展覧会遠征 大阪編4

 

 梅雨に突入し、関西ではジメジメとした天候が続いている。しかしこの週末は天候は少し持ち直すらしい。こうなるとやはり遠征である。と言っても遠出をするには体力も財力も底をついている。そういうわけで今週は近場の遠征にすることにする(近場の遠征という言葉もどうも矛盾を含んだ言葉のような気がするが・・・)。現在、兵庫県立美術館でピサロ展が開催されているのでそれを見学するというのが主目的。しかしこれだけだと素っ気ないので、もう少し足を伸ばして以前から気になっていた大阪の山城を訪問することにする。

 

 早朝に車を出すとまずは大阪まで高速を突っ走る。最初の目的地は大阪四条畷にある「飯盛山城」。飯盛山城は中世の城郭で、河内と大和を睨んだ要衝である。南北朝時代には南朝方の楠木正行(楠木正成の嫡男)が四条畷で北朝方の高師直と戦った際、高師直がここに陣を敷いたと言われている。なお得意の山岳ゲリラ戦ではなく野戦で勝負を決することになった楠木軍は敗北し、正行は弟の正時と共に自害したという。その後、戦国時代にかけてこの地には本格的な城郭が構えられることになり、この城を中心に三好氏や畠山氏などの攻防が繰り広げられることとなる。最終的には三好長慶の居城となり、長慶の死後は三好三人衆らの支配下となっていたが、三好三人衆が織田信長の軍門に下ってからは畠山昭高の所有となる。しかし畠山昭高が遊佐信教の反乱で殺害され、それを怒った信長の攻撃を受けて飯盛山城は落城し、遊佐信教は殺害されたという。

左・中央 狭い山道を走り抜ける  右 我が愛車・ノートは泥はねで惨憺たる有様に

 現在は山上にはNHKのアンテナと楠公寺があり、阪奈道から山上まで続く道路があるというのでその道路を経由してアクセスすることにする。しかし阪奈道をはずれた途端に道がとんでもないことになる。道幅が狭い未舗装道路で、先日までの雨であちこちに水たまりがある状態。その中を泥水を跳ね上げつつ進めば、その先の山道はもし対向車がきたら万事休すの道幅。ようやく山上の楠公寺に到着した時にはがっくりと疲れてしまった。車から降りると愛車ノートは泥跳ねで惨憺たる有様。後で洗車しないといけない。

左 楠公寺  中央 楠公寺の横を抜けていく  右 山頂への階段を進む

左 この石垣はいつのものだろうか?  中央 展望台のある曲輪に出る  右 大阪方面を一望

 登城路は楠公寺の奥から出ている。舗装されている道はNHKのアンテナがある郭に続くようだが、まずは山頂に続いている階段の方を進む。階段を上り続けること数分、老朽化した展望台(二階は立ち入り禁止になっていた)のある曲輪跡に到着する。この山上はハイキングコースになっている模様で、ベンチでは休憩をとる登山客が数名。なおここからは大阪方面を遠く見晴らすことができる。

左 本丸高櫓郭の小楠公像  中央 城跡碑と案内看板  右 奥にはかなり急な崖

 ここから南に一段登ると楠木正行(小楠公)の像がある曲輪に到着。案内看板によると、ここが本丸高櫓郭とのことで城跡碑がある。ただこの案内看板、曲輪のほとんどが本丸であり、本当にこれで良いのかにはやや疑問。しかも「本丸展望台櫓」って? まあそれはともかく、南と北に曲輪がつながっているようなので、とりあえずここを下って南の曲輪を目指す。

左 ロープを使う場所もある  中央 この道路は堀切の底か  右 千畳敷曲輪のNHKアンテナ

左 ここから一段降りる  中・右 かなり広い曲輪である

左 さらに一段下にも曲輪が  中央 虎口  右 虎口の先の南丸

 堀切の先の南の曲輪が本丸千畳敷郭とのことでNHKのアンテナが立っており、先ほどの高櫓郭よりは面積が広い。ここにはかつては屋敷でもあったのだろうかと思われる。この曲輪の南側の一段下にさらに曲輪があり、ここは南丸。また案内看板によると大手口はこの間辺りにあったらしい。

左 展望台郭からさらに一段降りると  中央 広大な本丸倉屋敷郭  右 さらに先に郭が続くが引き返す

展望台郭下の石垣

 再びとって返すと北側の曲輪に降りる。ここからは数段の曲輪があるようだ。例の展望台郭の下が倉屋敷郭。ここは細長い郭で下草が鬱蒼としており、また展望台郭とはかなり高度差がある。ここからさらに下がったところが三本松郭だが、先に進むたびにかなりの高度を下ることになる。帰りのことを考えるとしんどくなってきたので途中で引き返す。先の展望台郭の東側をグルリと回ると、この辺りでは石垣の一部を見ることができる。

 

 石垣を見学してから楠公寺に降りてくる。ここは馬場跡ということになっている。とりあえず車のところにたどり着くとお茶で喉を潤してからカーナビに次の目的地の入力。その時に背後をかなり大きなワゴンが通過する。もしこんな車に山道で正面から出くわしたら進退窮まるところだった。私が車内でモタモタしていたのが幸いしたようである。

 

 次の目的地だが、高槻の芥川山城を目指すことにする。「芥川山城」は高槻の三好山にある山城で、大阪の山城では飯盛山城と双璧と言われている城郭である。築城は16世紀前半に能勢氏の手によるとのことだが、その後この城に入った細川晴元が大幅に拡張したとのこと。しかし細川晴元と三好長慶との争いでこの城は三好長慶の手に落ち、彼が飯山城に本拠を移すまではここを本拠として使用したという。三好長慶の移動の後は息子の義興が城主となるが、彼は若くして急死。その後三好長逸が城主となるが、織田信長の侵攻で落城している。信長はこの城を和田惟政に与えるが、和田惟政が本拠を高槻城に移したり周辺諸国と争って討ち取られたりなどのうちに廃城になったらしい。

 芥川城登城口近辺には駐車スペースはなし

 芥川山城への登城口は山手の住宅街の奥にある。起伏のある路地を走り抜けようやく登城口にたどり着くが・・・車を停める場所がない。狭い路地なので路駐するわけにもいかないし、そもそもそれでも路駐する輩がいるのか、あちこちに「駐車禁止」の表示が出ている。さすがにここに車を停めるような非常識なことは出来ないので一端退却することにする。

 

 とりあえず戦略の練り直しが必要なよう。そこで本来は登城後に立ち寄るつもりだった隣の摂津峡の「美人湯祥風苑」に先に立ち寄る。駐車場に車を止めて入館すると、まずは昼食を摂ることにする。中のレストランで「ステーキ丼(800円)」を注文。ありきたりのメニューではあるが可もなく不可もなくというところ。

   

 昼食を済ませると入浴することにする。浴場は内風呂とサウナと展望露天風呂の構成。泉質はアルカリ性ナトリウム−炭酸水素塩泉とのことでヌルヌルする肌当たりの良い湯で、その名の通りの美人の湯。またぬるめのお湯はゆったりとくつろげる。もっともやはりこの手の施設の宿命として湯から塩素臭が漂っているのはどうしようもないところではある。ただそれでも空を見ながらの露天風呂はなかなかに気持ちよい。大阪は温泉不毛の地だと思っていたが、大阪近郊でこんな良い温泉があったのか。

 

 ゆったりと入浴を終えるとコーヒー牛乳を飲み干してから車に戻る。ここまでで所要時間1時間。やはりくつろいだつもりでも私は烏の行水なのか。なおここの駐車場は施設の利用で3時間まで無料で、それ以降は30分につき200円との記述がある。それを見てふと思いつく「このまま芥川山城を攻めるか」。

 

 芥川山城はちょうど川の向こうである。地図を見ると歩行者用の橋があるような雰囲気があったので、摂津峡公園に出てから川の方に降りていく。しかしその周辺住民用に架けられていたらしき橋は、ものの見事に破壊されていて通行不可。まさか川をザブザブ渡っていくわけにもいかない(小さな川に見えるが結構急流である)ので、引き返す羽目になる。

 橋は無惨にもこの状況

 結局は南側の住宅地経由のルートとなるが、この住宅地の路地がまるで迷路で、惨々遠回りした挙げ句にようやく登城口に到着する。この時点まででかなりの時間と体力を費やしてしまった。果たしてこれから山城を攻める体力が残っているんだろうか不安になりつつも、とりあえずここまで来れば前進あるのみと意を決して城内に踏み込んでいく。

 登城口を過ぎてもしばらくは延々と畑の脇を歩くだけで、芥川山城のある三好山はかなり奥である。ただ距離はあるものの道は整備されているし、起伏もそう激しくないので歩くことには難儀はない。むしろ難儀なのは道よりも顔にまとわりついてくるクモの巣。こういうところでは登山用杖は下に着くよりはむしろ前で振り回してクモの巣払いの役割の方が多くなる。

  

曲輪らしき構造の隣を抜けていくことになる

 そのうちに道が山道になってくると、周辺に曲輪らしき削平地が見えるようになる。石垣などもあるのだが、当時のものか後世のものかは定かではない。

  

土橋ともろに城門らしき構造がある

 さらに進むと明からさまな土橋があり、城門らしき構造が見て取れる。そこを過ぎるといよいよ本格的に城郭内という雰囲気。

 城跡碑

 その先には小さな城跡碑があり、ここからがいよいよ城郭主要部という雰囲気。さほど険しくはない上り坂を登っていくと、「三好山へ6分」の表示が見える。

左 そこを抜けて先に進む  中央 曲輪の横を登っていく  右 山頂までの案内表示が

 先の標識から一段上がると開けた曲輪に出る。どうやら本丸はもう一段上でここはそれを取り巻く帯曲輪といったところらしい。ここからはかなり視界が開けており、それなりの高度があることも分かる。また西側には摂津峡の川があるので、こちら方面はかなり切り立っている。

表示に沿って登ると開けた曲輪(上図の3番の曲輪)に出る

 一段上の本丸には城跡碑と小さな祠がある。手入れはされているようだが、季節がらか足下は下草がやや鬱蒼としている。ここから北にも曲輪があるようなのでそこに降りてみるが、藪に行く手を遮られたので引き返す。

左 本丸の城跡碑  中央 小さな祠もある  右 本丸はかなり広い

 本丸から帯曲輪に降りると、下草をかき分けて曲輪沿いに北側に回ってみる。東側には馬出しのような構造とため池か井戸跡のように思える窪地があるのは確認したが、そこから先は先ほどの藪に行く手を阻まれて進行できない。

左 本丸東側の曲輪にある張り出し構造  中央 入口的な場所はある  右 写真では分かりにくいが窪地になっている

 以上で芥川山城の見学は終了。先ほどの飯盛山城といい、大阪にもなかなか見応えのある山城があるということを確認した次第。ちなみに帰り道で現地の人と少し立ち話をしたのだが、この芥川山城は以前はもっと荒れていたらしいが、高槻の新市長がこの城跡の史跡的価値(観光的価値もだろうと思われる)に注目して、地権者の承諾を得て道路などの整備を行ったという(だから未舗装ではあるものの山までの通路が整っていたらしい)。なかなか良い話である。たださらにぜいたくを言えば、もう少し予算をかけて現地の案内看板と登山道入口に数台分の駐車スペースを確保してもらえれば万全ではある。もっとも案内看板はともかく、駐車スペースについては住宅地だけに無関係の車が駐車する可能性があるので困難はあるかもしれないが。

 

 芥川山城の見学を終えると摂津峡に戻る。ちょうど駐車時間は2時間50分ほど。追加料金なしで車を出すことができたのである。次の目的地はいよいよ本遠征の主目的地。それにしても毎度のことながら、この美術館は駐車場料金が高すぎる。

 


「カミーユ・ピサロと印象派展」兵庫県立近代美術館で8/19まで

 

 印象派の画家であるピサロの作品を集めた展覧会。バルビゾン派などの影響を受けたピサロは第1回印象派展に参加、その後中心メンバーが次々と離脱していく中で、最年長者としてまとめ役的立場だった彼は最後まで印象派展に参加した。

 初期の頃から常に表現法の研究を続け、晩年には後期印象派のスーラなどの点描技法も取り入れるなど、非常に研究熱心な画家という印象を受ける。画法が時代とともに変遷していくのは、研究熱心さだけでなく柔軟性も持ち合わせていることを感じさせ、他の印象派メンバーがそれぞれの頑固さから四分五裂していくのとは対照的ではある。

 彼の作品からも被写体に対する誠実さのようなものが感じられ、その芸術に対する真摯な姿勢は好ましさも感じさせる。ただそれらの裏返しとして作品に強烈な個性というものが薄く、そのことが個性の固まりのような他の印象派メンバーと比べた場合の印象の薄さのようなものにつながっているきらいもないわけではない。本展でもピサロの作品と共に同時期の他の印象派の画家の作品を併せて展示してあるのだが、これらを比較するとピサロが他の画家が用いる手法でも積極的に取り入れていることがよく分かるのだが、では何がピサロに固有の特徴なのかというものが今一つハッキリとしない部分があるのである。


 これで本遠征の全予定は終了、帰途につくことにした。近場の短時間遠征であったが、城郭も展覧会もなかなかに見応えのあるもので堪能できたところである。

 

 

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