで滅茶苦茶だと何も言いようがない。これは日8ドラマどころか、今後は「コメディお江でござる」とタイトルを変えて欲しいところである。

 

 目眩がしてきたので大浴場に入浴に行くが、体が温まると歯がさらに痛み出す。再び湿布を張り替えるとそのまま床に就く。

  

☆☆☆☆☆

 

 

 昨晩は眠れるか不安だったのだが、湿布が効いたのか歯の痛みに煩わされることなく爆睡した。心なしか歯の痛みも和らいでいるようである。果たして本当に痛いのは歯なんだろうか? 左側の歯が痛む場合、関連痛だとしたら可能性があるのは心臓・・・これは洒落にならんぞ。

 ただ「いくらか痛みが和らいだ」と言っても完治とはほど遠い。おかげで朝は食欲が出ない。ホテルで朝食を早々に済ませるとさっさとチェックアウトする。

 

 今日一日は車で行動する予定。既に一ノ関駅でレンタカーを手配してある。借りるのは例によってヴィッツ。とりあえず勝手の分かっている車の方が運転しやすい。

 

 車を借りたのはこれで平泉を観光するため。そもそも一ノ関は平泉観光の拠点であり、ここから平泉に立ち寄る者も多い。世界遺産云々でいきなり平泉訪問を思い立つほど私はミーハーではないが、歴史マニアとしては奥州藤原氏ゆかりのこの地は当然押さえておくべき場所であり、以前よりその機会を伺っていたのである。

 

 一ノ関から平泉までは車で20分もかからずに到着する。先んずれば人を制す。朝一から行動を開始したおかげでまだ平泉を走っている車は多くはない。まずはやはり中尊寺の見学からというのが王道だろう。中尊寺前の町営駐車場に車を止めると、まずは中尊寺を目指す。

 

 中尊寺は平泉を見下ろす小高い山の上にあり、参道は尾根筋を登っていくルートになる。これが予想以上にきつい。体調が良くないので登りが体に響くし、血圧が上がってくると歯の具合がまた悪くなってくる(まさか本当に心臓じゃないだろうな・・・)。以前から感じていることだが、つくづく古社寺はそれ自体が要塞のようなところが多い。

入口から急斜面をヒーヒー言いながら登り、ようやく門にたどり着く

 ヘロヘロになりながら門のところまでたどり着くと、後は寺内はほぼ平坦でようやく一息つく。すでにかなりの高度があるようで市街を一望できる位置に来ている。

左 弁慶堂  中央 となればヒーローはこの人  右 既に大分標高が高い

左 地蔵堂  中央 薬師堂  右 観音堂

左 本堂  中央 不動堂  右 峯薬師堂

左 大日堂  中央 鐘楼  右 讃衡蔵(宝物庫)

 ここから各種祠を訪ねつつ金色堂に向かう。金色堂手前にゲートがあり、ここからは料金が徴収される。奥にテレビでも何回か見たことのある建物があるが、これは金色堂を風雨から守るための覆堂である。金色堂はこの中で建物内は撮影禁止。

  金色堂

 金色堂はまさに仏教的極楽浄土を体現するキンキラキンの建物。このド派手さは昔の権力者が仏教を好んだはずである。これに匹敵するセンスと言えば秀吉の黄金の茶室ぐらいか。とにかく、仏教ほど本来的にわびさびの境地と遠いものはない(概して宗教はいずれもキンキラキンが大好きなものだし、教祖様は金銭欲が強いものだが)。どうも極楽浄土というところは目には悪そうであるので、なるべく焦らずにゆっくりと行くことにしたい。

左 旧覆堂  中央 この地のもう一人のスーパースターはこの人  右 能舞台

松尾芭蕉像

 金色堂の見学を終えて寺内を一周して帰ってきた時には、町営駐車場はすでに満車となっていた。次の目的地に向かうことにしたいが、とにかく疲れた。その前に駐車場近くの土産物屋で「ずんだ餅(600円)」をいただくことにする。

 

 枝豆の風味がやや青臭さを感じさせるが、それが嫌みではなく絶妙のアクセントになっている。今までずんだについてはそうおいしいとは感じなかったのだが、それはものが良くなかったということか。

 

 ずんだを食って一息つくと次の目的地へと車を出す。次の目的地は毛越寺(もうつうじ)。平泉見学では中尊寺とこの毛越寺が定番らしい。とりあえず毛越寺に隣接する町営駐車場に車を入れると入場。寺内に巨大な池があるのが印象的である。現在の本堂は平成になって再建されたものだと言うが、池の奥にはかつての建物の跡が残っている。これは近年の発掘調査の結果とか。建立されたのは中尊寺と同時期とのことだが、創建当時は中尊寺を凌ぐ規模を誇ったとか。中尊寺と共に奥州藤原氏の栄華を伝える建造物である。

寺内には再建された本堂などの建物もあるが、遺跡が多い

 

 中尊寺を見学していた間はどうにか持ちこたえていた天候が、毛越寺見学の最中にとうとう限界が来たようで、かなり雨が降り始めた。こうなるとかなり行動が制約される。毛越寺の次は柳之御所遺跡を見学。近くの資料館に車を止めて内部を見学してから、現地の見学に向かう。ここは奥州藤原氏の居館跡と言われている場所であり、発掘調査の結果かなり貴重な遺跡が次々と発見されたという。この発見を受けて、元々はここを通るはずだった堤防やバイパスのルートが変更となり、遺跡が保護されることになったのだという。日本ではとかく貴重な遺跡が無意味な開発で破壊されることが多いことから(長屋王屋敷跡に建ったそごうなど)、これはかなり希有な幸福な例である。この背景には当時の平泉が観光振興の観点からも世界遺産登録を目指していたということもあるだろう。

左・中央 堀などが存在している  右 道路跡

左 建物跡  中央 この辺りが館の中心建物  右 井戸跡

 柳之御所跡には堀跡なども残っており、やはり屋敷と言っても防御の構えはあったことがよく分かる。かなり広大な敷地だが、中心に二棟の巨大な建物があったことが発掘調査から確認されており、その跡も復元されている。

 

 とは言うものの、やはり建物も何もないただの遺跡はよほどのマニアでないと見ていてもやや退屈なのは事実。そして何よりもたまらないのは、風が強くなっているので吹き降り状態で傘が役に立たなくて頭からずぶ濡れになること。さすがに長時間の見学は不可能と言うことで撤退する。

 

 平泉周辺で見るべきところは大体見たが、夕方まで車を借りているのでまだ時間にはかなり余裕がある。そこで次は厳美渓の見学に行くことにする。厳美渓は一関市西部の磐井川中流の渓谷で、名勝として知られている場所である。実は平泉見学がサクッと終わった時のために予めここのことは調査済み。

 厳美渓

 車で20分ほど走ると厳美渓の案内看板が見えてくる。近くで車を停めて渓谷の見学に向かう。いわゆるよくある岩場の急流である。しかし団体客でも来ているのか岩場の上は押し合いへし合いの大混雑。濡れた足下が危ないし(実際にこけている人もいた)、これではいささか情緒が削がれるのも事実。

  

左 実際はこの大混雑   右 厳美渓名物空飛ぶ団子

 渓谷を見学した後は近くの茶店で団子入りの冷やしぜんざいを頂いて一息。何か今日は甘物ばかり食べている気がするが、歯痛のせいで昨日まともに何も食べていないのが効いているようである(よく考えると完全に昼食抜き)。今日は歯痛がやや治まっているのはありがたい。

 

 厳美渓を見学した後は近くの一関市博物館に立ち寄る。展示物は古代から近代までの一関の歴史と言ったまあよくある内容。なぜか全国津々浦々こういう展示の内容はあまり差がない。石器の展示があり、鎧の展示があり、鍋釜が展示されといった具合。

  一ノ関市博物館

 さきほどの博物館に寄った時に一関に武家屋敷があるらしきことをつかんだので、次はその見学。それは駅前の住宅地の一角にある沼田家武家屋敷。沼田家とは家老とのことでつまりは家老の屋敷である。なお当時の現存のままと言うわけでなく、現地で説明を聞いていると、人手に渡っていたものを買い取っての復元とのこと。だから茅葺き屋根が茅の調達が困難で、実際には芦拭き屋根になっているとか。なかなかに趣のある屋敷だが、家老の屋敷にしては質素だというのが正直な感想。

沼田家住宅は意外に質素

 さてこれで大体見るべき場所は見終わったが、まだ1時間弱の時間が残っている。どうしようかと考えた時、一関に到着した時からずっと気になっていた場所が頭に浮かんだ。それは釣山公園。一関を見下ろす位置にある小高い山で、どう考えてもお城があったのではないかと思われる地形である。ただどうも事前の調査でもここにお城はあったようななかったような曖昧な記述ばかりだし、現地でも一関城などの表記は一切見かけることがなかった。しかしいざ一関に着いてみると、誰がこの地域の主となっても、まず間違いなくあそこに城を造るだろうという地形。これは一応現地を視察してみようかと思った次第。

  釣山公園遠望

 どこからアクセスしたらよいか分からず、山の周囲をグルグルと二周ほどしてから、ようやく登り口への狭い道路を発見、その奥に小さな駐車場を見つけるとそこに車を停めて山に登る。釣山は桜の名所とのことで完全に公園整備されてしまっているので、城としての遺構らしきものは全く見あたらない。ただ各地にある公園施設の構造がどう見てもかつての曲輪跡に見える。昔の地形がどこまで残っているかは定かではないが、やはりここには城があったのではないかと思われる。

左 どう見ても曲輪跡っぽい配置  中央 登りもかなり急  右 日本庭園

左 山頂はどう見ても本丸跡  中央 烽火台跡  右 山頂からは市街を一望
 

 山頂までの道は完全に整備されているにもかかわらずかなりキツイ。ヒイヒイ言いながら山頂に登るとそこには神社が。スペース的には明らかに本丸屋敷などがあったのではと思われる空間である。途中には日本庭園なんかもあったし、やはりどう考えても城跡である。ふと見ると近くの小山の麓に「烽火台あと」と書かれた看板が落ちている。やはり城らしきものはあったようであるが、それを思わせるのはこの看板だけであった。

 

 帰ってからさらに詳細に調べてみたが、やはりこの山には中世に山城があったのは間違いないようで、「一関城」との表記も見られる。もっとも遺構も記録もほとんど残っておらず、その詳細は不明の模様。どうやら山上の城郭は近世までに廃城になってしまって、以降は山麓の館が一関城とのこと。江戸期になると山城は不要になったと言うことだろう。

 

 釣山公園をウロウロしていたところでレンタカーの返却時間が近づいてきた。慌ててガソリンスタンドを探してガソリンを満タンにしてから車を返却すると、一ノ関から新幹線に飛び乗って帰宅の途についたのである。

 

 ここのところは温泉慰安旅行に近いような遠征があったりしたのだが、久々のいかにも私の遠征らしい遠征になったのが今回。とにかくギリギリのタイムスケジュールで走り回ったという印象で、全日程を通して昼食をまともに摂っていないというのがいかにも私の遠征らしい展開。今回はあちこちを見て回ったが、おかけで連日一万歩越えが続いており、その分疲労が半端ではない。実は次の連休で今度は九州方面に向かう予定になっており、これは財力のみならず体力的にもかなりキツイものになることが予測される。

 

 ちなみに本遠征のメインステージは秋田だったはずなのだが、結局は悪天候と体力切れのせいで秋田市ではホテルにお籠もりという体たらくになってしまったことは痛恨の極みである。またきりたんぽもイマイチだったし、秋田については惨々だったという印象である。いずれ秋田にはリベンジの必要があるだろう。

 

 なお帰宅した私は翌日早速歯科医に駆け込んだのだが、治療済みの歯の奥で虫歯が見事に再発しており、いきなり神経を抜かれることになった次第。どうやら歯の痛みも肩の痛みも心臓病の関連痛ではなく、単純に虫歯と四十肩だったようである。

 

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