展覧会遠征 関東・中山道編

 

 さて2012年の始まりである。今年も年初から早速遠征に出かけることにする。本年最初の遠征地は東京。今回は原点に戻って美術館中心の遠征である。

 

 出発は土曜日の早朝。朝一番の新幹線に乗り込むと昨晩の寝不足のために東京まで爆睡状態。ようやく到着した時には寝不足と体調不良(昨年末に喉を壊してから、まだ声がまともにでない)のために少しフラフラしている状態。やや不安のある出だしだが、そんなことを気にしていられない。今日はとにかく東京をかけずり回ることになる。東京駅で東京フリー切符を購入すると上野に移動、ロッカーにトランクを放り込んで、本遠征の最大目的地へと乗り込む。

 


「プラド美術館所蔵 ゴヤ 光と影」国立西洋美術館で1/29まで

 

 スペインを代表する画家の一人、ゴヤの作品を集めた展覧会である。

 恥ずかしながら私はゴヤのことはほとんど知らず、王宮画家だったという経歴から保守的な画家だろうと思いこんでいた。しかし実際のゴヤは啓蒙主義的な思想を持っており、特に当時の社会矛盾を強烈に感じていたようである。それらは主に版画作品で現れているが、固定化された身分の格差による矛盾、堕落・腐敗しきった聖職者達、迷信に支配された無知蒙昧な民衆などを風刺の形で赤裸々に描いている。特にスペイン独立戦争による惨状を目にしてからは、視点がやや厭世的になってきてグロテスクな妄想の世界が現れるようになってくる。

 その一方でしっかりと王宮画家としての役割は果たしており、王族の肖像画などでは高い評価を受けている上に宗教画なども手がけている。そういう点ではかなり矛盾も含んでいる画家である。

 ゴヤの代表作として知られているのは着衣と裸体画が全く同じ構図で描かれている「マハ」の連作だが、本展では「着衣のマハ」の方が展示されている。これが本展の白眉の一つ。なお彼の一連の裸体画などは異端審問所(中世のキリスト教絶対支配の時代に、信仰的な異端者を裁くために教会に設置されたシステム。ただしスペインのそれは秘密警察の色彩を濃く帯びている。)に問題にされたとのこと。この辺りがさらに彼が聖職者に反発を強める原因にもなったように思われる。

 


 次は同じ上野にある施設。それにしてもここはなぜかいつも行列が出来ている。今回も入場までに20分ほど待たされる。

 


「北京故宮博物院200選」東京国立博物館で2/19まで

 

 第1会場と第2会場に分かれているが、最初の第1会場は書が中心であり、個人的には興味を惹かれるのは第2会場の展示物の方。精巧な陶磁器など、いかにも中国らしい工芸品が多数展示されいて非常に面白い。

 仏像の展示などもあったが、腰のラインに特徴のあるインドの仏像、さらにモンスターのようにさえ見えるチベットの仏像、それらが中国に入って来た途端に急にのっぺりとした顔になるという辺りが妙に面白かった。

 


 なお中国屈指の至宝・清明上河図が来日展示されたとして、会場内でその見学だけはさらに長蛇の列。これが180分の見学待ちとのことで、私は巻物一本見るだけに3時間待つ気などしないのでパス。後ろから拡大パネルを見ただけである。後ろから見ていると、3時間も待たされたのだから元を取ろうとばかりにゆっくり見る輩が多いので余計に行列が長くなるという悪循環になっていたような。

 

 とりあえず出足はまずまず快調といったところか。次の目的地へと移動する前に駅前で軽く昼食。入店したのは「音音」「親子丼」を注文。料理はまずまずだが、やはり価格が私の感覚×1.5倍ぐらい。要するに典型的な東京相場である。

 昼食を終えると地下鉄を乗り継いで竹橋まで移動。ここには久しぶりに来る気がする。辺りには江戸城の石垣が多く、この城がとにかく巨大な城であることを感じさせられる。


「ぬぐ絵画―日本のヌード 1880-1945」東京国立近代美術館で1/15まで

 洋画においては裸体画というのは基本的な1ジャンルである。明治期に洋画に取り組んだ日本人画家達も、肉体表現を修得するための基本レッスンの一つとして裸体画に取り組んでいる。しかしその表現は今までの日本文化には存在しなかったため、彼らはまず裸体画が猥褻ではないという啓蒙から始めなければならなかったようである。

 黒田が描いた裸体画が、公開時には腰のところに布を巻かれたなんていう今では笑い話のようなエピソードもあるが、当時の洋画家達はまず猥褻に見えない裸体が表現というところから取り組む必要があったようである。黒田の作品などでもアングルの設定などにその苦労がうかがえる。

 また一方で多くの画家達を悩ませたのは、日本人と欧米人の肌の色や体格の差。このために四苦八苦した画家が少なくない。黒田の代表作に「智・感・情」があるが、この作品において彼は日本人モデルではあり得ない体型で作品を仕上げている。一方、黒田のように割り切ってしまうことは出来ずに、かなり深刻にそのギャップに陥ってしまった画家もいたようである。

 やがて時代が進んで裸体画に対するタブーがなくなると、最早裸体は一つのモチーフとなり、それを元にした抽象画的なものまで登場している。この辺りになると私には何のことやらである。

 個人的には明治期の四苦八苦の様が作品に現れている辺りが興味深かった。黒田の作品が多数展示されていたのも収穫。


 次は中目黒まで移動。ここの美術館がまた駅から中途半端に遠いという嫌な立地。しかも途中で歩道橋を渡る必要があるという不便な道である。そう言えば以前の半蔵門にあった時もやはり駅から中途半端に遠かった。

 


「ザ・ベスト・オブ・山種コレクション」山種美術館で2/5まで

 

 その名の通りの山種美術館名品展である。この美術館を代表する珠玉のコレクションが多数展示される。既にこの美術館を数度訪問している私には、ほとんどの作品がお馴染みというところであったが、東山魁夷の逸品、速水御舟の「炎舞」などは何度見てもかなりインパクトがある。


 次はJRで新宿まで移動。この町もゴミゴミして好きになれない町だ。目的地は某デザイン専門学校の悪趣味なビルの隣にある。

 


「日本赤十字社所蔵アート展」損保ジャパン東郷青児美術館2/19まで

 

 日本赤十字社が所蔵する作品などを展示。序盤は赤十字の活動自体を直接描いた絵画で、芸術的なものよりも記録的価値の方を感じさせる作品。後半は日本赤十字社が多くの画家に寄贈を依頼して集まった作品で、現代日本人画家展の様相を帯びる。ただ残念ながら知名度が今一つの画家が多く、作品的なインパクトも今一つのものが多い。結局は東郷青児による「ナース像」辺りが最も面白かったりする。


 もう夕方になってきたが、今日の予定はまだまだ続く。地下鉄大江戸線で六本木まで移動。それにしても東京の地下鉄は馬鹿みたいに深い。地下づたいに東京ミッドタウンへ。昼食がかなり軽かったのと、朝から動き回り続けていたせいで既に体がガス欠気味なので、美術館へ入る前に「讃岐うどん」の看板のある店で軽く燃料補給。しかしやはりイマイチ。基本的に東京の人間は「腰のあるうどん」と「単に堅いだけのうどん」の違いが分かっていないようだ。 

 


「殿様も犬も旅した 広重・東海道五拾三次」サントリー美術館で1/15まで

 

 歌川広重の代表作と言えば「東海道五十三次」。これについては今更という気がするが、一般的に知られているのは保永堂版と言われるシリーズである。しかし広重が描いた東海道五十三次はこの他に種々あり、その一つが画中の題が隷書で書かれているため「隷書東海道」と呼ばれているもの。本展ではこの隷書版と保永堂版を併せて展示してあるのが一番のポイント。また同じ保永堂版でも摺りの違うものを併せて展示してある。

 保永堂版と隷書版を比較した場合、保永堂版がかなり大胆で力強い描写が多いのに対し、隷書版はやや落ち着いたどっしりとした描写が多いような印象を受けた。隷書版の製作は保永堂版の15年ほど後であることを考えると、広重の心境の変化とか円熟などを反映しているのだろうか。なかなかに興味深かった。


 ミッドタウンのビルを出た時には既に辺りは真っ暗になっていた。ビルの周囲は電飾でギラギラ。正直なところあまり趣味がよいとは感じない。その中を六本木ヒルズを目指して歩く。六本木の繁華街を行くことになるが、どうも私の目には魅力的な店は全くない。町の雰囲気があまり大人向きでないような気がする。そんな中をしばし歩くとヒルズのビルが見えてくる。

 やっぱり六本木ヒルズは好きになれない。あまりにバブリーでシュセンドリー(守銭奴的つまりは成金趣味)な臭いが漂いすぎている。こういうのが女性にとってはお洒落で雰囲気が良いというのなら、やはり女性とは理解の地平線の彼方の存在である。

   

 直通エレベーターで展望階フロアまで。東京の夜景は賑やかで華々しいが、いささか下品。やはりわびさびの風情は微塵もない町である。展望階を一回りすると美術館へ入場する。


「メタボリズムの未来都市展」森美術館で1/15まで

 

 1960年代に丹下健三の影響を受けた黒川紀章、菊竹清訓などを中心として、生物のように新陳代謝しながら成長する未来都市というイメージで展開された建築運動がメタボリズムである。そのメタボリズムを振り返る展覧会。

 メタボリズムのイメージは要は高度に集積した超巨大建造物による都市構成である。さながらSFの世界のようであり、これが実際に世間の耳目を集めたのが大阪万博である。

 建築デザインとしては一つの可能性としてありだろう。ただ現実には根本的な問題を抱えていると感じずにはいられなかった。

 まず人類は未だに不朽不滅の建造物を作る技術を持たないということである。コンクリートも鉄骨も老朽化する。かつては半永久的と思われていたコンクリートも、現実には100年も持てば良いほうである。メタボリズムがいくら「新陳代謝」と謳ったところで、根本的な構造体が老朽化してしまえば大規模補修か解体新造が不可欠である。しかし超巨大建造物は補修するにしても解体するにしても「手に負えない」代物になってしまう。未来建築として建てられた万博の展望台が老朽化によって解体され、未来の海上都市と言われたアクアポリスは鉄屑として売却されたというのが現実なのである。

 また大都市の問題を解決するには都市の集積度を上げたところで話にならない。現在の都市問題は、大都市が自活不能な規模に巨大化しすぎたせいでガン細胞のように日本全体を蝕み始めたことに起因する。これを解決するには都市を自活可能な規模まで縮小分散するしかないのであり、集積度を上げて更なる集中を促すのは真逆の方向である。本展では農村都市のイメージも展示されていたが、実際は農村と都市の共存ではなくて単に農村の都市化であり、メタボリズムからは真の自然との共存の思想は全く見られなかった。

 本音を言うと私の目にはすべてが悪趣味としか映らなかった。未来都市と言うよりも奇形の都市である。本展では、今この時期にメタボリズムに注目するのは東日本大震災があったためと言っているが、まかり間違っても三陸にこんな建造物を造らないでくれというのが正直なところである。


 これで今日の予定は終了。地下鉄で移動する途中で上野でトランクを回収。ついでに夕食を摂ってから宿泊ホテルであるホテルNEO東京に移動する。

 

 とにかく疲れた何しろ今日は2万7千歩も歩いている。かなり足がガクガクになっているので、足の疲れを大浴場で取ってから早めに床につく。

  

☆☆☆☆☆

 

 

 翌朝は6時前に起床するとすぐに出かける。今日は茨城方面に向かう予定。まずは常磐線で佐貫に移動。ここからは関東鉄道竜ヶ崎線が出ている。関東鉄道竜ヶ崎線は佐貫と竜ヶ崎を結ぶ短い路線。佐貫駅前は典型的な地方都市の風景で、竜ヶ崎線佐貫駅はJRの改札を出てすぐのところにあり、何やら駅前ホテルのビルに同居している。

左 JRとの乗り換え口はほとんど勝手口  中央 改札  右 表から見ると駅前ホテルに同居

 竜ヶ崎線は佐貫、入地、竜ヶ崎の3駅だけの短距離路線。この区間を単両のディーゼル車が往復運転されているのみだが、全線で10分ちょっとしかかからないので、これで輸送能力としては十分である。沿線は駅前を過ぎると延々と畑。かなりのどかな風景である。終点の竜ヶ崎はちょっとした町になっているが、特に何があるというところではない。完全に竜ヶ崎の地域輸送路線であるが、利用者はそれなりにいるようである。

左 列車が到着  中央 車内はロングシート  右 沿線風景

左 竜ヶ崎駅に車庫がある  中央 竜ヶ崎駅  右 竜ヶ崎駅ホーム

 竜ヶ崎線の視察を終えるとJRで取手に移動、ここからは関東鉄道常総線で下館を目指すことにする。関東鉄道常総線も竜ヶ崎線と同様に非電化路線、取手駅には二両編成のディーゼル車が待っているのでこれに乗車する。

左 関東鉄道取手駅改札  中央 ホーム  右 常総線車両

 沿線はTXとの接続駅である守谷までは郊外の住宅街という印象。守谷を抜けてしばらく行くと水海道。私の乗った列車はここで乗り換えである。しばらく待った後に単両のワンマン車が到着する。常総線は水海道の手前に車庫があるが、いろいろな意味でここが常総線の分岐点である。水海道以南は複線で本数も多く、駅間も短い近郊路線の雰囲気だが、水海道を過ぎると単線で駅間も長く、沿線も明らかに畑ばかりの風景になり、乗客もかなり減少する。こうして見てみると、関東鉄道はその収益のかなりの部分を取手−守谷間の輸送に頼っているのではないかと思われる。なお水海道で乗り換え待ちの時にウロウロしていると、怪しいポスターを発見。以前の水戸といい、茨城って萌えでの町興しを狙ってるの? どうも方向性を微妙に間違っているような気が・・・。

左 守谷駅はTXと立体交差  中央・右 水海道駅は乗り換え拠点

左 水海道駅前  中央 茨城って・・・萌えの町?  右 下館行き快速が到着

 石下の手前で右手に怪しげな天守閣が見えてくる。後で調べたところによると、これは豊田城らしい。どうやら中世の城郭跡に鉄筋コンクリートの五層天守をぶっ建ててしまったという典型的なトンデモ天守。施設としてはこれは地域交流センターということで、当の豊田城自体は今では河床になってしまっていてほとんど残っていないとのこと。

左 沿線風景  中央・右 怪しげな謎の天守

左 関東鉄道下館駅改札  中央 JR線から望む関東鉄道ホーム  右 下館駅舎

左 下館駅  中央 駅前風景  右 駅前にはなぜか青木繁の「海の幸」の陶板が

 下館には1時間半ほどで到着する。まだ早朝のせいか駅前は閑散とした雰囲気。とりあえずここからは真岡鉄道のSLに乗車する予定。ただそれまでに時間があるのでここから徒歩10分ほどのところにあるしもだて美術館を訪問する。

左 しもだて美術館遠景  中央 近景、この陸橋は恐くて渡れず  右 内部には御輿の展示も

 しもだて美術館は10時からの開館だったのでしばらく開館待ちの後に入館する。現在の展示は所蔵品のみ。地元の画家の作品などが中心だが、陶芸家・板谷波山の作品が印象に残る。近くにかれの記念館があるらしいが、そこに立ち寄る暇はないのでこれは後日に改めることにする。

 

 美術館の見学を終えると下館駅に戻ってくる。既にSLが到着したらしく、駅にはひとだかりが出来ている。SLに乗車するには乗車券と整理券の二つが必要であるが、整理券は既に昨日に購入しているので駅で乗車券を購入してから入場する。ちなもにSL整理券が500円で、乗車券は終点の茂木までで1000円。かなり強気の価格設定であり、いろいろな意味で大井川鉄道と被るところがある。ただし真岡鉄道は国鉄の旧真岡線を引き継いだ第3セクターであり、純然たる私鉄だった大井川鉄道とは発祥は異なっている。

 既にSLは三両編成の客車の先頭に接続されており、駅のホームにゆっくりとバックで入線してきている状態。ホームには撮影のための人だかりが出来ている。私はとりあえず2両目の客車に乗車する。レトロな感覚の漂う客車であるが、車両自体は比較的新しいようで、一見木製に見えるが実はスチール製である。機関車はC11でこれも先日大井川鉄道で見たのと同じタイプ。乗客はかなり多く、また家族連れが中心かと思っていたのだが、実際には年配者の夫婦連れや団体などが意外に多い。

新年仕様で日の丸を飾ってあるが、本来はこれはお召し列車仕様とのこと

左・中央 一見木製の客車だが、実はスチール製 右 さすがに冷房はついていないようだ

 しばらく後、乗客を満載したSLは重々しく出発する。以前にSL人吉に乗車した時にはSLに乗っているという実感があまりしなかったが、ここのはやたらに汽笛を鳴らしてくれるのでSLに乗っているということを実感できる。窓の外にたなびく煙がまた泣ける。

左 雲ではなくて煙です  中央 沿線風景  右 乗車認定証が配布される

 畑が中心ののどかな沿線風景の中をSLは走るが、沿道には見送りの人々が多数手を振っている。撮影ポイントにさしかかると写真撮影のための鉄オタが鈴なり。さながら鉄オタ博物館である。彼らはSL撮影で盛り上がっていたのだろうが、実はその頃車内でも彼らの姿を見ながらの盛り上がりが。「おーっ、30人はいるぞ」「すげー、脚立まで用意してるわ」「うわぁ、あんなとこにまで登ってる」なんて声が車内で上がっている。果たして見物をされているのはどちらやら。

 真岡の車庫

 沿線にやや住宅が増えてくると、この鉄道の名称にもなっている真岡に到着。ここで若干の乗り降りがある。車内ではみかんが配られたり、子供に福引きがあったりなど、この鉄道が観光にかけている意気込みが感じられる。沿線ののどかな風景といい、やはり大井川鉄道と完全にイメージが重なる。違いは大井川鉄道が電化されているのに対して、こちらは非電化であること。だから大井川鉄道でドラマのロケなどをすると、SLが走っているのに架線が映ってしまうというデメリットがあるが、こちらだとその心配がない。ただこちらはその代わり風情のある駅舎が少ないという印象があり、絵として撮る場合には一長一短のように思われる。

 益子といえばやはり焼き物

 列車はやがて沿線最大の観光地である益子に到着する。ここで多くの乗客が降車。やはりこの鉄道の乗降パターンは、地元民は真岡、観光客は益子ということになるようである。益子を越えた頃から徐々に沿線は山地に入っていき、それと共にSLの動きが激しくなる。すると当然それを狙って今まで以上に大量の鉄オタが沿線に鈴なり。沿線で湧きあがる鉄オタと、それを見ながら車内で盛り上がっている乗客。

 茂木手前の風景 SLの影が写っている

 益子を出たSLは30分ほどで終点の茂木駅に到着する。茂木駅に到着後は、駅構内でのSL切り離しと転車作業の見学。真岡鉄道はこの茂木に転車台を設けたことで、SLが後ろ向きに走ることがなくなったとか。やはり大井川鉄道と被る。この転車台は間近で見学できるようになっており、群がる鉄オタの群。私は少々距離を置いて遠くから眺めることにする。

終点の茂木に到着する乗客は先頭車両に集まる

 派手な蒸気を上げてSLがバックしていくと引き込み線の方に移動。そこで客車を切り離すと転車台に乗り込む。転車台は電動らしく、電子音で「乙女の祈り」を鳴らしながら軽々と一周。こうして眺めていると安っぽい電子音音楽と相まって、SLが玩具に見えてくるから不思議である。

蒸気を派手に上げてバックしていく

客車と切り離されたSLは転車台で反転

 作業を見届けるととりあえず改札を出る。実のところ、鉄オタではない私の主目的はSL乗車ではない。本来の目的はこの茂木にある茂木城を見学すること。茂木城は鎌倉時代から戦国時代にかけてこの地を治めていた茂木氏の居城であった中世城郭である。徳川氏の時代に茂木氏が佐竹氏と共に秋田へ転封されたことで廃城になったという。現在では城跡は公園化しているが、かつての遺構なども残っているという。

 茂木駅舎

 茂木は山間の集落だが、私が思っていたよりは大きな町である。なおこの茂木だが、よみは「もぎ」ではなくて「もてぎ」である。というわけで、駅前には「モテキ」のポスターが貼ってある。ここを訪問したことで私にもモテキが訪れるのだろうか。もし私がこの後に素敵な女性と結婚でもすることがあれば、この地には多くの独身男性が参拝することになるだろう(笑)。

 駅前にはこのポスターが

 「茂木城」は町のはずれの、いかにも城郭向きの山の上にあるようである。正直なところ地形を見ただけでここに城がなければ嘘だろうというおあつらえ向きの場所である。高すぎず低すぎずの山で私が領主でも山城を築きたくなる(笑)。

左 茂木市街  中央 市街奥のいかにもの山上に茂木城が  右 風情のある酒屋の店頭にも「モテキ」

 茂木城跡は公園整備されているので頂上まで舗装された車道が通っている。しかしこれが急斜面に無理矢理道路を造っているので、うねって長いのにかなり急な道路。ケチらずに駅前からタクシーに乗れば良かったと後悔する。心を癒してくれるのは、登って行くにつれて確実に開けていく風景のみ。

左 ヒーヒー言いながらひたすら登る 中央 削平地らしい地形も 右 奥の右手が本丸、正面は堀切

 ヒーヒーハーハーと半分死にかけながらようやく頂上に到着する。私がたどり着いた本丸跡は完全に公園となっているが、土塁が残っており、その土塁の幅の広いところが望楼跡となっている。天守とまでは言わないが、物見台ぐらいは立っていただろうと思われる。なおこの本丸の西側は深い堀切があるが、その向こうにも小さな曲輪のようなものが見える。

左 本丸は完全に公園化  中央 本丸土塁上の望楼跡  右 土塁上を歩く、左手が二の丸その他で右が本丸

本丸土塁からの外を見る

 土塁上を回って本丸の反対側に行くと、かなり広大な平地が見える。最初は「あーあ、城跡を削って完全に公園にしちまったんだな」と思っていたのだが、現地の案内看板を見るとどうやらこれがまるまるかつての茂木城の跡。私の想像を遙かに超える規模の城郭だったようである。池のようになっているところがかつては湿地で、その向こうに見える広い台地が二の丸、その向こうには三の丸もあるという。この城郭の規模を見た瞬間に、予定していた1時間ちょっとの茂木滞在時間ではとても全体を見学することは不可能だということ、さらには確実に今日の昼食は抜きになるということを悟らずにはいられない。

左 本丸虎口跡?  中央 手前に溜め池が、奥に見えるのが二の丸  右 下から見た本丸

 駐車場のところから架けられた橋を渡って出丸跡に向かう。ここら辺りはかなりの高度があり、下に大手門があったという。大手門に向かう敵は、出丸などから激しい横矢を食らうことになる。

左・中央 橋を渡って出丸へ  右 出丸

左・中央 大手門方向  右 出丸下の馬場跡にある巨大な展望台

 出丸跡は二段になっており、下側の方にかなり高い展望台が建っている。しかし展望台なんかに登っている暇はないし、そこに登るまでもなく眺めは十分である。

 出丸跡を一周すると空堀の跡に降りて、そこから登山道へと降りていく。今回はほんの手前の方だけを見ただけだが驚く規模の城郭である。全くこれは想定外であった。世の中にはまだまだ無名の名城が各地にあるものである。つくづく感心する。

 先ほど渡った橋がこれ

 予定の列車の発車時刻が近づいているので早足で山を駆け下りる。さすがに登りよりは随分楽であるが、これも足腰には負担がかかる。そのまま足早に市街地を駆け抜け、何とか時間内で駅までたどり着く。昼食抜きでの運動はいささかキツイ。

 

 茂木駅からは今度は普通のディーゼル車で帰る。車両はローカル線でよくあるタイプの軽快ディーゼル車の単両編成。内部はロングシートである。グリーンのモザイク模様の外観がかなり派手である。最初はそう乗客は多くないが、益子で乗車する客が多く、さらに真岡でかなりの乗客が乗車してきた。なおこの列車はSLよりはかなり速いはずなのだが、各駅停車の上に途中の真岡駅でかなり長時間の待機をするため、結果的には下館までの所要時間はSLと大差ない。

 下館まで戻ってくるとそこからはJRで帰途だが、その途中で埼玉県立近代美術館に立ち寄る予定である。水戸線で小山まで移動して、小山から東北線で大宮で下車・・・したのだが、改札を出た途端に重要なことを思い出す。埼玉県立近代美術館があるのは大宮ではなかった。二駅先の与野だったのではと思って移動するがそれもハズレ。慌ててW−ZERO3をネットに接続して調べたところ、正解は次の北浦和ということが判明。完全に覚え違いをしていた。大馬鹿至極である。結局はそんなこんなで時間をロスって、美術館に到着したのは入館可能時間ギリギリであった。

 


「アンリ・ル・シダネル展」埼玉県立近代美術館で2/5まで

 

 フランスのアンリ・ル・シダネルは、印象主義の技法などを取り入れた独自の画風を確立した画家である。彼の作品を一堂に展示した展覧会。

 シダネルの作品は確かに技法としては印象派のものを取り入れているのだが、印象派の画家達がその技法を屋外の煌めく光の表現のために使用したのに対し、シダネルは明け方や暮れ時の微妙な光の揺らめきの表現に使用している。そのために彼の作品は繊細な郷愁や憂愁を帯びたものが多く、それが独自の魅力となっている。同じ点描画法を用いていても、スーラの作品などとは根本的に雰囲気が違う。

 やや重めの空気の中でボンヤリと点る明かりの表現などに独特の魅力を感じる画家である。カラッとした明るさがないところが好みの分かれるところだが、私にはなかなか面白いと感じられる画家であった。


 これで正真正銘今日の全予定が終了、南千住まで戻る。今日の夕食は南千住で摂ることにする。初めて来た頃は鬱陶しい町だと感じていた南千住だが、もう大分馴染んできている。それに食べ物などはこういう古くさくて若干ガラが悪い下町の方がCPの高いものがあるというのがセオリーである。南千住西の商店街を散策。年初の日曜のせいか閉まっている店が多いが、その中で見つけたのがとんかつの「三好弥」。典型的な町の食堂であり、看板にはとんかつと書いてあるがとんかつ専門店ではなく、ラーメンや焼き魚定食の類もある。私が注文したのは「上とんかつ定食(1200円)」

 豪華ではないがボリュームはある。味は特別なものではないがどことなく懐かしい感覚。そして東京の食堂では珍しく味噌汁がうまい。晴れの場ではなく、まさに日常的に食べるものとはかくなりという印象。なお東京で初めて私の感覚と実際の価格が合致した店でもある。

  

 夕食を終えると途中で饅頭を購入してホテルに戻る。まず入浴して汗を流すと共に、昨日今日の酷使でガタガタになった足を労る(今日も2万歩だ)。風呂からあがると「平清盛」が始まったのでこれを見る。前作の「江」は大河ドラマどころかそもそもドラマの体をなしていない前代未聞の欠陥作であったが、さすがにひどすぎた前作に反省したのか、今度のは随分まともそうである。まずキチンと時代劇になっているし、登場人物の性格もセリフも一貫しているし・・・ってこれは前作があまりにひどすぎただけで大河ドラマなら当たり前のことではあるが。まあやはり悪役が悪役として存在感を示せばドラマが締まる。某ドラマの悪役でなければ善人でもなく単に小者だった秀吉なんかと大違いである。ただ白河法皇をあそこまで化け物扱いしたら、「皇室に対する侮辱がなんたら」「チョンの工作員がかんたら」とか言い出す頭の変なのが湧いてこないか心配であるが。今のところ不安要因は、源頼朝の棒なナレーションと、何のために起用したか不明な松田聖子だろう(それにしても感動的なまでにヅラが似合わないのは、伝説の主演映画「野菊の墓」の頃から全く変わっていない)。しかしとりあえず第一話としては合格点である。

 

 ドラマが終わった頃にはかなり疲労が出てきた。先ほど購入した饅頭を食べると(これもCPはなかなか良かった)、早めに床に就くことにする。

  

☆☆☆☆☆

 

 

 翌朝は7時頃に起床すると荷物をまとめてチェックアウトする。今日は甲府まで移動の予定だが、その途中で本遠征の第二主目標である城郭を訪問する予定である。それは八王子城。私としては96番目の100名城となる。今まで何度か訪問を計画しながら、天候や体調などの諸般の事情で見送りになっていた因縁の城郭である。正直なところ足にはかなりガタが来ていて体調が万全とは言い難いが、今回は何が何でも長年の因縁に決着をつけるつもりである。

 

 東京駅で中央線に乗車すると高尾を目指す。東京名物人身事故で中央線が運休という事態を懸念していたが、幸いにも予定通りに高尾に到着、なかなか幸先がよい。トランクをコインロッカーに放り込むと八王子城方面行きのバスを探す・・・のだがどこにもそれがない。どうやら高尾駅の北口に出るところを間違って南口に出てしまったらしい。今から北口に回るのもかなりの大回りになるのと、八王子城はバス停からかなり距離があったということを思い出したことで、ここは安直にタクシーで八王子城に乗り付けることにする。

 

 「八王子城」は北条氏照が本拠としていた城で、小田原城を守るための支城の一つである。氏照はかつては滝山城を本拠としていたが、武田信玄の攻撃で落城寸前まで追い込まれたことから、さらに防備の堅固な要塞として築城されたものである。構造は麓の館部分と山上の本丸などに分かれている。しかし秀吉の小田原攻めでは上杉景勝、前田利家、真田昌幸らの軍勢1万5千に包囲される。この時、城主の氏照は主力を率いて小田原城に駆けつけていたために城内はわずかの将兵に農民・婦女子などが中心の3千人が籠もっていたに過ぎず、さしも堅固な要塞もわずか1日で落城している。落城の際に氏照の正室を初めとする多くの婦女子が自刃や滝に身を投げており、滝が三日三晩血に染まったという言い伝えが残っている。このために八王子城は心霊スポットとしても有名で、城郭マニアだけでなく、そちらのマニアにも訪れるものが多いとか。なお落城の悲報に床を叩いて号泣したと伝えられている氏照は、小田原城開城の際に秀吉に切腹させられている。

 八王子城の入口には管理棟が設けられていて地図などが配布されている。またボランティアガイドなども詰めている。私もこのボランティアガイドの説明を受けてまずは麓の館部分を見学することにする。

  

曳き橋(一部画像にお見苦しい点がありますので修正しております)

 川沿いにしばし歩くと立派な石垣が見えてくる。これが復元された御主殿跡。立派な橋が架かっているが、ここには本来木製の曳き橋が架かっていたという。現在架かっているのは曳き橋ではなくて固定されているし、また橋桁は木製に見せかけたコンクリート製だとのこと。

 御主殿の滝は思いの外小さいという印象

 この脇に例の曰く付きの「御主殿の滝」がある。ただ水もあまりないし、城内の女性が次々に身を投げたという割には小さな滝に思われる。ガイドの話では、季節によっては水はもう少し増えるとのこと。また実際は滝に身を投げたというよりも、滝の上で自害して次々に川に落ちていったのではとのこと。なお有名な心霊スポットであるが、霊感皆無の私には全く何も感じられなかった。軽く手を合わせてから写真も撮ってきたが、特に何かが写っている様子もない(まあ岩肌が写っているので、無理矢理にこじつけたら顔の一つや二つぐらい見えるのかもしれないが)。

左 御主殿跡  中央 この石がかつての置き石の頭  右 この奥に本丸への登り路があるとか(険路)

 館跡に登るとそこは広大な広場。発掘調査の結果ではここには庭園があったことが確認されているという。今は調査の後に埋め戻されており、庭園の置き石ではと思われる石の頭がわずかに見えているだけ。

左 模擬冠木門  中央 門をくぐってから振り返った虎口  右 櫓門の土台跡

左 入口方向、橋は手前の隙間にかかっている  中央 曳き橋  右 奥のこのスペースの方が本来の入口では?

 模擬冠木門をくぐると復元された虎口に出る。ここの石垣は積み直したものらしいが、櫓門の礎石の跡は残っている。ここを抜けると先ほどの曳き橋を渡ることになるが、石垣の構造と曳き橋の位置がどことなく不自然であり、ガイドの方も実は橋は奥の方に架かっていたのではないかと考えているとのこと。

左 橋を渡ってから御主殿を振り返って  中央 大手方向(写真がぶれてます)  右 石垣の石か?

 この橋を渡って大手道を回り込む。今ではこの道はかなり狭いが、元はもっと山側に広かったと思われるとのこと。ここを進むと大手門跡。ただし現在は橋の架け替え中とのことで工事中である。

左 登山道入口  中央 道は最初はなだらか  右 途中には小さな曲輪が連なる

 これで館部の見学は終了。管理棟まで戻ってガイドに礼を言って分かれると、山上をめざすことにする。とりあえず一番整備されているという新道を通るノーマルルートで登る。道はキチンと整備されているがやはり登りはキツイ。それに所々かなり段差の大きい山道などもあり、へたっている足腰には負担は結構ある。

  

金子曲輪は奥に深い

 道の脇には階段状の小曲輪が見える。その内に細長い平地に出るがここが金子曲輪らしい。マップを見るとまだまだ序盤である。にも関わらず体力の消耗が著しい。とりあえず一休みしてからさらに先を登る。それにしても八王子城跡はハイキングコースになっている上に、今日は三連休の最終日ということもあってか行楽客が想像以上に多い。私がフーフー言っている脇を軽やかに登っていく子供達が恨めしい。

  八合目

 さらに進むと各コースの集合点があり、ここが八合目らしい。ここにもベンチがあるので一休み。八王子城は本格的なハイキングコースと聞いていたが確かになかなかキツイ。

   

九合目を過ぎるとようやく平らな道に

風景が広がる

 ここからは道がさらに険しくなる。それを一気に登って九合目、さらに進むとようやく平地に出る。ここをグルリと回り込むと八王子神社だが、そこまでの間に風景が開けるポイントがあり、ここまで登ってきた労をねぎらってくれるようだ。

左 最後の石段を登ると  中・右 八王子神社

 ここをさらに進むと八王子神社。やったー、やっと到着した・・・と思っていたら、八王子神社の裏に急な石段が。どうやら本丸はこの上らしい。これはとんだ隠し球。思わずこれには「オイッ!」という声が出て心が挫けそうになる。しかしここまで来た以上、本丸に立ち寄らないという選択肢はない。酷使にぐらつきかけている足腰を叱咤激励しつつ石段とそこから続く急な山道を登っていく。

神社脇のさらなる急な道に目眩を起こしながらも進んだ先が、小さな祠のある本丸

 苦労の末にようやく到着した本丸は小さな祠が建っているそう広くないスペースであった。ここにはそう大きな建物が建てられるとは思えず、本丸といいつつも見張り台的な場所だったのか。面積的に考えると明らかに八王子神社のあったところが主要な曲輪である。

大きな石碑を目印に回り込んだところが松木曲輪

 本丸まで到着した以上は戻るだけである。なおここから更に奥に詰城の跡もあるらしいが、とてもそんな体力は残っていないので今回は撤退である。後日、体力に自信がついたら機会を設けて再挑戦も良かろう。帰りには八王子神社隣の松木曲輪も覗いておく、ここはいささか展望が利くのでハイカー達の目的地はここらしい。ここで少し休憩をとると一気に山を下る。

 この先に詰めの城もあるそうだが・・・

 これで八王子城の見学は終了。確かになかなかキツイ山城だったが、こうして登ってみると、置塩城や新高山城を攻略した私にはそう特別にキツイ城というわけでもなかったことに思い至る。本音を言うと、キツイキツイという評判に事前に警戒しすぎていたというところ。もっともそうは言っても、こちらの体調も万全とは言い難い状態だったのでダメージはかなり大きいのは事実。帰りは駅までバスで・・・なのだが、このバス停までが遠い。先ほどのハイキングでガタガタになっている足腰には非常にこたえる。石畳で舗装されているのがまた足裏にキツく、つぶれかけている足裏が悲鳴を上げる。バス停までは20分弱ぐらいかかって到着する。これは行きにタクシーを使ったのは正解だったと今になって思う。

 

 バスで高尾駅北口に到着すると、駅内を通って南口のロッカーのトランクを回収してから八王子まで移動する。甲府までは特急で一気に移動する予定。当初予定ではスケジュールの進行状況では八王子の美術館を訪問するつもりだったが、時間的にはそんな余裕は全くないので今回はパスする。八王子で特急券と高尾までの乗車券(先に高尾で下車しているので、八王子−高尾間の乗車券が必要)を購入すると10分後くらいに到着した特急あずさに乗車する。なお足の状況を考えて、無理せずに指定席を確保している。

  高尾山といえば天狗

岩殿城を通過

 列車に乗るとようやく一息。しかしそうなると腹が減ってきた。八王子の美術館をパスしたのは仕方ないとして、昼食までパスしてしまったのは予定外。空腹を抱えてしばらく待っていると車内販売がやって来たので「鳥飯」を購入。ようやく食べ物にありつける。

   

ようやくの昼食

 弁当を平らげるとグッタリとしながら車窓をボンヤリと眺めつつ過ごす。中央線の沿線は風景の変化が激しくて東海道線と違って退屈しない。やっぱり私は海派ではなくて山派だななどと思いつつ甲府への到着を待つ。

 

 ようやく甲府に到着。正直身体はかなりガタガタだが車内での休養で何とか一息ついた。休みたがっている身体に鞭打って、今日中にさらにもう一つイベントをこなしておくことにする。今まで何度か立ち寄りたいと思いつつも果たせなかった新府城の見学である。

 

 「新府城」は武田勝頼が来るべく織田氏との決戦に備えて急遽建造した城である。しかし時すでに遅し。織田氏の侵攻の前にここでの防戦は不可能と判断した勝頼はこの城に火を放って逃亡している。逃亡した勝頼は小山田信茂の岩殿城を目指すが、小山田信茂の裏切りにあって進退窮まって自害している。

 甲府でトランクをロッカーに放り込むと普通列車で新府駅を目指す。新府駅は小さな集落の中の無人駅。ロッカーどころか駅舎さえない。以前に新府城に寄ろうとした時はトランクを抱えていたために断念したのだが、今回は身軽な状態になっている。

左 無人駅の新府駅  中央 駅前集落  右 のどかな中を山に向かって歩く

 駅前には小さな集落があり、新府城はその奥になる。集落内を歩くこと10分ほどで新府城の麓にたどり着く。見上げるようなまっすぐな石段が本丸までつながっている。本丸跡には神社があり、この石段はその参道筋になるようだ。通常なら「しんどいな」ぐらいなのかもしれないが、今は八王子城で惨々足を酷使してきた直後。登り始めるやいなや足がまともに上がらなくなってくる。途中で何度も休憩しつつ、ヒーヒー言いながらようやく登り切る。

左 ようやく入口に到着  中央 気の遠くなるような石段アフター石段  右 このような山道もある

本丸上の風景

左 勝頼の慰霊碑  中央 本丸北方  右 遠く八ヶ岳が見える

北方斜面には曲輪的な構造も見える

 本丸には神社や慰霊碑などが立っている。ここからは周囲を一望することが出来、遠くには八ヶ岳の姿も見える。確かにこの地域を押さえる拠点として重要な地である。また本丸の周囲を見渡すと複数の曲輪が本丸を守るように取り囲んでいる。どうやら私が事前に予想していたものを遙かに上回る規模の城郭である。

 

本丸西下には土塁が

  

左 曲輪?が2つに仕切られている     右 これは本丸虎口跡か?   

本丸南部(写真の右側)にも土塁らしき構造がある

 新府城は大要塞である。この規模なら数千人レベルの兵力を置くことが出来、難攻不落であろう。そういう点で明らかに近世城郭である。しかし問題はこの大要塞を守るにはそれだけの兵力が必要であるということである。織田氏の侵攻を受けた時点での勝頼は完全に落ち目になっており、家臣の離反も招いてそれだけの動員力を有していない。実際、最後に落ち延びていった勝頼に従っていたのは女性を含む100人程度との話があり、その程度の兵力ではこの大要塞を守ることは到底不可能である。だからこそ彼はせっかく建造したこの要塞に火を放って逃亡せざるを得なかったのだろう。少数の兵力で敵を防ぐとなると岩殿城のような天険の要塞になる。あの城なら一騎当千の猛将がいれば、一人で千人の軍を食い止めることさえ可能である。恐らく勝頼の脳裏にもあの要害が映ったのだと思われる。しかし計算違いは一族衆の小山田氏までもが離反したことである。

左 虎口跡を降りていく  中央 奥には二の丸が  右 さらに進むと馬出も

左 振り返ったところは本丸下の帯曲輪の模様  右 西三の丸脇の道

西三の丸

大手門方向の土塁

 本丸を一回りすると、本丸虎口跡と思われる部分から延びている車道を通って城郭を降りていく。この車道が城の遺構を断ち切っているように思われるのがいささか気になるが、この道路に沿って降りていくと、二の丸、三の丸などの遺構があちこちに見えている。とにかく各曲輪がかなりの規模を持っており、中世までの地形に頼って少数の兵で防御する山城とは一線を画している。

  この道路の向こうはかつては堀

 武田勝頼の最後の情熱のようなものを感じる城であった。勝頼には時折に若さと経験不足からくる短慮のようなものが見られたが、そもそも決して無能な武将であったとは思えない。彼も父親の名前の大きさに押しつぶされた哀れな二代目という側面があったのだろう。その父親の遺産たる重臣達も設楽が原で多くが散ってしまい、勝頼には心から信頼できる腹心の部下というのがいなかったようにも思われる。参謀が欠けたというのも彼の失敗の理由だろう。いろいろな点で不幸な人物である。

 

 新府駅まで戻ると、普通列車で甲府に帰還する。とにかく疲れた。さすがに八王子城と新府城の連チャンは無理がありすぎた。もう完全に足にきてしまっている。甲府駅からホテルまではタクシーに乗ることにする。

 

 今日の宿泊ホテルはドーミーイン甲府。山梨での私の定宿である。チェックアウトを済ませて一息つくと、早速最上階の大浴場へ。ここの大浴場はナトリウムー塩化物ー炭酸水素泉の天然温泉である。ちょっと黄ばんだ湯が心地よい。時間がまだ早いのか浴場は貸し切り状態。「あー、生き返る」という言葉が口から出てくる。実際、完全に死んでしまっていた体が蘇ってくる感覚である。とにかく疲労の極致に達しているので、ゆったりと疲れを抜いておく。

 

 風呂でゆったりとした後は夕食である。やはり甲府と言えば「江戸屋」だろうと考えてホテルを出たのだが、どうも商店街が閑散としているのに不吉な予感を抱く。するとやはり予感的中。なんと江戸屋は今日はお休み。ホテルに戻ってフロントに相談すると、今日は三連休最終日の月曜日ということで休みの店が多いのだとか。この周辺で開いている店と言えば笑笑などの全国チェーンの居酒屋とのことだが、それだとあまりに面白味がない。それなら少し歩くことになるが「小作」はどうですかと勧められる。さすがに甲府くんだりまで来て笑笑なんかに行きたくないし、小作の実力は以前の甲府訪問時に知っているので、結局は小作を目指して駅前までプラプラと歩くことになる。

 

 店内は結構賑わっている。まずは当然のようにほうとうを。注文したのは「豚肉ほうとう」。これに甲府の定番の「鳥モツ」をつける。

   

 やっぱり小作のほうとうはうまい。もっちりした麺が最高である。また以前に江戸屋で内臓嫌いの私を魅了した鳥モツだが、ここのも実にうまい。モツ特有の臭みを全く感じない。

 

 さらに「ホッキの酢物」を注文、そしてデザートに名物との表記のあった「カボチャのアイス」を。これで後味もサッバリである。以上で支払いは2950円。驚異のコストパフォーマンスである。

 

 夕食を堪能後はコンビニで伊右衛門を仕入れてからホテルに帰還。テレビを見ながらボンヤリ。そして疲れてきたところでさっさと床につく。

  

☆☆☆☆☆

 

 

 翌朝は6時半頃に自然に目が覚める。体がズシリと重い。さすがに3日連続2万歩越えはかなりのダメージとなってのしかかっている。しかしこれは元より想定の範囲内。だからこそ今日はあまりハードでないようなスケジュールを組んである。今日の予定は山梨県立美術館で開催されるモーリス・ドニ展。そもそも本来は二泊三日の東京遠征となるはずの予定が、急遽山梨も含めての三泊四日に拡大されたのは、今日から開催のこの展覧会を訪問するためである。そもそもこの展覧会は去年の春に開催予定だったのだが、あの福島原発の事故により、フランス政府が「我が国の貴重な文化財を放射能汚染された日本に持っていくことはまかりならぬ」とのお触れを出したことで中止になってしまったのだ。しかしその後、世界中で予想以上に反原発気運が高まってしまったことから、このままでは国策の原子力ビジネスに響くと恐れたフランス政府が「いやー、放射能なんて本当はそんなに大したもんじゃないんですよ・・・。日本の事故だってそんなに大事故じゃないし・・・。」と突然に手のひらを返したことで、急遽開催の運びになった次第である。

 

 ホテルから美術館へ直行する予定なので、今日はいつもの遠征と違ってゆっくりした出発である。ホテルで朝食を摂ると大浴場で朝風呂。さっぱりしたところでゆっくりと荷造りすると、ホテルにタクシーを呼んでもらってからチェックアウトする。朝の甲府はかなり車が混雑しているが、私が目指すのは渋滞とは逆方向なので問題なく予定通りに目的地に到着する。

 


「モーリス・ドニ −いのちの輝き、子どものいる風景」山梨県立美術館で3/4まで

 

 19世紀のフランスの画家で、ナビ派の一員として挙げられるドニの展覧会。

 展覧会のタイトルにも挙げられているが、とにかくすべての作品が「家族の肖像」である。それもプライベートな日常画だけではなく、信仰心が篤かったという彼は多くの宗教画も手がけているのだが、それらのモチーフになっているのも家族。例えば彼の妻が聖母マリアのモデルになっていたり、息子がイエスやヨハネのモデルになっていたりと言った具合である。彼にとっては家族の存在そのものが創作の原点であり、インスピレーションの源だったようである。 

 彼の家族への想いを感じさせるように、すべての作品が暖かさに満ちている。もっとも赤の他人からすれば、どこかの家族のホームビデオを見せられているような気恥ずかしさもある。ただこの空気にずっとさらされていると、長年独身の私も妻子のある生活というものを送りたくなってきたりする。


 

 もっともそのためには相手の存在が一番問題であるが・・・。

 

 この美術館は別名ミレー美術館と呼ばれるようにミレーの作品を多く所蔵している。またミレー以外でもトロワイヨンなどいわゆるバルビゾン派の優品を多数所蔵しているので、久しぶりにこれらの名画もじっくりと堪能してくる。

 

 美術館の見学を終えるとバスで甲府まで直行する。これでほぼ全目的達成なので後は帰るだけだが、さすがにまっすぐに帰るのも芸がないのでオプショナルツアーを計画している。とりあえず上諏訪まで特急あずさの指定席を押さえると、列車の到着時間までに昼食を・・・と思ったが、駅前にはめぼしい店はない。仕方ないので駅前のモスバーガーで簡単な昼食になる。

 

 昼食を終えると土産物を購入してから駅のホームへ。しかし予定の時間になっても列車が到着しない。どうやら中央線名物の列車の遅延のようだ。とにかくトラブルの多い中央線だが、その煽りで特急あずさはやたらに遅れることが多い列車である。私が以前に松本に行った時など、特急あずさが1時間近く遅れて到着したのに出くわしたことがあり、その煽りで私が乗車していたワイドビューしなのまで影響を受けたことがある。今回も10分程度遅れている模様。私の予定では上諏訪で普通に乗り換え、塩尻で中津川行きの普通にさらに乗り換えるつもり。果たしてこの乗り換えがうまく行くのかに不安を感じる。

 

 ようやく特急あずさが到着する。車内を車掌が回ってくるので、上諏訪で普通に接続できるのかを確認するが、「現在確認中です」との素っ気ない返事。ただこうやって「特急から普通に乗り換える予定の客がいる」ということアピールしておくことは重要。JRは青春18切符ユーザーなどの貧乏客のことは放置するが、さすがに特急を利用するユーザーについては便宜を図ろうとするので。それに救いは特急あずさも普通列車も共にJR東日本の管轄ということ。これが会社をまたげば「向こうの遅れはこっちに関係ない」とばかりに時間通りに発車することが結構ある。塩尻からの普通はJR東海の管轄だが、塩尻での乗り換え時間は40分程度あるので、1時間近く遅れるということにならない限りはここは大丈夫。さらに上諏訪周辺は中央線のネックと言われている単線地域なので、特急よりも先に普通列車が出てしまうと運行上諸々のトラブルになると思われるので、多分待つだろうというのが私の読み。まあ最悪の場合でも帰れなくなるというようなことはなく、せいぜいがオプショナルツアーが中止になるという程度のこと。腹を括って様子を見ることにする。

 

 車窓を楽しんだり、この原稿を打ったりしているうちに上諏訪に到着する。予想通り普通列車が待っているので直ちに乗り換え。私と同じ立場の乗客が十数人いる模様。普通列車は特急を見送ると10分以上遅れて発車する。諏訪湖の周りを周回するが、諏訪湖には氷が張りかかっているものの、まだまだ全面凍結には遠い状態。そう言えば温暖化の影響が出ていると聞いたことがある。諏訪湖から離れると列車はすぐに塩尻に到着する。塩尻では中津川行きの列車が待っている。乗り換え時間20分ほど。まずまず予定通りである。普通列車は二両編成のワンマン列車だが、車内はすぐに満員になる。以前からJR東海は、新幹線に乗客を乗せるため在来線をわざと迫害していると言われているが、新幹線が通っていない中央線でも同じことをするようだ。

  この辺りには雪がある

 ところで塩尻から普通に乗車したのは奈良井宿を訪問するため。奈良井はかつての中山道の宿場町で、現地にはそのときの風情をたたえる建物が残っており、いわゆる景観保存地区になっているという。それを見学してやろうという計画。奈良井までは深い山間部を走行。中央線もこの辺りになるとほとんどの駅は無人駅。またさすがにこの辺りになると積雪がある。そのような山を見つつボンヤリしているうちに奈良井に到着する。

    奈良井駅

 奈良井駅はいかにも観光地の駅らしく風情はあるのだが、どうも駅前などに全く活気がない。また観光地の駅だというのにロッカーもないし、観光案内所のようなものも見あたらない。果たして本気で観光をやっているのか疑うようなところである。奈良井宿はこの駅のすぐ西にあるのでトランクを引きずったまま徒歩でそちらに向かう。

 

 奈良井宿は一度も来たことがないにもかかわらず「懐かしい」と感じさせる町並みである。これは日本の原風景の一つなんだろう。そう広くはない通りの両側に旅館などの建物が並んでおり、かつては中山道の宿場町として賑わったであろうことを想像させる。

途中の店で五平餅を購入しつつ、鍵の手に到着

 生憎と三連休明けの火曜日のせいか、店の類は閉まっているところがほとんどで、観光客の姿もそう多くなく通りは閑散としている。途中で一軒営業していた菓子屋で五平餅を購入したりしながら、この通りを中央の鍵の手辺りまで歩く。

    木曽の大橋

 奈良井での滞在時間は1時間。ここまで来たところで引き返すことにする。宿場町はさらに続いているようだが、風景は似たようなものであるし、半分溶けかけの雪が残る中をトランクを引きずって歩くのは思っていたよりも歩きにくい。列車に遅れてはいけないので早めに引き返すことにする。なお同じ道を引き返すのも芸がないので、線路沿いの裏通りの方に回る。こちらは表通りのような景観保全をしていないのか、普通の家の普通の暮らしが垣間見える。ちなみにこの線路の向こう側に道の駅があり、木曽の大橋なる巨大な木造橋があるのだが、これは別に錦帯橋のような歴史のあるものではなくて最近建てられたものとのことで、私にはあまり興味がない。なおこの橋を見ようと思うと線路を渡る必要があるのだが「観光客の方は危険ですので通路に回るように」との案内看板があちこちに立っている。ただこの看板の立っている場所は明らかに線路のフェンスが切れており、どうやら近隣住民はここらで線路を横切っているようだ。この線路はワイドビューしなのなどが猛スピードで通り抜けていくので、列車のダイヤを知らない観光客がフラフラと横切ると自殺行為だと言うことだろう(多分、地元民はダイヤを把握した上で自己責任で線路を横断しているものと思われる)。

左 こういう部分には  中央 こういう看板が必ず立っている  右 観光客はこの地下通路に回りましょう

 奈良井駅に戻ってくると木曽福島行きの普通列車に乗車、木曽福島でワイドビューしなのの到着を1時間弱待つことになる。なおこの木曽福島にはかつての関所跡などもあるらしいが、そこまで結構距離があるのと、現地に到着してみると想像以上に起伏があることなどから現在の体力と相談して諦めることにした。結局は駅前で腹ごしらえに蕎麦を食べたり、土産物を購入したりして時間をつぶし、到着したワイドビューしなのに乗車して帰途についたのである。

    帰路での弁当

 東京の展覧会をメインにしつつ、周辺地区の城郭などを押さえていったのが今回の遠征。特に今回、念願の八王子城を制覇したことで100名城も残るは4つ、沖縄の3つは今年の2月に予定している沖縄遠征で、最後の山中城は3月に予定している箱根遠征で押さえるつもり、どうやら100名城制覇も視野に収まってきた。

 

 しかし今回の遠征は身体には思ったよりもきつかった。何しろ4日間で2万7千歩、2万歩、2万5千歩、1万歩という状況。特に美術館の梯子は想像以上に身体と財布にきつかった。結局はこのダメージはしばらく身体に残ることに。全く年初から何をやってるのやら。

 

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