展覧会遠征 広島編4

 

 沖縄大遠征の疲労でしばしお籠もり状態だった私だが、そろそろ遠征に出かけるかという気が起こってきた。そこで今回の遠征先は広島。主目的はひろしま美術館で開催中の「上田宗箇展」であるが(いよいよ私も「へうげもの」づいてるな)、それに城郭視察を絡めて一泊二日の計画である。正直なところ日帰りも不可能ではないのだが、未だにノートの運転感覚がしっくりきていないので無理は止めて余裕のある日程にした。

 

 山陽自動車道に乗るとまずは本郷まで突っ走る。最初の目的地は高山城である。新高山城を訪問した時から、その向かいの高山城もいずれ訪問しないといけないという気はずっとあった。前回の広島訪問時に高山城に立ち寄ろうと考えたものの、登城口まで行ったところで体力切れと時間切れで撤退。それ以来、宿題として頭の中に残り続けていたのである。今回は満を持してこの長年の宿題を片付けようという考え。

 

 本郷出口を出て車を南下させると、やがて前方に険しい山容の新高山城と向かいに頂上がやや平坦な高山城が見えてくる。この両者の間を川沿いに通り過ぎると、高山城の東側に回りこむような形で北東に向かう。新幹線の線路をくぐった少し先ぐらいに山上の住宅地に上がっていく側道が見えるので、そこを入って路地を奥まで上がっていく。一番高い位置に墓地と駐車場があり、そこに「高山城」の案内看板が立っている。どうやら今日は先客が一名いるようだ。

左 登城口  中央 険しい道を登っていく  右 石垣が所々にある

 ここに車を停めると前回引き返した登城路を登っていく。前回のときはすぐにクモの巣に行く手を阻まれたが、今回は先客が掃ったのかクモの巣は全くない。ただ昨日まで続いていた雨のせいか、足元が若干ぬかるんでいて歩きにくい。足元が崩れやすい上に靴も杖も土の中に沈む。悲しいかなこのような上り坂を登り始めると私は数分とせずに息が上がってくるし、ふくらはぎはつりそうになる。途中で休憩をとるといっても斜面で立ち止まったのでは足首は張ったままなのでふくらはぎは楽にならない。結局は斜面を一気に登っては10秒ほど立ち止まり、また登り続けるという作業の連続になる。20分ほど経ってかなり疲れた頃にようやく山上にたどり着く。

 地図(以前に撮影した案内看板の絵を拡大印刷してきた)によると、ここから右手に進むと北の丸、左手に進めば二の丸を通って本丸へ、まっすぐ進めば馬場を抜けてイワオ丸などの西部曲輪群へたどり着くようである。どうせ帰りにここに戻ってくるのだから、北の丸はその時に見学するとして、まずは本丸方向に進むことにする。

 二の丸はこの上

二の丸上の風景 かなり広い

 左手に進むとすぐに二の丸に上る。二の丸はかなり広大で、この城の規模の大きさが良く分かる。竹原小早川と沼田小早川を強引に統一した小早川隆景は、竹原小早川の本拠であった木村城からこの高山城に居城を移したのだが、高山城は木村城とは比較にならない大規模な城郭であり、こちらに本拠を移したのは当然と言えよう。ただそれだけになぜこの後にすぐに新高山城を築いたかが不明である。なお以前に新高山城を訪問した時に私は「秀吉などの東方の脅威を意識して東側に堅固な新高山城を築いたのでは」と書いた記憶があるのだが、これは今から思えば大馬鹿な勘違いである。記録によると小早川隆景が新高山城に本拠を移したのは1552年とのことで、桶狭間の合戦が1560年なので、秀吉の台頭はおろか、まだ信長でさえ頭角を示しておらず「尾張のうつけもの」だった時代である。いくら小早川隆景の慧眼をもってしても、この時点で秀吉の台頭が予測できるわけもない。もっとも秀吉は問題外としても、毛利領の東部を守る城として東側を意識した可能性はないわけではない。しかしそれよりは、竹原小早川と沼田小早川を強引に統一した経緯から(かなり重臣の粛正などもあったらしい)、人心一新の意味で両者とも関係のない新たな城を築いたのではないかという辺りのほうが妥当そうである。

  

二の丸から一端降りて先に進むと一段高い本丸がある

この本丸もかなり広い

 二の丸を先に進むと堀切を越えた先が本丸である。本丸も二の丸に劣らない面積であり、とにかく規模が大きい。

左 向こうに見えるのが扇の丸  中央 また一段下に降りる  右 右手が扇の丸

扇の丸

  

左 奥が二段になっている         右 下の段から振り返って

 本丸から降りた左手にあるのが扇の丸。ここは二段になった曲輪で本丸の南側を守る位置にある。

左 降りていった馬場は鬱蒼としている  中央 竹林の中を進む  右 抜けた先に案内看板が

左 案内に従ったつもりが道なき道へ  中央 ついにはこの崖を登ることに  右 しかし深い薮に行く手を塞がれる

 扇の丸の見学を終えると馬場のほうに下っていく。ここは本丸などの東部曲輪群とイワオ丸などの西部曲輪群に挟まれたくぼ地のような構造。通路は藪が掃われているものの、全体的に鬱蒼としているので大きさが今ひとつ分かりにくい。ここに案内標識が立っているので、その方向に従ってイワオ丸を目指す・・・のだが、ここで完全に道に迷ってしまった。途中から完全に道がなくなってしまい道なき道を進むことになり、最後には木の根や竹をつかんで崖の上に登る羽目に。しかしそれでもとうとう鬱蒼とした茂みに行く手を阻まれて万事休す。これ以上進むにはナタが必要であるが、そんなもの持っているわけもないし、そもそも今時ナタを車に積んでウロウロしていたら職務質問か何かでしょっ引かれかねない(十徳ナイフを持ってただけでしょっ引かれた奴がいるぐらいだから)。それにそもそも私は軍手も持参していないくらいの素人であり、こんなところを進むことは想定外である。結局は無難に「来た道をそのまま戻る」ことにするのだが、これがまた難儀。難路に関しては「降りるよりは登るほうが簡単」ということを身に染みて感じつつ、全身ドロドロになってようやく馬場まで戻ってきたのだった。

左 馬場から別の道を進む  中央 鬱蒼とした先がようやく開けてくる  右 西尾根筋に出たようだ

左 左手の道  中央 右手の道の方を進む  右 奥に三角点のある広い曲輪に出る

 馬場まで戻ってくると残った道を進むことにする。この道もあまり整備されているとは言えないが、一応は藪を掃ってあり道を見失うことはない。そのまま進んでいると東側の尾根筋に到着。どうやら西部曲輪群はこの尾根筋にある模様。左に進んでも右に進んでも曲輪がありそうであるが、とりあえず右に進むことにする。

左 三角点  中央 曲輪はさらに奥に続く  右 一段下にも曲輪が見える

 進んだ先には三角点のある広大な曲輪がある。案内看板がないので場所をつかめないのだが、地図からすれば高野丸だろうか? ここからは新高山城の岩場が見える。新高山城からは高山城の頂上は丸見えだったが、こちらからは岩場に邪魔されて新高山城の全貌は見えない。意外とこれが本拠を移した理由かもなんて感じたりもするのだが・・・。

左・中央 降りてみるとそれなりの広さの曲輪である  右 新高山城がそこに見える

下の曲輪から見た上の曲輪の石垣

 この曲輪の一段下にも曲輪があるので降りてみる。これが太鼓丸だとしたらさらに先に西の丸があるはずなのだが、この曲輪の端まで行っても先に進めるようなところは全く見当たらない。どうも全体構造がよく分からない。

  

左 先ほどの分岐の左側の道を進むと  右 イワオ丸の表示がある曲輪に出る

イワオ丸

イワオ丸からの風景

イワオ丸中央の岩場の上から振り返って

 再び上の曲輪に戻ると、来た道を引き返して先ほどの分岐点の左方向に進む。するとすぐに大きな曲輪があり、ここにはイワオ丸との案内看板が立っている。となるといよいよ先ほどの曲輪が何だったのかがよく分からない。あのどん詰まりの曲輪が西の丸だとしたら、上の曲輪は太鼓丸。すると高野丸がない。三角点のある大きな曲輪が高野丸だとしたら、西の丸がない。それとも無理やりに解釈すれば、あのどん詰まりはやはり西の丸で、道を上り詰めた辺りから三角点のある曲輪までが高野丸から太鼓丸がずらずらとつながったものなのだろうか。

左 イワオ丸から先に進む  中央 堀底から上に上がると  右 広大な西丸に出る

左 西丸をさらに進む  中央 堀切と土塁を隔てた向こうが出丸  右 堀切底から右手が西丸、左手が出丸

出丸もかなり巨大

 イワオ丸の先は堀切のようになっており、その先にはこれもかなり大きな西丸がある。さらにその先には明確に堀切と土塁があって、その向こうに出丸がある。西丸の高さといい、土塁まであることといい、この間が一番堅固に守られていることが分かる。この出丸もかなりの面積がある。南方向の守りの要なのだろう。

左 出丸から西丸方向を望む  中央 西丸とイワオ丸の間の道を降りていく  右 道なき道の果て、ようやく馬場の標識のところへ

 出丸の見学を終えると西丸とイワオ丸の間の道を通って馬場に降りる・・・つもりだったのだが、この道がまた途中で道なき道になってしまって進退窮まる。途中でとうとう行き止まりになってしまい、左手の崖を登るしかないかと思ったところで、ふと「何かここは一度通ったことがある気がする」ということに気づく。木の根の形に見覚えがある。ここはどうやらさっき馬場からイワオ丸に上がろうとして迷い込んだところのようである。さっきは下から上がる途中でルートを間違ってここに来てしまったのだが、今度は上から降りる途中でもここにたどり着いてしまったようである。すぐに引き返して途中で下に下るルートを発見、何とか馬場にたどり着く。迷いやすいルートなので、できれば案内看板を立てるか縄でも張っていて欲しいところだが、全体的に西曲輪群周辺は東曲輪群周辺よりも未整備である。

左 東曲輪群の裏手から西曲輪群を望む  中央 右手が二の丸、北の丸は左手  右 北の丸登り口

左 北の丸  中央 北の丸奥、薮がある  右 その奥にはさらに曲輪がある

 馬場の案内看板のところまでやってくると、ここからはグルリと回って北の丸に。ここもかなり広大な曲輪。木村城と比べた場合の圧倒的な規模のさを考えると、竹原小早川氏よりもやはり本家筋の沼田小早川氏の方がかなり勢力が大きかったということだろうか。ここを見学してからようやく下山することにする。

 

 見学所要時間は上に上ってからで一時間半。細かいチェックはせずにかなりサクサク回る私にしては相当の長時間であり、それはこの城郭がどれだけの規模かということをそのまま示している。とにかく一つ一つの曲輪の規模がかなり大きい。曲輪の配置などは直線的でかなり単純であるが、相当の大兵力を配備できそうであり、機能的には小早川氏の本拠地として全く問題はないように感じるのだが・・・。

 

 なお当然のことながらこの城郭も私の続100名城には余裕で当選である。それにしても新高山城といい、この高山城といい、やはり100名城の選定には疑義が多々ある。私としては100名城の下位10個と続100名城の上位10個ぐらいを入れ替えたほうが妥当なような気もするのだが。なお100名城の下位10個は根室チャシ跡群、根城、多賀城、足利館、水戸城、新発田城、千早城、湯築城、府内城、吉野ヶ里遺跡辺りだと私は考えている(人によって異論は多々あるだろうが)。この中で根室チャシ跡群、根城、多賀城、足利館(足利学校と併せて)、湯築城、吉野ヶ里遺跡は三内丸山遺跡や平城京跡、大宰府跡、仁徳天皇稜、平泉などを含めて「100遺跡」にするべきだと考えるし、千早城も上赤坂城など一帯を含めて「南北朝動乱関連遺跡」にする手があると考える。なお続100名城トップ10は今後変更の可能性もあるが、九戸城、村上城、苗木城、置塩城、大和郡山城、新高山城、高山城、米子城、臼杵城、勝連城辺り。

 

 これで長年の宿題をようやく解決。意気揚々と次の目的地へと向かうことにする。次の目的地は広島の「亀居城」。福島正則によって毛利氏への押さえとして山陽道を扼する形で建造された城郭だという。しかし豊臣系外様大名の福島正則があまりに巨大で立派な城郭を建造したことはかえって徳川氏の疑念を招き、築城後3年で廃城になったという。なお福島正則自身もそのさらに8年後に改易の処分を受けている。廃城になった城郭はその後は荒れるに任されていたらしいが、近年になって発掘調査が行われ、大竹市もその観光的価値に目を付けたのか今では公園として整備されているという。

左 案内看板に従って進む  中央 正面の山上が亀居城  右 有の丸に到着 奥が三の丸

三の丸 右手奥の階段が二の丸へ続く

 広島岩国道路を大竹で降りると、グルリと回り込むような形で亀居公園にたどり着くことが出来る。公園下の駐車場に車を置いて道路を登っていくと、やがて立派な石垣が見えてくる。ここが有の丸になるらしい。右手にに三の丸、二の丸、本丸と登っていく形になる。三の丸は立派な石垣の上にありそこそこの広さがある。そこから後付けと思われる緩やかな階段が二の丸に続いている。

左 三の丸から階段を登る  中央 二の丸に出る  右 能舞台らしき建物

左 二の丸奥の本丸石垣  中央 二の丸虎口  右 こちらは本丸虎口

 二の丸には能舞台らしき建物が建築されており、ここもかなり広いスペースである。正面には本丸の石垣が見えているが、これがさらに高い。また虎口らしき構造もある。

本丸上風景 奥が天守台

本丸から大竹市街を望む

左 下から見上げる本丸石垣  中央 下が元々の石垣で、上は積み直しだろう  右 詰の丸

 本丸はかなり高い位置にあって天守台もある。残念ながら天守台上は柵がないためか登れないようにフェンスが鍵で閉ざされていた。天守台の上からはさぞや眺望が良かろうと思われる。一端本丸を降りてその石垣をグルリと一周して見学するが、かなりの高さである。なお朽ちて残っていた土台の石垣に新たな石垣を積んで修復したと見え、石垣の途中で明らかに石の質が変わっている。

左 有の丸から松の丸を見下ろす  中央 松の丸に降りる  右 この上が有の丸

左 松の丸  中央 さらに降りると名古屋丸  右 名古屋丸から松の丸を振り返る

左 名古屋丸の虎口?  中央 さらに名古屋丸を奥に  右 捨の丸への降り口がある

 有の丸まで降りてくると、ここからさらに一段降りたところが松の丸。さらにその奥が名古屋丸である。この辺りはかなり広大な曲輪であり、かなりの大兵力が篭もれる城であることが分かる。

左 捨の丸  中央 ここまで来ると住宅地が近い  右 捨て丸から名古屋丸入口方面を見る

 名古屋丸からさらに一段降りると捨の丸。この城郭の最北端であり標高も一番低くなる。この城で戦いがある時には最前線になる曲輪だろう。

 

 とにかく全く予想していなかった規模の城郭だった。広島城の支城としてこれだけの規模の石垣造りの城郭が建造されていたとは・・・。確かにこの規模なら徳川氏の疑念を招いても仕方ない。それでなくても徳川氏にとっては福島正則は加藤清正と並んで要注意人物の筆頭だったのだから。もっとも加藤家の方も三代目のところで取りつぶされており、この両家を取りつぶすのは徳川氏にとっては既定の路線だったのだろう。

 

 なお現地はかなり整備されていて見学は楽だったが、逆に整備されすぎていてどこまでが往時の遺構であるのかが不明である点が多々あった。本丸周辺の石垣などは再整備の際に構造が変更されている可能性もあり得るし、二の丸辺りの石垣などはどこまでが本物かと首をひねる場面も多々あった。未整備の山城を薮をかき分けて見学するのもかなわないが、ここまで綺麗にされてしまっても痛し痒しである。

 

 これで今日回るべき城郭の予定は終了である。後は美術館の方の予定になるのだが、ここに来て強烈な疲労が身体を襲ってきた。足がつらいのはいつものことだが、今回は腕がかなりだるい。やはり高山城で想定外の岩登りなんてしてしまったせいであろう。この疲労状態で美術館を回っても鑑賞に身が入りそうにないので、美術館の予定は明日に回すことにして、事前に調べていた温泉で疲れを抜くと共に遅めの昼食とすることにする。

 

 訪問したのは「半べえ温泉」。広島の町中にある日本庭園を備えた老舗料亭が経営する日帰り温泉施設である。路地の奥のややこしいところにあるが、大きな駐車場が完備されていて多くの車がやって来ていた。

 まずは入浴の前に昼食から。ここには「きすい」というお食事処があり、本館の高級料亭とは違ってもっと庶民向きの価格のメニューがある。私の訪問時には既に3時を回っていたために昼食メニューが終わって喫茶メニューになっていたので、その中から「大名うどん(950円)」を注文する。

 エビ天にとろろ昆布にイカに豚肉に椎茸とかなり具だくさんのうどんである。早速うどんを箸で挟もうとするが、箸使いの下手な私にはうまくつまめない。どうやら汁にとろみがつけてあるようでツルツルと滑る。また汁にとろみがあるので麺に絡んで猫舌の私には熱い。ここにきてうどんに取り椀が添えてあったわけが了解できる。とりあえずこちらに麺を移して少し冷えたところを頂く。とろみのある汁が麺によく絡んでいるので実にうまい。味付けはなかなかに上品であり、高級なうどんという印象。やはりこのうどんは料亭テイストなんだろうか。

 

 昼食を終えたところで入浴することにする。浴場は阿の湯と吽の湯があり入れ替え制の模様。私の訪問時は吽の湯が男湯で、露天風呂には高知の赤石が敷いてあった。ちなみに阿の湯の方は徳島の阿波青石だとか。浴場の説明によると露天風呂が温泉で含放射能のナトリウム・カルシウム塩化物泉らしい。循環濾過、加温、消毒有りの湯であるが、肌当たりの柔らかい入浴しやすい湯。なお内風呂は歩行風呂やジャグジー、人工炭酸泉など様々だが私は主に露天風呂に入浴、とにかくヘロヘロになった身体をじっくりと癒す。

 

 入浴を終える再び「きすい」を訪れて、今度は「ソフトクリームぜんざい(580円)」を注文、火照ってへばった身体にこの冷たい甘味がたまらない。

 一息ついたところでホテルにチェックインすることにする。今回の宿泊ホテルは「ホテル法華クラブ広島」。最近になって私がよく利用しているホテルチェーンである。ホテルの立体駐車場に車を放り込むとチェックイン手続き。広島は駐車場の相場が高いので、車でいった場合には宿泊料金に駐車場料金が上乗せされるのがツライ。実のところ、美術館訪問だけなら広島の場合は鉄道を利用した方が便利である。

 

 部屋でマッタリと一息つくと調べ物。一渡りのチェックを終えたところで夕食に繰り出すことにする。先ほど調査した店を探しつつプラプラと広島中心部方面へ。しかし目的にしていた店が全く見つからない。結局は諦めて、散策途中でビビッと感じた店に入店することにする。

 

 入店したのは「五津味」。看板に書いてある「にっぽんの洋食」というキャッチがいわゆる町の洋食屋好きの私の感性にビビッときたのである。ちなみに広島訪問を計画した当初は「KAZUMARU」で牡蠣づくしなんてところを考えていたのだが、先週日曜日に相生で大量に牡蠣を仕入れて焼牡蠣をしこたま食ったせいか、実際に広島訪問をした時にはあまり牡蠣を食べたいという気分ではなくなってしまっていた。そういうところに洋食というのが感覚的にフィットしたというのもある。

 店内はいかにも洋食屋という雰囲気。注文したのは「ロースステーキ丼」。コース料理などもあるようなので本来はそっちを頼みたかったのだが、残念ながらコースは「二名様から」であった。こんなところにも二名縛りが・・・。

 丼鉢に盛られたご飯の上にステーキが載ったステーキ丼が運ばれてくる。この和洋折衷ぶりがいかにも洋食屋らしい。一口放り込むと「うまい」。正直なところ本音では「ステーキと丼という取り合わせはどうだろうか」という気持ちもあったのだが、そんな懸念は一口で吹き飛ばされた。ヅケというタレが非常にご飯とステーキに合っていて旨い。ごはんは鰻重のような雰囲気。それに柔らかく焼かれたステーキの旨味が加わって抜群のバランス。当初はゲテモノのように思われていたメニューが、実際に食べてみると「こうあるのが正しい姿」と感じさせられるぐらいの説得力がある。

 想定外のうまさだった。ステーキ丼を堪能したところで一応広島のお約束ということで「牡蠣フライ」を追加注文。以上で支払いは2680円。なかなか妥当なところである。

 

 腹を膨らませてホテルに戻ると、ホテルの大浴場で入浴。熱めの湯に浸かりながらじっくりと疲れを抜く。山城巡りで疲労が溜まっていたところに、先ほどの繁華街散策で結局は1日で1万6千歩を歩いてしまった。山道を含んでの数字であるからこれはかなりキツイものである。

 

 入浴を終えて部屋に戻るとしばしこの原稿打ち。しかし9時前頃で既にかなりの疲労感が押し寄せてくる。結局はこの時点で原稿打ちは諦めてテレビをボンヤリ。しかしそれもしんどくなってきたので10時前には就寝する。

  

☆☆☆☆☆

 

 

 どうも寝苦しかったせいで夜中の3時に一度目が覚める。仕方ないのでしばしネットサーフィンをしていると再び眠気が訪れてきたので再就寝、次に目が覚めたのは7時だった。

 

 ホテルで朝食を摂ると、9時前にチェックアウトする。今日はまず広島市内の美術館巡りからである。

 


「上田宗箇 武将茶人の世界展」ひろしま美術館で3/25まで

 

 幾多の戦場で武勲をあげた荒武者でありながら、その一方で千利休、古田織部などに師事した茶人でもあった上田宗箇について紹介した展覧会。上田宗箇は縮景園も手がけており、広島ともゆかりの深い武士であることと、いわゆる「へうげもの」関連で注目を浴びているということから開催されたものと考えられる(実際に会場内にいきなり「へうげもの」の人物相関図が展示されていたりする)。また近年の研究では、宗箇が織部とともに九州などの多くの陶芸産地をプロデュースしていたことも明らかとなってきており、そういう点からも注目されているようである。

 わびさびの世界を追求した利休に、その後を継ぎつつも武家の茶道の確立し志向としてはかなり奇想に傾いた織部といったそれぞれ強烈な個性を持った師に仕えた宗箇であるが、その志向はその師とはまた異なった独自性の高いものである。宗箇は「ウツクシキ」を好んだと言われているが、彼の美意識は彼自身の経歴を物語るかのように無骨で大胆なものでもある。織部の影響は見られるが、織部ほど奇をてらうことがなく、シンプルであるのが特徴的。

 本展によって初めて上田宗箇という人物についての情報を得たような気がする。なかなかに面白い体験。


 これでようやく本遠征の主目的は終了である。後はさらに次の目的地へ。

 


「ユーモアのすすめ 福田繁雄大回顧展」広島県立美術館で3/31まで

 

 グラフィックデザイナーの福田繁雄の作品を集めた展覧会。目の錯覚などを利用した作品や、独自のユーモア感覚に溢れたポスターなどを展示。

 立体作品の多くを見るに、彼がかなり形態に対する感性の鋭い人間であるということはうかがえる。その感性はポスターにも現れており、「やられた」と唸らされるようなピリリと冴えのある作品が多い。またその切り口はユーモアに満ちており、思わずニンヤリとさせられる作品も多い。

 とにかく作品が悉くトリッキー。技あり作品のオンパレードである。芸術性云々でなく、単純に彼の感性を楽しむのが一番良さそう。

左 前からは普通の車に見えるが  中央 横から見るとこう  右 同様にこんなのも

左 これはヴィーナス像に自分の顔写真を重ねたそうな  中央 影はバイクだが  右 正体はナイフとフォーク


 これで広島での予定は終了。高速で帰途につくことにする。当初の予定では帰途で広島か岡山の城郭に立ち寄るつもりであったが、足腰の方に昨日のダメージがかなり残っているのを認めざるを得ない状況だし、広島地区はかなりの豪雨地域もあったり(天気予報では晴れと言っていたはずなんだが・・・)などで、城郭探索は後日に回すことにして、美術館の方の予定だけをこなすことにする。岡山まで抜けると雨はほぼ止んだが、それでも風に雨粒が混じっていてフロントガラスが濡れるような状態である。

 


「上島鳳山と大阪の日本画」笠岡市立竹喬美術館で3/18まで

 

 笠岡出身の上島鳳山は円山派の木村貫山や渡辺祥益に学び、特にその美人画で知られており、当時は竹内栖鳳や上村松園に匹敵する評価を得ていたという。その上島鳳山を紹介した展覧会。

 円山派に師事したというだけあって、その表現はかなり繊細で緻密である。ただ写実的というのとは少し違い、華やかで美しい絵を描くという印象。表現手法としては古典的で保守的な部類に属すると感じられる。美人画で上村松園と並ぶほどの人気を得たと言うが、確かに妖艶であってもどことなく品を感じる美人画でもあり、松園の美人画にも共通するような魅力を感じる。

 それほどの画家であるにもかかわらず、今日においてほとんど知名度がないのはなぜかと疑問に感じたのだが、どうやら45才という若年で早逝してしまったことが影響しているように思われる。これもかなり惜しい才能。


   

壁だけ復元された笠岡代官所の中身は小学校

 

 これで本日の予定は終了ということにする。どうも車の運転感覚が奇妙なのでGSでタイヤの空気圧を見てもらったところ、後輪の空気圧がかなり下がっていた模様。道理で地面にへばりつくような抵抗を感じていたはずだ。なおパンクなどはしていないがタイヤ自体がかなり老朽化しており、よく見るとゴムに亀裂が生じているということも発覚して、早急なタイヤ交換を進められた。後輪の製造年代は2005年となっており、どうやら私のノートが最初から履いていたタイヤがそのまま履きっぱなしになっていたようだ。走行距離が少なくて年式の古い中古車だったので、タイヤの溝は残っていたがゴム自体が劣化していたという次第。GSでかなり熱心にタイヤを勧められたが(今はどこのGSも大変なんだろう)、それは断って地元に帰ってきてからタイヤ交換をすることにした。非常に痛い出費であったが安全には代えられない。なおタイヤ交換をしてから運転感覚が激変。どうも私がこのノートにしっくり来ない感覚を持っていたのは、CVT云々以前にタイヤのコンディションが悪すぎたせいがかなりあるということが判明した次第。これで今後はこの車を駆って各地に遠征が出来そうである。

 

 

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