展覧会遠征 信越編

 

 大型遠征が相次ぎ、私の体力も財力も双方ともにガタガタである。しかしそれでもまた三連休があるとどうしても遠征の計画を練ってしまう。これはもう私の逃れられない性なのだろうか。この三連休も長野遠征の計画を立ててしまったのである。

 目的は信濃美術館で開催される菱田春草展。ただ長野まで出て行くとなるとさすがにそれだけのためというのはなかなかツラい。そこでさらにこの地域での未視察路線である飯山線と北越急行線の視察を合わせた二泊三日遠征計画として立案された。

 この計画自体は実はかなり早くから輪郭は定まっていたのだが、この夏の集中豪雨で飯山線が不通になってしまったりなどでかなり最近まで計画が二転三転していた。しかしやはり私の日頃の行いの良さか、飯山線も無事に復旧工事が終わり、当初の予定通りつつがなく計画が実行されることになったのである。

 しかし直前になって私の不手際でとんだ予定の狂いが生じてしまった。当初予定では土曜の早朝に新幹線で名古屋に行き、そこでワイドビューしなのに乗り換えるつもりであった。しかし実行一週間ほど前になってサイバーステーションで確認すると、なんとワイドビューしなのは8時名古屋発の3号から昼過ぎの便まですべて指定席が塞がってしまっていたのである。この列車が混雑しやすいことは以前から知っていたにもかかわらず、チケットの手配が遅れた私の手抜かりだった。自由席で行くことも考えたが、脳裏をよぎるのは以前の長野遠征での悪夢。これは絶対に避けたいところ。となると日程を動かせない以上方法は1つしかない。まだ空席がある1号に乗車すること。しかし午前7時といった早朝に出発するこの列車に乗車するには、朝一番の新幹線に乗っても間に合わない。やむなく大阪で前泊する羽目になった次第である。

 正直なところあまり前泊は好きではない。仕事で疲れてからホテルまで移動するのはしんどいし、日が沈んでから列車に乗っていると鬱になってくる。だから私は基本的には夜に移動するのは自宅に戻る時だけにしているのである。しかしこの際、背に腹は代えられない。

 金曜日の仕事が終了するとすぐに大阪駅に直行。大阪駅で食事を済ませるとさっさとホテル入りして、早めに床につく。明日は早朝出発である。

  

☆☆☆☆☆

 

 

 翌朝は早朝にチェックアウトすると、朝一番の新幹線で名古屋入りする。ここでワイドビューしなの1号に乗り換え。一週間前の時点では空席が十分にあったしなの1号も、既に指定席は満席とか。秋の行楽シーズンと言うことだろうか。相変わらず混雑する特急である。

 例によって振り子のしなのはあまり快適とは言い難い揺れ方をする。しかししばらく経つと、昨晩まともに眠れていないためにすぐに深い眠りについてしまう。

 次に気がついたら塩尻だった。そこから数分で松本に到着。松本で大半の乗客が降車するが、いかにも山岳装備の乗客が多い。

 松本を過ぎると長野まではそう遠くない。三大車窓の一つに挙げられる善光寺平の風景などを楽しんでいるうちに長野に到着する。

 久しぶりの長野だが、やっぱり「あぁいいなぁ」という声が出る。やはり私は信州とは相性がよい。ロッカーにトランクを預けるとまずは第一目的地へとバスで向かう。

 


「没後100年 菱田春草展 −新たなる日本画への挑戦−」長野県信濃美術館で10/16まで

 新たな日本画を目指して模索した巨匠の展覧会である。彼は横山大観などと共に新しい表現を追求し、朦朧体と揶揄された画風を経て、新たな境地にたどり着くのだがその課程を辿ることができる。

 ただ惜しむらくは彼が若くしてこの世を去ったこと。彼の早逝については大観が非常に惜しんだというが、この二人がまさに同志として共に研鑽していたことを考えれば当然だろう。本展でも春草の作品と大観の作品が並べて展示されているところがあるが、その技法的には極めて近いことが分かる。もっともその絵画の傾向はやや異なり、大観が動で剛だとしたら、春草は静で柔である。もし彼が早逝する事なければ、大観と対照的な巨匠として君臨したであろうことを考えると残念至極である。

 


 本展のためにわざわざ長野くんだりまで出てきたのだが、その価値を感じさせるだけの見応えのある内容であった。当然のように隣の東山魁夷館ものぞくと、美術館前のバス停へと急ぐ。時間に余裕があるわけではないので、行動に迅速さが必要である。長野駅までバスで戻ってくると次の目的地へ。そこへのバスは新幹線口の方から出ている。バスで10分程度のところで、この辺りになると長野市郊外の雰囲気がある。

 


水野美術館

 近代日本画を展示する同館では、現在は「日本画に見る風物詩」と題してコレクション展を開催中。会場に入った途端に正面に飾られている奥田元宋の「秋渓淙々」には息を呑まされる。紅葉の赤の見事さはさすがに「赤の元宋」の面目躍如だが、精密に描かれた水の流れがアクセントとなっている。個人的には元宋ってこんなに精緻な絵も描いたんだとと妙なところに感心。

 展示作には伊藤小坡、菊池契月、上村松園の美人画といった私の好みの作品もあり。また大抵は下卑た感じを受けて余り好みではない伊東深水も、本館の展示作はなかなか私の好み。川合玉堂の秀品も数点。

 これ以外で印象に残ったのは、ご当地画家・斎藤俊雄氏の「野火」。普段は静かな画題が多いという彼が、対象に余程魅入られたのかかなりダイナミックで動的な絵画に仕上げており、非常にインパクトのある作品となっていた。

 


 この美術館は立派な日本庭園を持つことでも知られている。バスの発車時刻までをこの庭園を見ながらのんびりと過ごすと、バスで長野駅まで移動する。再び長野駅に戻ってくると、次の目的地への移動の前に昼食を摂ることにする。悩んだ結果、駅前のそば屋に入る。手打ちというそばは腰があって味はまずまずなのだが、いかんせんCPが悪い。

 

 昼食を済ませたところで次の目的地に移動する。正直なところ久しぶりに長野に来たら思いの外しっくりきてしまったので、心情的にはこのままここでプラプラしても良いようにも思っているのだが、残念ながら先の予定が詰まっているので進むことにする。

 次の予定は飯山線の視察。そしてとりあえずは北飯山にある飯山城の訪問である。飯山線のホームは篠ノ井線のホームの北半分を使っている。篠ノ井線にはしなの鉄道が乗り入れており、元々は続いていた線路をあえて障害物を入れて断ち切ってある。

左 キハ111  中央 障害物の奥がしなの鉄道  右 連結部

 ホームには戸狩野沢温泉行きのキハ111がやってくる。これは非電化ローカル線定番のキハ110の二両編成版である。風情はローカル線なのだが、2+1型セミクロスシートの車内はすぐに満員になる。

 沿線は三才までは長野市の郊外、しかしそこからは沿線はひたすらリンゴ畑になる。豊野で上越線と別れた飯山線は千曲川に沿って走ることになる。なかなかに風光明媚。ただし上越線沿線よりもこちらの方が人家は多いぐらい。

 北飯山駅に到着

 大量の降車があるのが飯山。飯山はこの沿線の最大の町のようである。ただ私はここで降車せずにさらに一駅先の北飯山で下車する。実はこの駅が飯山城の最寄り駅。ただ駅自体は小さな無人駅で何もない。飯山城はここから数分歩いた先にある。

 

 「飯山城」は戦国期に上杉謙信が武田信玄の侵攻に対抗するための拠点として築いた城と言われている。謙信の本拠である春日山城が直江津の南部にあることを考えると、その拠点としての重要性は頷けるところである。

 北飯山駅からアクセスすると、城跡の北西端にたどり着く。一番北の手前に弓道場などがあり、そこに立派な石垣があるのだが、この石垣自体はどうも当時のものとは思えず、どうやら後から作ったもののように思われる。ただ弓道場がある場所自体は元々は曲輪のようである。また弓道場の脇に門の遺構が残っている。

左 恐らくこの駐車場はかつての堀跡  中央 弓道場下の石垣は後世のものか?  右 弓道場手前の南中門跡

 ここの南部に復元された門が建っている。説明によるとこの門は飯山市の丸山家に残されていた門を移築復元したものだとのこと。ただし本当に飯山城のものかは不明とのこと。また丸山家に移築された後に大幅な改造が加えられているために、復元に当たっては柱や部材をすべて調査して築城当時のものと思われるもののみを取り出して、弓道場の脇にあった門の遺構の規模に合わせて復元したとのこと。そのためにかなりの推定復元であるらしい。

 復元された南中門

 この門をくぐると城の正面に出る。もっともこれは今日正面になっている側で、本来は絡め手口の方向である。元々の大手門は北側にあったようだ。とりあえずこちら側から本丸部分に登る。本丸跡は例によって神社になっているのだが、櫓跡の石垣や、本丸門跡の虎口などがしっかりと残っていて驚かされる。飯山城に関しては無名の城と少々侮ってかかっていたのだが、これだけ立派な遺構が残っているとは思いもしていなかった。

左 本丸の搦手口側  中央 西曲輪跡は公園に  右 本丸への登り口

左 本丸上はお約束通り神社  中央 神社の脇に櫓台跡が  右 櫓跡から見た本丸虎口

二の丸側から見た本丸石垣

 虎口を抜けて降りるとそこは二の丸跡。ここはそこそこの広さがあり、東に千曲川を見ることができる。往時はこの千曲川が天然の外堀となっていたのだろう。

 二の丸風景

二の丸から望む千曲川

 さらに一段下がった三の丸は今では植物園の趣。こうして見てみるとこの城は北の大手から奥に曲輪がつながる連郭構造になっていたことがよく分かる。また下に見える学校の位置にはかつては堀があったらしい。正直なところ予想していたよりは規模も大きく、遺構も残っている城だった。わざわざ途中下車して立ち寄った価値はあったというものである。

 三の丸風景

左 二の丸から三の丸への降り口  中央 三の丸の先端に石碑が  右 この学校のある場所も堀跡

左 桜井戸跡  中央 この三年坂はかつての大手道か  右 三年坂の先、多分大手門があった場所

 飯山城の見学を終えると、北飯山駅からさらに戸狩野沢温泉まで向かう。今日は野沢温泉で宿泊する予定である。この沿線は延々と田んぼが続く風景で人家は沿線からやや遠いようである。たどり着いた戸狩野沢温泉駅はまさに野沢温泉の玄関口の駅で、ここから野沢温泉行きのシャトルバスが運行されているのでそれに乗り換える。

 戸狩野沢温泉駅

 バスは千曲川を越えて山岳方面に進んでいく。野沢温泉まではバスで15分ほど。野沢温泉自体は山間のひなびた温泉郷だが、スキーシーズンにはかなりの観光客が来るとみえて、駐車場は巨大なものが何カ所かある。野沢温泉バスターミナルはまさに温泉街のど真ん中で周囲には巨大ホテルが林立している。とりあえず観光案内所に立ち寄ると案内マップを入手して宿泊ホテルに向かう。

   野沢温泉に到着

 今日の宿泊ホテルはLandhausあぜがみ。選択基準は例によって「お一人様可」であること(この時代でも相変わらず温泉旅館ではこれを最優先にせざるを得ないという現実がある)、さらにはリーズナブルな宿泊料である(お一人様可でも一泊2万円以上なんて言われるとさすがに無理)。バスターミナルから数分歩いて下ったところにホテルはある。ホテルではなくてペンションとの表示が出ている。とりあえずチェックインして荷物を置くと、外湯巡りをするべく町に出る。

 

 野沢温泉には13カ所の無料の外湯がある。これらは村の共同湯として地元の人々によって守られてきたものである。まずはホテルに一番近い十王堂の湯に立ち寄る。非常にシンプルな施設で、脱衣所と呼ぶべきものがまずなく、部屋の真ん中に湯船があり、その周囲のタイル貼りの部分が洗い場(と言っても身体を洗えるほどのスペースはないが)、その回りにスノコがしいてあって脱衣棚があるという構造。ロッカーなどはないが、直接荷物に目が届くようになっている。ただ仕切も何もないので機械類を持ち込んだら湿りそう。

 十王堂の湯

 また噂には聞いていたのだが、とにかく野沢温泉の湯は熱い。ぬる湯好きの私にはかなりキツイ温度で、背中がチリチリする。これだけ熱い湯は鳥取の温泉銭湯以来である。泉質自体は含硫黄のアルカリ泉で風呂全体から硫黄の匂いがしている。基本的には肌当たりは良い湯なのだが、こうも熱いと刺激が強すぎ。

 

 十王堂の湯の入浴を終えた後はさらに温泉街をフラフラ。街の中心部付近に風情のある建物があるが、これが有名な大湯。ついでだからここにも入っていくが、こちらは中は大混雑。しかし内部構造は十王堂の湯と大差ない。違うのはこちらにはぬる湯の浴槽と熱湯の浴槽の2つがあること。しかし見ると全員がぬる湯の方に入っている。しかしこの浴槽、ぬる湯と書いていてもやっぱり滅茶苦茶熱い。これは熱湯の方に行く客がいないわけである。

左 大湯  中央 川原湯  右 温泉街風景

 再度の入浴を終える90度の熱湯が湧きだしているという麻釜を見学。地元の人が蒸気を利用した温泉蒸しなど作っているようで、これは別府などでも見かける光景。途中の店で風呂上がりの定番のコーヒー牛乳(本来はフルーツ牛乳の方が良いんだが)などを頂きながらゆったりと散歩である。

麻釜では地元の人が野菜を茹でていたりする

 散歩を終えてホテルに戻ってきた頃にはちょうど夕食の時間となる。夕食はいかにも地元食的なメニューで、川魚の焼き物や蕎麦、漬け物の類や野菜類など。手の込んだ家庭料理というようなイメージである。しかしこれがまたうまい。格別に豪華な夕食ではないが、やはり地元密着の食材はうまい。また季節柄かくりご飯なんてのが泣けてくる。結局はタップリと夕食を堪能した。

 

 夕食を食べてから一服すると、もっとも近い外湯である新田の湯を訪れる。ここも今までの外湯と構造は同じ。どうも野沢温泉共通仕様があるようである。湯も例によって硫黄の匂いが漂う熱湯。とにかくさっぱりする湯である。

 新田の湯(翌朝撮影)

 風呂から戻ってくると早速することがなくなってしまった。このホテルはインターネットが出来ないのが難点。原稿書きなども少しするが、やはり疲労が極限まで来ているらしく全く執筆不能。やむなくテレビをつけると常盤貴子主演の「神様の女房」をやっているので、これをボーっと見る。要するに松下幸之助物語なのだが、意外と面白い。しかしこの形式って、NHKも例のゲゲゲで味を占めたな。その内、「落合の女房」とか「野村の女房」なんかも出てくるのか?・・・見たくねぇなぁ。

 

 テレビを見終わった頃には疲労が襲ってくる。眠気に抵抗する理由もないので布団をひくとさっさと寝てしまう。

  

☆☆☆☆☆

 

 

 翌朝は6時半に起床。疲れが溜まっているのか爆睡したみたいなのだが、まだ体にだるさが残っている。朝風呂に出かけようかと思ったが、その元気もないので朝食時間までボーっと過ごす。

 

 7時半になると食堂で朝食。シンプルなメニューだが、例によって地物でなかなかにうまい。朝から食が進む。食事が終わるとまた9時前までボケーッとしてからチェックアウト。シンプルではあるが、宿泊料諸々を考えるとなかなかに良いホテルであった。よくよく考えてみると、「お一人様」条件のためにいつもホテルの選択に苦労するが、逆に選択したホテルが外れた経験がない。意外と「お一人様」条件は旧態依然の大名経営の駄目ホテルを弾くための良いフィルタになっているのかもしれない。

 

 今日はまずはバスで飯山に移動する予定。野沢温泉からのバスは飯山行きと戸狩野沢温泉行きの二種類があるが、どちらも長野方面行きの列車とは連絡しているが、十日町方面行きの列車は無視である。それならバスで飯山まで行って、十日町方面行きの列車が到着するまでの1時間ほどを市内見学でつぶすかという考え。

  

 ウネウネとした生活道路を抜けつつ、バスは40分程度で飯山駅に到着する。まずは駅のロッカーにトランクを放り込むと、駅の隣の観光案内所で付近のマップを入手。とりあえず散策に出ることにする。まずは最初の目的地は決まっている。それは飯山市美術館。そう私の遠征はあくまで「美術館遠征」である。目的地は駅から10分ほど歩いたところにある。

 


「虚の世界に遊んだひと 箕口博彫刻展」飯山市美術館で11/6まで

 飯山生まれで30才にして独学で彫刻家に進んだという箕口博氏の展覧会。

 作風的にはいわゆるありがちな前衛彫刻。テーマは「虚」とのことなのだが、やけに空虚感が漂い不安定な作品が多かったのが、彼の語るところの「虚」の表現なのだろうか。心情的には分からないではないが。

 なお作品がやけに不安定なものが多いため、会場内には「触るな、飛び跳ねるな」の類の警告が出ていたが、時節柄「地震が発生した際にはただちに作品から離れて下さい」の表示があったのには不謹慎かと思いつつも笑ってしまった。

 


 美術館の建物自体は伝統産業間も兼ねているために、和紙細工や仏壇などの展示もあったというのが何ともカオスな印象の施設であった。

 美術館の見学を終えると近くのふるさと館を見学。これはなんてことのないどこにでもよくあるパターンのいわゆる民俗資料館。この地域が細工物や紙などが地場産業だということは分かるが、別に今更古い織り機を見ても特に面白くもない。

 

 さてまだ30分強の時間が残っているのだがどうしたものか。ウーンと考えた時に目に飛び込んできたのは高橋まゆみ人形館のポスター。昨日から町のあちこちで案内を見ているし、どうも飯山の観光の目玉はこの施設っぽい。また私としても何となく惹かれるところのある人形である。果たして30分で見学して帰ってこられるかが微妙だが、もし10分歩いてたどり着かないようなら引き返すというつもりで、地図を見ながらやや早足で進む。

飯山市風景

左 観光案内所  中央 風情あるお寺(西敬寺)  右 謎の朽ちたSL機関車

左 飯山線車両  中央 仏壇通  右 謎のアパート

 仏壇屋ばかりの商店街?を抜けて進むと高橋まゆみ人形館には8分程度で到着した。周辺にはかなりの人だかりで大盛況の模様。実際、中も多くの観客で押し合いへし合いであった。人形自体はどことなく懐かしさを感じさせる作品で、その点では与勇輝の作品などを連想させるところがあるが、彼の作品よりもユーモラスさが強いのが特徴。精密さは同じでも与勇輝の作品にはファンタジー的な美しさが垣間見えるが、高橋まゆみの作品はもっと泥臭くいリアリティを感じさせるものである。

    

 別に私は人形に興味があるわけではないが、どうも最近人形づいているようである。趣味が広がったというか、あまりに脈絡がないというか・・・。

 

 とりあえず時間がないので見学を手早く切り上げると、再び早足で仏壇通りを駆け抜けて駅に戻る。飯山駅にはなんとか列車の到着時間前に到着する。それにしても慣れない早足なんかで移動したせいか、6000歩という歩数の割にはやけに疲労した。体力の衰えを感じると共に、こんな調子でこれから先もつんだろうかとやや不安になる。

   その日に向かって絶賛大工事中

 駆け足の飯山見学であったが、結構風情があって良い町である。鉄道旅行のせいでスケジュールに追われる上に移動距離が限られてしまうが、車で来ればまた印象も違うかもしれない。どうもこの飯山線沿線は車でもう一度来てみたいという気を起こさせる場所である。

 

 駅に到着したのは例によってキハ110系の三両編成(キハ110+キハ111×2)。これが戸狩野沢温泉で後ろの二両を切り離して、先頭のキハ110の単独行になる。沿線は例によって千曲川沿いの風光明媚な風景が繰り広げられる。

左・中央 栄村の風景  右 森宮野原駅(この辺りが栄村の中心)

 途中で栄村に差し掛かる。栄村は先の東日本大震災の同時期に大地震に見舞われて建物の倒壊などの大きな被害を出したのだが、住民の防災意識の高さと人口密度が低かったことによって人的被害が0だったため、悲惨な絵を好むマスコミに完全にスルーされてしまったという不幸な地域である。一部には「栄村大震災」として知られるこの地震だが、当初には東日本大震災の余震の一環扱いまでされていた(現在では東日本大震災とは直接の関係がないことが確認されている)せいで募金もろくに集まらなかったばかりか、国の支援も最初はスルーされていたとか。支援を受けるにもPRの上手下手が出てしまうのである。栄村の人々の我慢強さと比べると、「エア被災」とまで言われていた東京人の醜態と言えば・・・。

 

 この地震において飯山線は路盤が崩れて線路が宙ぶらりんになるという甚大な被害を受けたが、なんとか数ヶ月で復旧したと思えば今度は7月の集中豪雨で再び被害を受けると、まさに今年に入ってからは踏んだり蹴ったりの状態だったのだが、沿線風景はそんなことは全く感じさせないぐらいのどかなものである。ただ真新しい工事の跡があちこちにあり、まだ沿線に重機が置いたままになっていることが被害の痕跡をとどめている。

   十日町駅に到着

 栄村を過ぎてしばらく走行すると、線路は千曲川(既に新潟県に入っているので、正確には信濃川)を越えて南岸に移る。それと共に徐々に川が遠ざかってゆき、そのうちに住宅が増えてくると十日町である。なんてことない田舎の町なのだが、飯山線にずっと乗ってくると、今までの比較でここが大都会に見える。いわゆる「相対論効果」というやつである。

  

左 ほくほく線改札  右 駅前では何やら祭開催中

 列車は一応は越後川口行きとなっているが、実際は越後川口に向けて出発するのは1時間近く先になるようである。そんなものは待っていられないので、十日町から六日町までは北越鉄道ほくほく線で行くことにする。ほくほく線は六日町から犀潟までつなぐ(運行上は越後湯沢から直江津だが)第三セクター路線である。単線路線とは言うものの、高速運転に対応した高規格電化路線であり、越後湯沢から富山・金沢方面を結ぶ特急はくたかがJRによって運行されているので、その通行料によって目下のところは経営は順調である。ただ東京方面から北陸方面へのアクセス路線として設定されている特急はくたかは、北陸新幹線開業後には廃止が必至であるため、北越鉄道では来るべきその日に備えて基金を積み立て中とか。

 乗り換え待ち時間が20分ほどあるので、その間に間に合わせの昼食として駅でそばを食べると高架のホームへ。しばし後に二両編成の普通列車が到着する。内部はセミクロスシートで車両は新しい。次のしんざ駅までは大きくカーブしながら地上を走るが、しんざを過ぎると直ちにトンネル。後はまっすぐなトンネルを延々と突っ走る超高速地下鉄状態(何やら九州新幹線を連想する)。なんと次の美佐島駅に至っては地下駅。ようやく長いトンネルを抜けるとすぐに魚沼丘陵駅で、そこから大きなカーブを描いて六日町で上越線に合流する。魚沼丘陵という駅名からも分かるように、この辺りは南魚沼市で、沿線は町以外は一面の田んぼ。何しろ日本のコシヒカリの大半を占める魚沼産コシヒカリの一大生産地とあって、その面積は北海道にも匹敵する・・・と言うのは与多話だが、魚沼地域での米の生産量と、日本全国の魚沼産コシヒカリの流通量が全く釣り合っていないというのは有名な話。日本の流通業界の暗黒面の一端でもある。

 

 北越急行はいかにも「今時の鉄道」という印象の路線である。かなり高速で乗り心地も良いが、徹底して合理的に作られているせいで乗っていて面白味がない。以前から言っているが、つくづく合理性と旅情は両立しない。

 

 六日町に立ち寄ったのは「坂戸城」を見学するため。坂戸城は上田長尾氏ゆかりの山城で、あの上杉景勝と直江兼続はここで生まれたと言われており、上杉景勝が越後を掌握した後には直江兼続の居城となっている。標高600メートル以上の高山に築かれた堅固な山城で、今まで一度も落城したことがないとのことである(と言うか、下から見上げただけで攻める気もなくなる)。しかし以上のような輝かしいゆかりの割には城マニアの間でさえもなぜか知名度が低いという不幸な城でもある。もっとも近年になって例の直江兼続ブームでにわかに脚光を浴び始めたとの話もある。

 この山の上・・・

 トランクをロッカーに放り込むと観光案内所を訪問して地図と資料を入手、とりあえず往路はタクシーを利用することにする。それにしても見上げるような山。これは登りごたえがありそう・・・と言いたいところだが、残念ながら私は今回は山頂アタックするつもりはない。気力的にはその気十分なのだが、残念ながら今は体が悲鳴を上げている状態である。と言うのは左膝が膝蓋靱帯炎を起こしており、現在は階段の上り下りが不自由な状態。一ヶ月ほど前から階段の上り下りがつらい状態が続いたため先日整形外科を訪ねたところ、以上の診断がついた次第。私は腱鞘炎も何度も患っているが、どうも炎症体質のようである。ちなみに膝蓋靱帯炎は別名ジャンパー膝とも呼ばれていて、バレーボールやバスケットボールの選手のようにジャンプすることが多い運動選手が患う病気らしい。しかし私は両競技とも全く行っていないことから、私のは山城膝のようだ。山の下り坂で重すぎる体重を無理矢理膝で支え続けていたせいだろう。何にしろ今は炎症止めの薬を服用しつつ湿布で痛みを抑えているという状態であり、とてもではないが山に登っているどころではないのである。

  

 現地に到着していざ進もうとすると、大手門コースが先頃の集中豪雨で土砂崩れしたので立ち入り禁止との表示が出ている。ただしどうせこれは山頂付近のことなので麓は関係ない。とりあえず山の麓の館部分はこの大手門コースを進んだ先にあるようであるので先に進む。

左 家臣団屋敷跡  中央 上杉景勝・直江兼続生誕碑  右 坂戸城碑

 やがて目の前が開けるが、これが家臣団屋敷跡とのこと。かなり開けた土地で、何段かに分かれている。ただ具体的に屋敷跡が残っているというわけではない。

御館跡手前の石垣

 さらに先に進むと上杉景勝と直江兼続の生誕碑があり、その奥に坂戸城の碑が立っており、その後ろには石垣が残っている。これが御館の正面の石垣のようである。奥にさらに進むと何段かの削平地があり、これが御館跡のようである。あちこちに土塁跡らしきものも見られる。

御館跡の土塁

 そこからさらに登るものの、後は山上の詰めの城郭に至る通路があるのみのようである。大手門ルートに沿って一本杉を目指すことにする。ただ途中でも各所で斜面が崩落したような跡がある。やがて一本杉のところに到着。確かに大きな杉である。ここから大手門ルートは急斜面を直登するのだが、ここの部分が土砂崩れで立ち入り禁止になっている。確かにいかにも崩れそうな急斜面。もっとも崩れてなくてもとても登る気にはならないような道である。私はここから地図に沿って薬師尾根ルートに向かう道を進むことにする。

左 一本杉  中央 大手門ルート  右 土砂崩れで通行止め

薬師尾根ルートに向かう山道はこの惨状

 しかしこれがとんでもないものだった。こちらのルートには立ち入り禁止の表示は一切なかったのだが、実際には途中で土砂崩れで道がなくなっている箇所が数カ所あり、かなりやばい状態。しかも起伏が思っていたよりもあったので、元々壊れていた左膝が途中で抜けそうになる。

  

ようやく薬師尾根ルートに合流。確かに道は良い

 道のような道でないような道を悪戦苦闘の末、ようやく薬師尾根ルートに合流する。確かにこの登山道はかなり整備されているようだ。ただ日差しに直接晒される尾根を直登していくルートなので、それなりに体力は消耗しそう。気分としてはここを登っていきたいところだが、もう既に左膝には赤信号が出ている。諦めてこのルートを下っていく。

  

御居間屋敷の表示に従って進むと、突然に道がとんでもないことに

 

 しばらく下ると御居間屋敷の表示が立っている。どうやら御居間屋敷跡に向かうルートのようだ。この際寄らない手はないだろうと軽い気持ちでそっちに向かう。しかしこれが予想外のとんでもないことに・・・。

御居間屋敷跡

 御居間屋敷跡にはやや急な斜面を少し下るとすぐに到着する。ここも削平地であり、面積は御館跡よりは狭い。上杉氏が会津に転封になった後にここに入った堀氏が、山上の実城を廃してここに本城を構えたとされている。確かに戦国期が終われば山上の城郭はあまりに不便すぎるだろう。

   最早道とは呼べない・・・。

 御居間屋敷を見学した後は、地図に従ってここからさらに下っていくことにしたのだが、実はこれが大失敗だった。と言うのはここがまさに道なき道。薮はひどいわ、足下は急斜面の上に苔で滑るわ、クモの巣はあちこちに張ってるわと、まさに前人未踏の雰囲気。どうもこの山は登山道は整備されているが、お城マニア用のルートは全く整備されていない模様。やはり城郭としてはマイナー扱いらしい。足下が滑るのには参ったが(実際、一回転倒してしまった)、個人的に参ったのはクモの巣の多さ。山城探索の脅威と言えば、スズメバチにマムシに熊だが、クモは実害はないとは言うものの、虫嫌いの私にはある意味では一番恐い相手。登山杖(実際はカメラ用一脚)を振り回しつつの道程になり、ようやく麓にたどり着いた時には元々壊れていた左膝はガクガクの状態になってしまった。膝をいたわって登山はやめたつもりだったのだが・・・。

   内堀跡

 麓にたどり着いた時点で時刻表を確認すると、次の列車まで1時間以上余裕がある。そこで町の散策を兼ねてプラプラと駅まで歩くことにする。館の手前には堀の跡が残っており、今では水鳥がのんびりとくつろいでいる。そのさらに先には魚野川があるのでこの城は正面の守りも完璧である。何とも堅固な城で、これは確かに少々攻めたのでは落としようがない。

 町内は変な盛り上がりをしている模様 

 六日町は私の好みから言えばやや田舎に過ぎるが、嫌いではない雰囲気の町。何にしろ山頂の実城はいずれ私の左膝が完全回復した後には最攻略の必要があるだろうから、その時には再訪することになるだろう。なお当初予定では六日町に一泊してじっくり山頂を攻めるつもりだったのだが、この計画は私の左膝の具合と六日町にお一人様でも泊まれる適当な価格の宿がなかったことで頓挫している。いずれ坂戸城を再訪するならこの地域の宿についても再度調査しておく必要はありそうだ。

  

 六日町駅に戻ってくると、駅内の観光案内所奥にある棟方志功アートステーションに立ち寄る。ここには南魚沼市が所蔵する美術品を展示する施設で、実際には南魚沼市美術館というような位置づけの施設。正直なところあまり期待せずに軽い気持ちで立ち寄ったのだが、所蔵作品にはヴラマンクやシャガールに藤田嗣治などもあって驚かされる。これは全く予想外であった。

 

 駅に戻ると上越線で長岡を目指す。先にも言ったように当初予定では六日町での宿泊を考えていたが、六日町に適当な宿泊先がなかったため、結局は長岡に変更になっている。以前にも辿ったことのあるルートを逆に戻ることになる。列車は魚野川沿いに北上。途中で魚野川が信濃川に合流すると長岡はまもなくである。

 長岡駅に到着

 本遠征では長岡は長野以来の大都会である。私にとっては数ヶ月ぶりの再訪。もっとも前回の訪問では数時間で駆け抜けただけで、しかも駅南が中心。しかし長岡駅の繁華街は本来は駅北にある。今回の宿泊ホテルであるホテル法華クラブ長岡もこの繁華街の中にある。

 ホテルにチェックインするとまずは風呂で汗を流すことにする。坂戸城でかなり汗をかいたし、とにかく体も服も汚れた。入浴して体を洗ってさっぱりすると共に、洗濯物をランドリーに放り込んでおく。

 

 身の回りを整えたところで夕食に出ることにする。当てもなく繁華街をウロウロ。ただ今一つビビッと来る店がない。また特に何を食べたいという欲求もない。漠然と「もうそばは嫌かな」という気持ちだけはある。しかし店構えに惹かれてプラッと入った店は、結局はそば屋だった。

 入店したのは長岡小嶋屋本店「上天へぎそば(1890円)」を注文。へぎそばとはつなぎに海草を使ったこの地域のそばである。

 

 出されたそばはかなり腰がある。また海草をつなぎに使っているせいかやや青臭さがあるが、これは薬味を使えば完全に消える。添えられている天ぷらは絶品で、特に小海老を使用したかき揚げが非常にうまい。

   

 結局は当初の考えに反してそばを食べてしまった。なおこのそば屋が老舗のかなり有名な店らしいということを知ったのは後になってからであった。やはり今回も以前の佐久平の時と同様、「そばを食べたくない」ではなく、本音は「おいしくないそばは食べたくない」だったのだろうか。

  夜のおやつは新潟名物笹団子

 ホテルに戻るとしばし原稿打ちをしてから早めに床につくのだった。やはり疲れている。坂戸城で無理をし過ぎた。

  

☆☆☆☆☆

 

 

 翌朝は6時に起床してシャワーを浴びると食堂で朝食。今日もご飯が進む。

 

 8時頃にチェックアウトすると長岡駅へ。今日はこのまま上越線の越後川口から十日町まで飯山線の残り部分を視察してから、ほくほく線経由で金沢に立ち寄る予定である。

  越後川口で乗り換え

 土産物を買い求めてから長岡駅に入ってしばし待つ。やがて水上行きの普通列車が到着。よくよく考えてみると、以前にこの地域に来た時にはこの列車で水上まで行っている。ただ今回は越後川口で途中下車すると、ここから飯山線に乗り換えである。待っているのはキハ110の二両編成。上越線と別れた列車は信濃川の支流の魚野川を渡るが、ここからは山の中を進むことになる。十日町以西の飯山線が千曲川(信濃川)沿いの風景だったのとは少々印象が違う。駅をいくつか過ぎてようやく川が見えてきた頃には住宅が増えてきて、十日町には30分弱で到着する。

  川を横切ると後はひたすら山の中

 これで飯山線完全視察完了である。後はここからほくほく線で金沢に向かうことにする。金沢行きの特急はくたかは20分程度で到着。特急はくたかは、以前に富山から越後湯沢方面行きに乗車したときは満員だったが、こちら行きはガラガラである。十日町を出た列車はすぐにトンネル入り、後はたまに地上に顔を出すもののひたすら地下鉄で、つくづく九州新幹線状態。次の停車駅の直江津には30分程度で到着。思わず「早っ」と言いたくなる。まさに爆速である。ただやはり旅情は全くない。電化と非電化の違いはあれど、トンネルの多い高規格第三セクター路線という点では智頭急行と似たところがあるが、智頭急行と比較した際の旅情のなさは何なんだろう。

  特急はくたか

 直江津を過ぎると見慣れた北陸線である。それにしても北陸線に入った途端に路盤が悪くなったのがよく分かる。はくたかが突っ走ると車内が嫌な揺れ方をする。それにしても新幹線って本当に必要なんだろうか? 在来線を順次高速化対応に切り替えていった方がもろもろのメリットが多い気がするんだが。

 

 ここから金沢まではまだ遠い。この原稿を書いたりしながら時間をつぶしていると車内販売が来たので「直江津かにずし(900円)」を買い求める。酢がよく利いているので以前に鳥取で食べたものよりも私好み。

 

 やがて列車は黒部、魚津などを通過。富山地方鉄道が視界に入ってくる。この辺りにやって来ると「私のテリトリーに帰ってきた」という気が起こるのはなぜだろうか。知らない間に自分の縄張りがとんでもなく広がっているのを感じる。ちなみに西に行った時には広島辺り、東に行ったときには名古屋辺りでもう自分のテリトリーのような気になっている。そう言えば東北に行ったときは東京でもう自分のテリトリーのような気がしたっけ。

 

 昼前に金沢に到着する。金沢と言えば前回の訪問時には切符を落として青ざめたことを思い出す。あの教訓を元に、今回は切符は絶対に落とさないところに入れてある。金沢で下車するとまずトランクをロッカーに・・・と思ったのだが、なんとロッカーに空きが全くない。結局は金沢駅の3カ所のロッカーをすべて見たのだが、いずれも空きが全くなかった。三連休のせいか観光客が多いようだ。見渡していると、私と同じ境遇と思われるロッカー難民がウロウロしている。これは困った。今から向かうところは起伏がかなりある。とてもではないがトランクを引っ張りながら回るなんてことはできない。しばし考えた後、思い立って駅前の北鉄バスターミナルに向かう。バスターミナルには大抵コインロッカーぐらいはあるものという私の読みの通り、コインロッカーが完備されている。使用時間が夜の8時までとなっているが、私は今日の夕方には帰るので問題ない。

 

 ようやく身軽になると21世紀美術館方面に向かうバスに乗車する。しかしこれが例によっての押し合いへし合いの状態。金沢は私の好きな町であるが、つくづく公共交通については都市計画を失敗していると感じる。金沢駅と市内一番の繁華街である香林坊の間は徒歩で移動するのが困難な距離なのだが、その移動手段がバスしかなく、しかもこの間の道路は渋滞が常態化している。もしこの区間に路面電車が走っていたら観光客や住民の利便性がかなり高まっていたはずなのだが・・・。後は残された手は地下鉄だが、金沢にはそれだけの財政基盤がないか。

   

 21世紀美術館は結構混雑している。芸術目的という雰囲気ではない観光客も多いようだが、とりあえず観光地美術館としての開発は成功しているようだ。開催中の展覧会を見学するが、やはりこの施設の巨大さはパフォーマンスとしての現代アートの展示には非常に適しているのを感じる。もっとも例によって芸術的感慨は皆無だが。

 

 21世紀美術館の見学の後は徒歩で石川県立美術館へ向かう。ここは兼六園の周囲に沿ってやや登るルートになる。下から見上げると兼六園はやはりただの庭園ではなくてあくまで城郭の一部であるということを実感できる。

 

 石川県立美術館では「地域文化が育んだ美術館・博物館の名品展」と題して、沖縄から北陸に至る西国の公立美術館が所蔵する工芸品(陶芸、漆芸、染織など)を展示。出展美術館は京都文化博物館や兵庫陶芸美術館など私に馴染みのある所も多数。工芸分野に関してはとんと知識も興味もない私であるが、それでもこれだけ並べられると各地の違いを感じることが出来て面白かった。ちなみに陶芸には全く興味ないはずなのに、茶入れなどの茶器にだけはやけに目を惹かれてしまった私。最近「へうげもの」を見ているせいでかなり悪影響を受けたか(笑)。

 

本丸南高石垣

左 修復なった鯉喉櫓台  中央 いもり堀  右 この石垣のすごさ

 県立美術館の見学を終えると香林坊方面まで徒歩で移動。その途中で「金沢城」の立派な石垣を見学。この城は石垣の見本市とも言われるが、実に見事な石垣が多い。やはり一度キチンと時間をとって、周囲を一周する必要はありそう。金沢は何度も行っているような気がするが、まだまだいろいろと宿題も多い。

 

 さてもう既に2時過ぎ。さすがに腹が減っている。そろそろ昼食にしたいが、さすがにもうソバは嫌(笑)というか、金沢でソバという選択肢はないだろう。金沢と言ったところでやはり頭に浮かんだのは洋食。となれば比較的近くと言うことでグリル中村屋を訪問する。注文したのは「コキール巻定食(1700円)」

 

 グリル中村屋と言えば名物は洋風カツ丼かコキール巻。今回はコキール巻の方を頂くことに。相変わらず豚肉に絡めたホワイトソースが旨い。ここのところソバばかりでコクのあるものが欲しかったところにピッタリ。それにしてもやはり金沢の洋食はレベルが高い。

   

 昼食を終えるとバスで金沢駅へ。みやげにこれまたレベルの高い金沢の和菓子を買い求めると、サンダーバードと新幹線を乗り継いで帰途についたのである。それにしてもやはり三連休で観光客が多かったのか、帰りのサンダーバードも満員だった。

 

 さて信州・北陸地区と私としては今更目新しさもないような気がする地域の遠征だが、来たら来たで楽しめるのがこの地域だったりする。美術館あり、温泉あり、お城ありでかなり盛り沢山な内容になった遠征であった。また地味に長野県内鉄道完乗終了をしていたりする。正直なところ鉄道マニアではない私としては、飯山線乗り続けというのは確実に退屈すると考えていたのだが、要所要所でアクセントを置いたのが正解だった。マイナーローカル線と思っていたが、予想外に沿線に見所があったが良かった。もっともこの手法が飯山線が本数が少ないと言っても1時間〜2時間で1本はあったから出来たこと。さすがに只見線のような1日2〜3本という路線ではこの手法は使いようがないのが頭の痛いところである。やはり公共交通機関として使い物になるかどうかの分水嶺は1時間に1本レベルのダイヤを維持できるかどうかだろう。これ以下になると途中下車さえ難しくなる。

 

 本遠征は若干疲れはしたが、内容的にはかなり充実しており気力の補給にはつながったものである。もっとも遠征が充実していたらいたで、対照的にその後に続く不毛で無意味な日常に嫌気がさしてくるというよろしくない兆候も増すのであるが・・・。

 

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