展覧会遠征 山形編
蒸し暑い日々が続くのと、関電の原発利権死守のための停電テロのせいであちこちが生ぬるい冷房を余儀なくされ、早くも夏バテ気味である。このまま本格的な夏に突入するといよいよ活動のための体力がなくなりそうな気配。やはりそうなる前に夏休みを取っておきたい。7月には海の日絡みの三連休があるが、どうせならここに年有休暇を足して夏休みにしようというところ。
目的地であるが、やはり今年の北海道・東北強化年間という年間目標から考えると、東北が妥当なところ。今までの東北遠征を考えた場合、地震の影響がまだ癒えない三陸地域を除けば一番手薄な地域が山形である。奥羽本線横手−北山形間を始め、陸羽西線・東線などの未視察路線も多々残っている。そこで今回は山形を中心に東北地区を一回りするプランを立案した次第。
ルートは新潟から羽越線で酒田まで、ここからは陸羽西線・東線、さらに東北新幹線を経由して移動、水沢江刺でレンタカーに乗り継いで、付近の城郭を攻略しつつ大曲まで移動、奥羽本線経由で帰ってくるというルートを策定した。
まずは新潟まで朝一番の飛行機で移動。新大阪で前泊すると大阪空港まで空港バスで直行である。梅雨の影響で九州を中心に豪雨の被害が出ており、その影響は近畿にまで及ぶとの予報だったので心配だったが、今朝は空模様は怪しげだが特に雨が降るという様子もなく、当然のように空港は通常営業。
大阪空港で待っているのはボンバルディア。正直、乗っていてあまり気持ちの良い飛行機ではないので避けたいところだが、ANAの新潟行き早朝便はこれしかないので仕方ない。小型のボンバルディアの中は満員。相変わらずガタンガタンと揺れながらの気持ち悪い飛行。しかしそれでも最後は無事に車輪も出て(笑)、予定通りに新潟空港に到着する。この空港に降り立つのは2度目のはずだが、もう馴染みの空港のような気がしてしまうのはなぜ?
新潟空港からは空港バスで新潟駅まで移動。ここから酒田までは以前にも乗車した観光快速きらきらうえつで移動することになる。発車時間までに余裕があるので、乗車前に朝食として駅でラーメンを食べる。それにしても以前から感じているが、新潟駅の飲食店はおいしくない。
ホームに入ると以前にも見たことがある極彩色の列車が待っている。相変わらず落ち着きのないデザインである。この列車を見ていると、きらきらうえつの「きらきら」って、いわゆるきらきらネームの「きらきら」じゃないかという気もしてくる。
きらきらうえつ
きらきらうえつは日本海沿いを北上していく。以前にも見た風景だが、今日は天候がやや悪いせいか波が高い。車窓を眺めてぼんやりしているうちに疲れが出てうとうとしてしまう。
そのうちに車内販売が回ってくるので「きらきらうえつ弁当(1050円)」を購入。以前に買ったものと内容が変わっていて、随分と普通の弁当になってしまったような印象。前よりも価格は下がっているが、その分面白味がなくなっている。
列車は3時間近くを要して酒田に到着。ここから陸羽西線で新庄を目指すのだが、1時間程度の乗り換え待ち。その間に駅前に出るが、駅前は閑散としていて昼食を摂る店もない。先ほど弁当を食べたのは正解だったとつくづく思う。とりあえず駅の隣の土産物屋で「だだっこプリン(280円)」を頂く。この地域の名産の枝豆であるだだちゃ豆を使用したやわらかプリンだが、印象としては「やけに香ばしいプリン」。枝豆が好きな者なら良いだろうが、賛否両論分かれそうな味である。
左 酒田駅 中央・右 マンホールふたにご当地色が
だだっこプリン それにしても1時間というのはあまりに中途半端な時間だった。どこかに行くには短すぎ(しかも酒田は駅からの公共交通機関が貧弱)、駅でぼんやりつぶすには長すぎる。結局は暇を持て余してかなり早めにホームに入る。陸羽西線は駅のはずれの0番ホーム発着だが列車は既に入線していた。1+2のセミクロスシートのキハ112の二両編成。陸羽西線にあわせた「奥の細道」のペイントがされている。
0番ホームに停車中の陸羽西線車両 車内には乗客は数人。快速なので、酒田を出た列車は余目まで突っ走る。余目で数人の乗客を拾うと羽越線と別れて東進する。沿線はひたすら田んぼ。
延々と続く田んぼを過ぎると沿線は急速に山岳めいてくる。しばし最上川沿いを列車は疾走。山岳部を抜けて再び田んぼに出てきたら、その田んぼの真ん中にある都市が新庄である。列車は行き止まりの2番線到着。2番線と3番線は完全にぶった切られて行き止まりになっているが、ここから南は標準軌に改軌されていて山形新幹線が発着している。
一旦新庄で駅の外に出る。とりあえずコインロッカーにトランクを放り込むと、タクシーで新庄城(最上公園)まで。
新庄城は新庄藩初代藩主の戸沢政盛が1625年に築いた城である。江戸時代になってからの城ということで平地に築かれているが、それでも往時には三層の天守に隅櫓などを備えた堂々たるものであったようである。新庄城はそのまま戸沢氏と共に幕末を迎えるが、戊辰戦争において庄内藩による攻撃を受け、城は炎に包まれて焼け落ちたという。明治になって廃城後には跡地は学校や神社になったとのこと。
左 入口 中央 戸澤神社 右 天満神社社殿 左 駐車場手前に門の石垣の名残が 中央 周囲を取り巻く土塁 右 土塁上から堀を望む 左 裏手の堀は埋め立てられている 中央 北側の堀 右 藤嵐閣 現在でも表側には堂々たる堀と土塁が残っており、当時の威容の片鱗を伝えている。かつての本丸は今では完全に神社になっている。神社の裏手はかつては堀があったと思われるが、今では完全に埋め立てられて住宅地と続いている。新庄藩は6万石とそう大きな藩ではなかったことから、比較的こじんまりとした城でもある。
左 堀端町という町名に城下町の名残が 中央・右 紙漉町にあるこの水路はかつての城下町の防衛線か 新庄城の見学を終えると、散策がてらプラプラと駅まで歩く。新庄市街は完全に現代化してしまっているが、町並みなどにどことなく往時の城下町の面影もなくはない。
新庄駅まで戻ってくると、今度は陸羽東線で今日の宿泊予定地の鳴子温泉まで移動する。列車は陸羽西線と全く同じタイプのキハ112の二両編成。出発時点での乗客はそう多くない。
沿線はすぐに山間部に突入すると、そのまま延々と山間を進むことになる。途中で何度も川を横断するので沿線の風景がコロコロと変わって意外とおもしろい。またやたらに○○温泉駅が目立つ。瀬見温泉、赤倉温泉、中山平温泉、鳴子温泉、川渡温泉。どうやらこの沿線は温泉だらけのようである。このことからJRは陸羽東線に奥の細道湯けむりラインという愛称をつけて売り込んでいる。ただここまでの乗客はそう多くはない。
沿線風景 ようやく鳴子温泉駅に到着。いかにも温泉地の駅と言う雰囲気があるが、何よりも駅に降りた途端に硫黄の匂いがしてくるのがここが温泉地であることを如実に伝えている。ここで小牛田行きの普通列車と接続しているので、仙台方面に向かう乗客は乗り換えだが、その数はあまり多くはなく、大抵はここで下車のようである。
鳴子温泉駅と謎のキャラクター(かわいいと言うよりもキモイ) 温泉街を散策がてらプラプラ歩きながらホテルを目指す。宿泊予定のホテルは扇屋。鳴子温泉は古いタイプの温泉街らしく、例によって一人で宿泊できるホテルの選択には難儀した。この辺りは全国の温泉ホテルの意識改革を願いたいところである。
5分ほどでホテルに到着。外観はややくたびれた感じがあるが、内部は綺麗なようである。とりあえずチェックインを済ませると、すぐに屋上の貸切露天風呂へと向かう。鳴子温泉は様々な泉質の湯が湧くことで知られているが、このホテルの源泉はナトリウム−塩化物アルカリ泉でpH8.9というかなりアルカリ性が強いお湯。当然ながら掛け流しで、塩素やそういう馬鹿なものは使っていない。お湯が肌にしっとりと馴染んでなかなかに快適である。正直、適当に選んだホテルでここまでのお湯にありつけるとは期待していなかった。さすがに鳴子温泉の名前は伊達ではなかったようである。この湯で新庄の散策で疲れた身体をじっくりと癒す。
温泉からあがるとテレビを見てボンヤリ。そのうちに夕食の時間になるので食堂へ。用意されているのは私ともう1グループ分のみ。もしかして今日の宿泊客はこれだけか。これは貸切露天風呂をいくらでも堪能できそうである。
夕食はなかなかうまい。夕食を堪能すると再び貸切露天風呂へ。入浴後はテレビでマッタリ。温泉ホテルで困るのはお一人様宿泊不可のところが多いのが第一だが、次はネット接続ができるところが少ないこと。残念ながらここもそうである。まあそもそも時計も置いてないぐらいなので、浮き世から離れてゆっくりと骨休めをして欲しいという意味だろう。ただ生憎と私はまだまだそこまで枯れていないので、どうしてもこういうところでまで浮き世の細々を引きずってしまうのだが。
そのうちにテレビでトトロが始まったのでそれを見る。この映画は既に20回以上見ているはずなのだが、やはり何回見ても心底感動する。やはり人間の隣で森が生きているというメッセージが素晴らしいのだろう。このような「森の中に友好的な精霊が住んでいる」というイメージはいかにも日本的らしく、ヨーロッパの「黒い森」ではこういうイメージにはならないらしい(精霊ではなくてモンスターになってしまう)。この辺りは日本人と森との関わりの形を端的に示している。またサツキやメイを初めとするいかにも子供らしい子供たちにも心洗われる。大津の陰惨すぎるイジメ事件などを見ていると、いつから子供がこんなにおかしくなったんだろうと悲しくなる。やはり人間が自然と切り離されてしまったことにも一因はあるような気はする。
トトロが終わると今度は内風呂の方に入浴、体が温まったところで就寝する。
☆☆☆☆☆
翌朝は6時に起床。生憎と小雨がパラツいているようであるが、その小雨の中を露天風呂で朝風呂。7時半に朝食を摂ると、バタバタと8時前にチェックアウトする。やっぱり本来は温泉旅館ではもっとゆっくりした朝にするべきだなと反省することしきり。しかし今日は予定が目白押しなので致し方ない。
鳴子温泉駅から小牛田行きの普通に乗車すると、これで古川まで移動。沿線は前日とほぼ同じ雰囲気。山間から平地に抜けてくるとまもなく古川に到着。小牛田−古川間は以前に調査済みなので、これで陸羽東線視察完了。古川からは東北新幹線に乗り換えて水沢江刺を目指す。
古川駅で新幹線に乗り換え
水沢江刺は正直なところ「なんでここに新幹線の駅が?」というような場所(まあそれでもくりこま高原よりはマシだが)。とりあえずここで駅レンタカーを予約しある。貸し出された車はマツダのデミオ。てっきりマーチだろうと思っていたのだが、これは初めての車である。マツダが誇る超低燃費車の実力はいかに。運転は比較的しやすい車であるが、やはり日頃乗っている1500ccのノートに比較すると、登り坂などで若干のパワー不足を感じる。
最初の目的地は「岩谷堂城」。しかしここにたどり着くのに苦労する。というのもデミオに搭載してあったカーナビの初期設定が進行方向が画面の上になっている上に、3D表示という超絶的に見にくい設定になっていたからである。特に地図の上が北に固定されていないのは最悪。自分がどこにいてどこに向かっているのかがさっぱり分からない。なぜこんな大馬鹿な初期設定になっているのやら。そう言えばまともに地図を読めない奴に限って地図をクルクル回すということを聞いたことがある。そしてそんな馬鹿なことをするから余計に地図が読めなくなるのだとか。とりあえずこのお馬鹿な初期設定を、見下ろし型の2D表示の画面固定という当たり前の設定に直す方法を見つけるのに四苦八苦する羽目に。
さんざん苦労したあげくに到着した岩谷堂城は私が想像していたよりも遙かに高い山上にあった。中世の山城にありがちな地形に頼って防御するというパターンのようだ。なお現在は中心部分は歴史公園として整備されているが、曲輪の一部はグラウンドなどになっているようだ。そこで何か行事が行われていたらしく、狭い道路が路駐で塞がっていて通過するのに苦労する羽目に。ようやく見つけた公園駐車場に車を止める。
左 岩谷堂本丸入口 中央 虎口 右 土塁がある 左 本丸はあじさい園になっている 中央 二清院 右 館山八幡神社 この地は御館山と呼ばれており、古来よりこの地方を支配するための要地として館などが置かれてきたという。平安時代には藤原経清と息子の清衡の住居が置かれたが、後に清衡は本拠地を平泉に移す。奥州藤原氏滅亡後は源氏の重臣の葛西氏の所領となり、配下の江刺氏が入城する。しかし江刺氏は秀吉の奥州仕置きで改易、近世になって伊達領の北方の守りとして伊達家臣の岩城氏の居城となって幕末に至ったとのこと。
本丸跡にはお堂が建っている。二清院と館山八幡神社とのこと。またここはあじさい公園となっていて、私の訪問時にはあじさいが綺麗に咲いていた。また本丸周囲には土塁らしきものも存在している。
本丸と中の郭の間の堀切
ここから一段降りたところが中の郭らしいが、この周辺には明らかに堀の跡が残っている。ここには展望台があるが、回りが鬱蒼としているので生憎と眺めは良くない。なおこの中の郭の向こうが二の郭跡だが、今では学校のグランドになってしまっている。
中の郭 岩谷堂城の見学を終えると次の目的地へと向かうことにする。しかしそれにしても暑い。天候は曇っているので直射日光は照りつけないのだが、ムシッとしてまとわりつくような暑さ。熱中症の危険を感じるような暑さである。とりあえず意識的に水分を摂るように注意する。
次の目的地は「胆沢城」。平安時代に征夷大将軍の坂上田村麻呂が北方を治める拠点として築いた城柵である。まずはこの地に築かれている奥州市埋蔵文化財センターを訪問して、胆沢城に関する情報を入手する。
奥州市埋蔵文化財センター
どうやら胆沢城は軍事的拠点と言うよりも多賀城のような政庁としての要素の方が強かったようである。そもそも胆沢の地には多くの蝦夷が居住していたのだが、朝廷はこれを征服しようと紀古佐美率いる大軍を送り込んだ。当時の蝦夷のリーダーであったアテルイは三軍に分かれて渡河を試みた朝廷軍に対し、その前軍の渡河を阻止した上で中軍と後軍は偽りの敗走でおびき寄せ、三方に伏せた軍勢で包囲してこれらの軍勢を川に追い落として完膚無きまでに敗走させたらしい。しかしその後、今度は坂上田村麻呂がさらなる大軍を率いて胆沢の地に侵攻、アテルイは一度は撃退に成功するものの蝦夷側も甚大な被害を出し、坂上田村麻呂の呼びかけに答えて降伏したらしい。坂上田村麻呂はアテルイを蝦夷統治に利用するつもりだったのだが、現場の状況なんか全く知らないで無駄にプライドだけが高い中央貴族はそれを認めず、アテルイは処刑されてしまったのだとか。なお朝廷側の記録しか残っていないため蝦夷側の立場は今となっては分からないらしいが、この記録を見ただけでも明からさまに朝廷側の方が極悪人である。
センター内にあった胆沢城復元模型
埋蔵文化財センターを見学した後は歩いて現地を見学に行く。しかし畑の中に発掘中の門の跡などが残っているだけであり、城跡見学ではなくて明らかに遺跡見学である。まだ発掘中のようであるので、多賀城などのような整備がまだされていないので、考古学の素人としてはあまり見るところはない。
左 現地は発掘中 中央 看板はあれど何もなし 右 こんなものが建っていたらしい 胆沢城跡 胆沢城の見学を終えるとさらに北上して金ケ崎を訪ねることにする。金ケ崎はかつて金ケ崎城の城下町として繁栄した地で、当時の面影をとどめた町並みは重要伝統的建造物保存地区に指定されている。とりあえずまちなみ交流館に車を停めると、マップを入手して徒歩で散策することにする。
まちなみ交流館
最初に訪ねたのは旧大沼家侍住宅。鬱蒼とした中に藁葺きの趣のある三軒家が並んでいる。主屋、馬屋、厠が並ぶこの形式は三つ屋形式と言って典型的なこの地域の建物の形態らしい。
旧大沼家住宅
次は「金ケ崎城」跡を訪ねるが、金ケ崎城は本丸部分などが北上川の流れに削られて往時とかなり様子が変わってしまっているという。実際、旧本丸部分は普通の住宅地になってしまっているので入れず、旧二の丸部分もただ単に広場があるだけ。わずかに水路に降りていく部分が城郭っぽいと言える程度のものであった。
左 二の丸跡と言ってもただの原っぱ 中央・右 この水路周辺がまだ一番城っぽい 後は往時の面影をとどめる住宅をプラプラと見学。ただし大抵の住宅は未だに居住者がいるので表から眺めるだけである。中には旧坂本家のように今は店になっているようなところもある。私もここでゆべしとアイスティーのセットを頂いて一息つく。
旧坂本家 アイスティとゆべしで一服
一息つくとさらに散策を続行。町並み保存地区を一回りしてから車のところに帰ってくる。金ケ崎はどこか懐かしい想いを抱かせる町並みであった。見学所要時間は1時間程度といったところか(私は旧坂本家で休憩を取ったので1時間以上を要している)。
次の目的地はやや遠い。花巻東方の土沢である。ここにある萬鐵五郎記念美術館とその背後にある土沢城が目的地。東北自動車道を突っ走るが、驚くのは走行車両の速度。とんでもないスピードで私の車をぶち抜いていく車が多い。通行車両があまり多くないせいか、とにかく走行スピードがかなり速い。花巻で建設途上の釜石自動車道に乗り換えると、終点の東和まで。土沢はここで降りるとすぐである。目的の美術館は山麓の狭い道の奥に位置している。
萬鐵五郎記念美術館
萬鐵五郎記念美術館では現代版画展を開催中。しかし元々版画は私の趣味の範疇からややずれるのと、作品が現代アート系だったせいで私が心惹かれる作品はなし。また萬鐵五郎の作品については意外と点数が少なかったという印象でやや消化不良。
美術館の見学を終えると「土沢城」の見学に向かう。土沢城は近世に南部氏が伊達氏に対する備えとして築城、江刺氏がこの城を守ったという。この頃、伊達氏が旧葛西氏の残党による一揆をけしかけていたので、それに対する牽制として葛西氏の重臣だった江刺氏を起用したらしい。
左 大手門跡 中央 堀切跡 右 大手門跡を登ったところの曲輪 現在は公園として整備されている。大して遺構は残っていないのではないかと思っていたのだが、現地に行ってみると案に反して城の形がかなりそのまま残っている。大手門跡のところに案内看板があるが、堀跡もハッキリと残っており、その痕跡と思われる池も存在している。
左 本丸は奥にある 中央 大手道を登る 右 本丸虎口 大手門跡を登って稲荷のある曲輪を過ぎると、その奥には本丸に続く登り口がある。虎口らしき構造を抜けて本丸に到達すると、そこはかなり広い削平地。西側には中館跡、東側には御本館跡の標識が立っている。
本丸風景 御本館跡の東側はかなり切り立っており、南側を見ると一段低いところに東館跡の標識が立った曲輪が見られる。中館跡の西には一段低い西館跡の曲輪があり、その西側は先ほどの堀である。
左・中央 御本館跡 右 東館跡を見下ろす 左 中館跡の奥に一段低い西館跡が 中央 西館跡 右 西館跡の西側の堀 実のところは大して期待していなかった城郭だが、予想外に見所のある城郭であった。やはりあちこちを視察していると常にこういう想定外のことが起こる。だから泥沼に入ってしまうのだが。
これで岩手での予定は終了。今日の宿泊予定は横手。レンタカーは大曲で返却する予定である。こんなややこしいことをするのは、一重に横手に駅レンタカー事務所がないから。横手は北上線と奥羽本線が合流するターミナルであるにも関わらず、新幹線の駅がないせいか駅レンタカー事務所がないのである。
釜石道をとって返すと今度は東北道から秋田道へと乗り継ぐ。秋田道は山間を抜ける対面二車線のなんちゃって高速。おかげで一台低速車がいるだけでつかえてしまう始末。結局は予定よりもやや時間を要してようやく横手に到着する。
横手で秋田道を降りると一般道を北上する。返却予定時間までにまだ若干の余裕があるので、大曲に到着する前に一カ所立ち寄っておくことにする。目的地は金沢柵。
「金沢柵」は建造時期については明らかではないが、平安時代には清原氏の居城であった城郭である。清原氏の内紛から発生した後三年の役ではここが戦の舞台となっており、清原家衝がここに籠もって戦っている。難攻不落の堅城のために攻めあぐねた攻め手の源義家・清原清衡は、兵糧攻めに切り替えてようやく落城させている。この戦いの結果、清原氏の旧領すべてを手にした清衡は実父の藤原姓に戻して、これが奥州藤原氏の礎となっていく。
左 険しい山道を登っていく 右 二の丸への登り口 難攻不落と言われただけあって、金沢柵があるのはかなりの高い山の上。そこまでは車で登ることが出来るが、急角度の山道を非力なデミオはヒーヒー言いながら登っていく印象。城の縄張りは金沢八幡宮がある二の丸跡を中心に放射状に広がっている形態。金沢八幡宮の下に駐車場があるのでそこに車を停めて見学をする。
駐車場から二の丸にはかなり急な階段を登る必要がある。二の丸から東にやや降りたところが兵糧庫跡であって、さらに北側には北の丸跡が見えている。
左 二の丸跡の神社 中央 神社の裏手は一段低い 右 ここが兵糧庫跡 左 兵糧庫跡の北側奥に北の丸 中央 東南側には本丸が奥に見える 右 本丸登り口 兵糧庫の東側の一段高い部分が本丸跡。ここは結構な広さがあるので屋敷なども建てられただろう。また周囲はかなり切り立った崖で堅固そのものである。
本丸跡 駐車場の南側には長大な曲輪が続き、その先端には堀切を切った先に西の丸跡がある。この部分だけでもかなりの兵力を置いておくことは出来たと思われる。
左 西の丸へと続く入口 中央 かなり奥深い 右 かなりの高度がある 左 堀切の先に西の丸が 中央 西の丸も広い 右 先は切り立った崖 とにかく極めて実戦的かつ堅固な山城であった。また構造的に平安時代の城郭とはそぐわないように感じられる部分もあり、中世にも城郭として用いられたことが分かっていることから、後にさらに手を加えられた部分も多々あるのではないかと思われる。
大曲駅
大分日が西に傾いてきてこれでタイムアップである。このまま大曲まで直行するとレンタカーを返却、列車で横手まで移動する。今日宿泊するのはホテルプラザアネックス横手。横手駅前のホテルである。
ホテルにチェックインするとまずは夕食。夕食後にはホテルの展望大浴場で入浴。大浴場はナトリウム−塩化物泉の温泉である。今日は金ケ崎ウォークが響いて1万7千歩も歩いている。かなり足に疲労が溜まっているのでその疲労を温泉でじっくりと抜く。
温泉でサッパリした後は部屋に戻ってテレビを見ながらボンヤリ。しかしすぐに疲れがつのってくるのでやや早めに床につく。
☆☆☆☆☆
前日の金ケ崎ウォークが堪えたのか、翌朝は7時まで爆睡してしまった。目覚ましで起こされるとまずは朝食へ。朝食は可もなく不可もなくの内容。朝食を終えると別棟の温泉施設に朝風呂。こちらは日帰り入浴施設らしく設備が充実している。湯は昨日と同じナトリウムー塩化物泉。しっとりとしたなかなか良い湯である。
今朝乗る列車は9時半頃の便なので、9時過ぎまでホテルでテレビを見ながらマッタリする。やはり朝はこれぐらい余裕をもたないとダメだなと昨日の慌ただしい出発を反省。
テレビをつけたらスマイルプリキュアが大詰めの模様。プリキュア達が敵の本拠に乗り込んで幹部連中とタイマン勝負をしている。プリキュアは5人で幹部は4人だから、お約束の「ここは私たちがくい止めるから、あなたは先に行って!」パターン。ドラマとしては、4人が幹部と相打ちになって最後の一人が大ボスに挑むという展開があり得るのだが、このパターンはセーラームーン無印での大騒ぎ以来御法度になっているので、苦戦するものの根性で撃破というご都合主義展開になっている。幹部を倒されたところで敵の大ボス・闇の皇帝ピエーロが巨神兵さながらに甦るのだが、こいつが一度はプリキュア達を吹き飛ばすものの、これまたご都合主義的に突然パワーアップしたプリキュア達の玩具メーカーとの提携二段変身の前にたった一撃であっさりと消滅。勿体ぶって登場した割には、巨神兵なみの呆気ない最期である。思わず「なぎ払え!どうした化け物、それでも世界をバッドエンドに染めようという闇の皇帝か!」とクシャナ殿下のように叫びそうになった。どうもオリンピックまでに話に一段落つけたいという大人の事情が垣間見えたバタバタした展開である。まあ正直なところ20年ぶりに「青い人」に萌えかかっていたから(氷の剣で戦う姿が凛々しくも美しかった)、そういうオタクなオッサンを正気に戻すという意味ではこれで良かったのかもしれないが・・・。
ホテルをチェックアウトすると雨の中を横手駅まで移動。こういう時に駅前のホテルは助かる。横手駅から新庄行きの二両編成の普通車で移動。ロングシートの車内は結構乗客がいる。
沿線風景
沿線はしばらくは横手から続く田んぼと果樹園。この辺りは沿線にも民家は結構多い。やがて及位(のぞき)辺りから山岳地帯に突入すると共に沿線の人口密度は低下する。次に平地に出てくるとまもなく新庄である。
新庄で山形新幹線に乗り換え
新庄からは山形新幹線に乗り換え。新庄始発の新幹線の自由席はまだまだ空席が多い。新幹線は新庄を過ぎるとすぐに山間地に入るが、それを抜けると田んぼや果物畑の中を突っ走ることになる。各停車駅ごとに自由席には大量の乗客が乗り込んできて、天童の手前で既にほぼ満席。なるほど山形からでは自由席には座れないわけである。その状況を横目で見ながら私は天童で下車する。
左 沿線風景 右 天童駅 駅ではいきなり王将が目に付く。と言っても何も餃子ではなく、そのまま将棋の駒である。天童は日本全国の将棋の駒の9割以上を製造していると言われており、桜の季節には舞鶴公園で人間将棋が催されることで知られる将棋の町である。もっとも私が天童で下車したのは将棋は関係なく、この地域にある天童城と美術館を訪問するためである。
天童ではとかくこのような将棋の駒が目立つ
ロッカーにトランクを預けると、まずは天童城に向かうことにする。天童城は件の人間将棋が開催される舞鶴公園がある山上にある。市街地の奥を見ると小高い山が見える。これを登るのは楽ではなさそうだ。行きはタクシーを使用することを瞬時に決断、すぐに駅前でタクシーを拾う。
舞鶴公園までは結構登ることになる。舞鶴公園の手前に愛宕神社に向かう入口があるのでその前でタクシーを下車。愛宕神社があるのがかつての主郭跡だとのことなので、この道をひたすら登る。
愛宕神社参道口
しかしこれが結構難儀な道。意外と急傾斜にもかかわらず、あまり手が入っていない上に人が通った様子もあまりない。途中で曲輪跡と思われる削平地をいくつか見かけたが、完全に薮化してしまっているので詳細を確認できない。とりあえずひたすら先に進むことにする。
左 とにかく難儀な道 中央 所々曲輪らしき構造もあるが・・・ 右 かなりの高くまで登ってきた ヘトヘトになった頃にようやく広い削平地に出る。奥には社が見える。どうやらここが主郭跡のようである。社の手前には一段高い土盛があるが、どうやらこれが櫓台跡だとか。
天童城主郭跡 天童城はかつてこの地に勢力を張った天童氏の居城である。往時にはこの山全体が城郭として整備されており、この辺りで最大規模の山城だったという。しかし最上義光に攻められて落城、後に廃城となったようである。
左 ここが櫓台とか 中央 愛宕神社社殿 右 社殿の手前にかなり急な階段が 愛宕神社の社の手前には急な階段があり、こちらが本来の参道のようである。ここを降りると山麓をグルリと廻る道路に出る。この周辺には帯曲輪が取り巻いているようである。また天童神社にも道がつながっている。天童神社があるのはちょうど出曲輪のようになっている場所で、ここは籠城の際には戦闘の最前線になったであろうと考えられる。
左 階段を降りてくる 中央 天童神社への道 右 天童神社 主郭を回り込むように道路を進んでいく。轍の跡があることから、どうやら神社関係の車などがここを通ることがあるように思われる。ただ道幅がかなり狭いので軽自動車でないとしんどいだろう。また入口のところには一般車が入り込まないように車止めもあったはずだ。道の脇には曲輪らしき構造も見えるのだが、先はあまりに鬱蒼としているのでとても入って行けそうにない。
左 主郭周囲の帯曲輪 中央 井戸跡 右 帯曲輪 左 先に曲輪が続くようだが 右 鬱蒼としてとても進めない 道は最終的には最初にタクシーを下車したところに出てくる。そこでかつての中央郭であったという舞鶴公園の方を見学することにする。舞鶴公園には人間将棋用の巨大な将棋盤があり、その奥はひな壇的に高い部分がある。ここもそもそもはかつての曲輪跡のようなのだが、公園化で手が入りすぎていて往時の遺構は全く分からない。かなりの規模の城郭であることは分かるのだが、城郭として整備されていないのでその威容が今一つつかめないところが残念ではあった。
左 舞鶴公園 中央 人間将棋盤 右 王将の噴水 左 噴水奥に曲輪の痕跡? 中央・右 巨大な木が生えている ここからは天童市街を一望 この頃になってくると、それまでどうにかこうにか保っていた天候が崩れ、時折雨がぱらつくようになってくる。その中を傘を差しながら下山する。そこから徒歩で出羽桜美術館を目指す。出羽桜美術館は地元の酒造メーカー出羽桜が所蔵するコレクションを展示した美術館である。
左 出羽桜美術館外観 中央・右 展示室 左 酒器のコレクション 中央 倉も展示室になっている 右 倉の内部 展示品は李朝の陶器など。またいかにも酒造メーカーらしいところとしては酒器のコレクションが大量に。別館は「斎藤真一心の美術館」として彼の独特の作品を展示。瞽女(盲目の女性旅芸人のこと)を題材に描いた彼の作品はグロテスクの一歩手前の表現であり、好き嫌いはともかくとして強烈なインパクトがある。
斎藤真一心の美術館
出羽桜美術館の見学を終えると次は天童市美術館に向かうが、さすがに歩いて行くには距離がありすぎるのでタクシーを呼ぶことにする。
天童市美術館ではちょうど金山平三の展覧会を実施中。彼の絵は私は兵庫県立美術館で何度も目にしているが、なぜか今一つ相性が悪いというか心に響かない。常設展示は今野忠一・熊谷守一で、熊谷守一のサクッとした絵はともかくとして、今野忠一の雄大な風景画はそれなりに面白かった。
天童市美術館
天童市美術館の見学を終えると市街をプラプラと駅に向かって歩く。その途中で広重美術館があるので立ち寄る。
天童市街
広重美術館の展示品は版画作品が中心。作品の状態は良い方であるように思われたが、特別に珍しいものもなかったような気がする。
広重美術館
これで天童での予定は完全終了。このまま駅に向かってプラプラと歩く。天童駅には20分弱で到着する。
この山上が先ほどの天童城
天童からは普通列車で北山形まで移動。これで奥羽本線の視察も終了である。ここで左沢線に乗り換えて寒河江を目指す。
左沢線に乗車するのは久しぶりである。到着したのは4両編成のキハ101。元来は単両ワンマン運行で使用されるこの車両が4両も連結されているのは一種異様な光景。ただ乗車率もかなり高く、ロングシートは8割程度埋まっている。
北山形を出た列車は田んぼの中を疾走、まもなく寒河江に到着する。寒河江ではかなりの乗客が下車。以前に乗車した時もこの路線は寒河江−山形を結ぶ路線という印象が強かったことを思い出す。
寒河江駅
寒河江での宿泊ホテルはサンチェリー。温泉旅館にビジネスホテルを隣接させた造りのホテルである。チェックインを済ませるととりあえず外出する。
まずは目指すは寒河江市美術館。美術館はフローラSAGAEという商業施設や公共施設が入居したビルの中にある。なおこのビル、どう見ても形態が百貨店なのであるが、どうやら元は十字屋だったのが撤退したらしい。現在この施設は「中心市街地活性センター」との名称がついているのだが、皮肉なことにこの施設自体が寂れまくっていて寒河江の厳しい現実を象徴してしまっている。
美術館は最近になって設立されたものらしく、入場料は無料と太っ腹。駅前にも何やらモニュメントがいくつかあったが、寒河江では芸術による町興しも志向しているようである。方向としては間違っていないが、寒河江に限らず日本の各地方都市で起こっている深刻な過疎化に対抗するにはそれだけではしんどいところ。
寒河江市美術館の展示品は地元ゆかりの作家の作品ということで、日本画の郷間正観の作品が中心。彼の作品については非常に精緻で美しい絵画であるが、そこを突き抜けるものが今一つ弱いという感も受けないでもない。
駅に展示してあった郷間正観氏の作品
美術館を見学した後は「寒河江城」跡を視察することにする。寒河江城は古く源頼朝の奥州藤原氏攻めの後、幕府重臣の大江広元の嫡男の親広がここに城を築いたという。その後、その末裔が寒河江氏を名乗って代々この地を支配した。しかし中世になって最上義光の侵攻を受けて敗北、寒河江氏嫡流はこの時に滅亡、寒河江氏の傍流が最上配下でこの地を支配したが、最上氏が改易になった後に廃城となったという。
小学校の脇に城跡碑が残るのみ
市街地の中心の城で、廃城になった時期が早かったということもあるのか、現在では遺構はほとんど残っていない。かつての本丸は今では小学校の敷地になっているが、その脇に寒河江城跡を示す石碑がひっそりと建っているだけである。ただそれでも現在の町並みに当時の城縄張りの片鱗がいくらか残っているようには感じられる。
寒河江城の調査の後はコンビニで夜食を仕入れてからホテルに帰還する。ホテルに戻ると早速大浴場に入浴に。このホテルでは隣接している旅館の大浴場が使用できる。大浴場はナトリウム−塩化物炭酸塩泉の温泉大浴場。肌当たりの優しい非常に素晴らしいお湯で、広々とした露天風呂でゆったりと楽しむ。うーん、山形は実に良い温泉が多くあるところである。いいところだなという言葉が自然に出る。
夕食はホテル内のレストランで。よくよく考えると昨日も今日もまともに昼食を摂る時間がなく、走り回りながらコンビニのおむすびを放り込んだだけだった。今日も腹が減っているので夕食を堪能。夕食は居酒屋メニューであるが、適度に地元色の入ったなかなかのもの。芋煮などが特にうまいが、全品文句ないものであった。山形はなかなかにうまいものもあるようだ。やっぱりいいところだなという言葉が自然に出る。
夕食を堪能 夕食を終えて部屋に戻ってくると、テレビを見ながらボンヤリ。そのうちに「平清盛」が始まる。清盛の描き方が甘々なのがこの作品の特徴だが、源義朝を完全に「友」と描いているのが唖然。今回に至ってはサブタイトルが「友の子、友の妻」で、清盛自身が源義朝のことを「友よ」と呼んでいたのには、思わずテレビの前で「オイオイ」。殺し合いした挙句に「友よ・・・」っていつからこの作品は北斗の拳になったんだ? やはりこれは「強敵」と書いて「とも」と読むというパターンか。まあそれでもあの大馬鹿ドラマ「コメディお江でござる」よりは随分とまともな時代劇なんだが。
しばしマッタリしてからもう一度入浴に行くと、さっぱりしたところで就寝とする。
☆☆☆☆☆
翌朝は6時の目覚ましでたたき起こされる。金ケ崎1万7千歩ウォークに次いで、昨日は天童1万8千歩ウォーク、もう体力が限界に近づいているのか昨晩はかなり爆睡した模様である。とりあえず手早く身支度するとまずは朝風呂。なんか今回の遠征は温泉入り倒しである。
入浴を終えると本館の大広間で朝食バイキング。これがまたうまい。朝から頂くずんだのうまいこと。ここのホテルは大当たりである。
さて今日の予定だが、東京経由で帰還する前に山寺の後藤美術館に立ち寄る予定。ここも今まで宿題として残っていた施設だ。8時にホテルをチェックアウトすると満員の二両編成列車で北山形駅へ。ここで仙山線へと乗り換える。到着した列車も満員。列車は田んぼを抜けて山岳地帯に突入、しばし進んだところが山寺駅で、ここで大量の観光客が下車する。
山寺駅
ホームに降りた途端に目の前にそそり立つ岩肌とそこに築かれた寺院に目を奪われる。これが山寺らしい。そこらの山城も裸足で逃げ出しそうな堅固さである。一番頂上の奥の院まで行くと往復で2時間かかるとか。非常に心惹かれるが、残念ながら今日はそれだけの時間的余裕も体力的余裕も全くない。これは今後の宿題とすることにしておく。
駅前から後藤美術館を目指すのだが、ここで私は大きな間違いを犯していたことに気づく。私は地図で見て後藤美術館は山寺駅の裏手のすぐのところと認識していたのだが、これが典型的な二次元地図トラップであった。実際に後藤美術館にアクセスするには駅の反対側にグルリと回り込む必要がある上に、標高差もかなりあったのである。しかも今日は気温35度を超えるという灼熱地獄(熱中症注意の警報が出ている)。目的地に到着するまでにはかなり消耗し、ようやく美術館にたどり着いたときには息も絶え絶えだったのである。
後藤美術館の展示品はバルビゾン派の絵画とガレのガラス作品など。絵画についてはトロワイヨンの牛の絵など私の好きなところや、クールベの海の絵などの有名どころもあるが、全体的には知名度はそれほどではない画家の作品も多い。ただ一見して美しい絵が多いのでそれで楽しめる。
後藤美術館
美術館の見学を終えたところで近くの土産物屋に入り、土産物を買い求めると共に宇治金時ドーピング。これでようやく人心地つく。
生き返ったところで向かいの芭蕉記念館に入館。ここでは芭蕉の奥の細道にちなんだ映像番組を放送中。これによると、芭蕉の奥の細道はいわゆる紀行ルポものではなく、芸術作品としてかなりの創作(今のテレビ用語で言うと「演出」か)が混ざっているらしい。
芭蕉記念館の見学を終えたところで駅まで戻る。それにしても暑い。少し動いただけで頭の天辺から汗まみれになる。適切な水分補給を怠ったら即命にかかわりそうだ。それにとにかくここ数日の酷使で足が完全に終わっている。足の裏は痛いし、何やらふくらはぎがつっている感じがあるし、下手に走ったりしたらアキレス腱が飛びそうでもある。とにかくなるべく足に負担をかけないように注意して駅まで歩く。
山寺から仙山線で山形まで戻ると、ここからは山形新幹線で上野までである。本来は仙台空港から飛行機で帰りたいところだが、三連休の最終日に当たる今日は旅割などの安売り航空券の設定がなく、とても高い航空運賃を出せないので、それならいっそ新幹線で東京に立ち寄ってから帰ろうと考えた次第。それにしても山形新幹線は混雑することで有名だが、私が乗車したのも正午付近の便であるにもかかわらず全席満席だとか。乗客を満載した新幹線は例によって山間部をトロトロと走る。車内ではする事もないので、とりあえずは昼食として米沢牛弁当を購入する。
弁当を食べ終わった頃に福島駅に到着。やまびこ号に連結が行われると、満員のつばさの自由席からガラガラのやまびこの自由席に乗客が大移動する福島ダッシュが始まる。つばさの自由席がわざわざ一番後ろに設定されているのは、JRが山形県民の健康を考えて運動を行えるようにとの配慮であるとの噂もある。
やまびこと連結した新幹線はようやく本来の新幹線らしい速度で突っ走ることになる。相変わらず東北新幹線の走りは東海道新幹線に比べてかなりワイルドな印象がある。ただそれは良いとしても、山形新幹線の車内はとにかく狭苦しい印象があり、今一つくつろぐという状況にはなれない。
疲れが出てウトウトしているうちにようやく上野に到着する。とりあえず上野駅で全荷物をロッカーに放り込むと、チケット売場でチケットを購入。まずは東京都美術館へと向かう。
東京都美術館は入口に既に行列。やはりフェルメールはかなりのキラーコンテンツのようである。30分待ちとのこと。しかし用意してある案内看板等を見ると、これよりもずっと長い行列ができたこともあるようだ。とりあえず行列に並ぶ。熱中症の警報が出ている中での行列に主催者側も注意しているようで、冷房が生ぬるいホールでは大型扇風機を回しているし、途中には給水施設まで用意していた。行列に参加してから入場できたのはきっかり30分後だった。
正直なところ展覧会のコンディションとしては最悪だった。作品は数メートルの後ろから人の頭越しに鑑賞するしか仕方なく、絵の細部を見られる状態ではない。しかも「真珠の耳飾りの少女」に至っては、間近に見るには会場内でさらに行列ができており、並ぶのが嫌なら遠目にチラッと見るだけにならざるをえない状況。彼女と出会うのは大阪以来だが、遠くから「お久しぶり」と挨拶するのがやっと。やはり美女とはもっと近くで会話をしないと・・・。
なお東京都美術館は改装のためにしばし休館していたのだが、改装の結果エスカレータが設置されていた。以前は途中で階段やエレベータなどで会場がつながっていたので、とにかく動線が悪いことが気になっていたが、それはかなり改善されたことになる。ただその代わりに問題が一点。エレベータでの移動になったために会場内が一方通行になってしまったのである。確かに大量の観客を捌くにはこの方式が良いが、私に限らず展覧会慣れした観客は、最初にザッと一回りしてから、後で気になった作品のところに戻るということを良くするのだが、それができなくなってしまったのである。おかげで今回は私も30分待ちの20分鑑賞という状態で、何やらサッサと追い出されてしまったという感が強い。
何やら消化不良感は残るが、とりあえず次の目的地へ向かうことにする。この展覧会についてはいずれ神戸でリターンマッチした方が良いようである。とりあえず次は国立西洋美術館である。
「ベルリン国立美術館展 学べるヨーロッパ美術の400年」国立西洋美術館で9/17まで
ベルリン国立美術館が所蔵する作品から、宗教改革前後から18世紀のロココ様式やロマン主義に至るヨーロッパ近代美術の歴史に沿った作品を展示している。
展示品は絵画類よりも彫刻類の方が多いという印象。また日本で一般的に行われるヨーロッパ絵画展の場合は18世紀以降がメインになる場合が多いのだが、本展はその前の時代で終わっているというのが最大の特徴。そのために全体的に日本における知名度の低い芸術家の作品が多く、一番のビッグネームがフェルメール、後はレンブラントぐらいである。そのためにどうも地味な展覧会という印象が強く、これが東京都美術館の「マウリッツハイス美術館展」よりも観客がかなり少なかった原因か。
個人的には17世紀のスペイン絵画や例によって理屈っぽいオランダ絵画など、それなりに楽しめる作品も多々あったのであるが、テーマが散漫な印象を受けたため、終わってみると強烈に印象に残った作品も特になかったというのが本音だったりする。
こちらは東京都美術館と違って入場待ちもなく、内部の混雑も普通で問題なく鑑賞できた。実はこちらにもフェルメール作品があるのだが(向こうが「真珠の耳飾りの少女」に対して、こっちは「真珠の首飾りの少女」)、やはり一般的知名度と宣伝の差であろうか。
これで東京での予定はとりあえず終了。それにしても灼熱地獄で体力を削られている。結局は上野駅の文化亭で抹茶小豆で一息。そのまま夕食も併せて摂ることにしたのであった。
この後は新幹線で帰途に。しかしやはり山形から新幹線で帰ってくるというのは無茶だった。通算で6時間を超える新幹線乗車はそれだけで体に無茶苦茶な負担となり、帰ってから夏バテを促進させることとなってしまったのである。
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