展覧会遠征 長崎編2

 

 さて世間では夏休みも終わり、今頃は宿題に追われている学童も多かろうと思われる(情けないことに、私も未だに「うおっ、明日から新学期なのに宿題が全くできていない」と慌てる夢を見ることがある)。しかしへそ曲がりの私の場合、こういう時こそ遠征のチャンスというものである。

 

 目的地については、現在長崎のハウステンボス美術館でゴッホ展が開催中とのことなので長崎である。当初は鉄道中心でのプランを検討していたが、やはり鉄道だと行動がかなり制約される。そこでレンタカーを使用して鉄道では回りにくい山城なども絡めたプランにすることを考えた。レンタカーとなるとレール&レンタカープランとなりそうなところだが、どうもうまいルートが描けない。となれば最後の手段はいっそのことスカイマークで長崎空港まで飛ぼうかとなった次第。

 

 例によってポートアイランドで前泊であるが、今回は会社の福利厚生割引の関係でパールシティ神戸を使用する。金曜日の仕事が終了後、ホテルに車で乗り付ける。前回の成田便の時は帰省ラッシュとぶつかったせいで無駄に時間を浪費する羽目になったが、今回の移動はスムーズに完了する。

 

 ホテルにチェックインすると夕食のために外出。しかしポートアイランドは例によっての寂れっぷり(かつての先進的海上都市も、今やわびさびの世界となっている)のために飲食店がほとんどない。結局は近くの焼鳥屋で夕食を済ませることにする。

 

 食事を終えるとホテルに戻って大浴場でマッタリ。今回このホテルを選択したのはこれがあるから。大浴場で疲れを抜いた後はボンヤリとテレビを見る。どうやらフジテレビが震災特集を放送している。当時の証言なども検証しながら津波の想定被害を紹介するなど、何となく番組の造りがNHKスペシャルそっくり。いつもくだらないバラエティ専門のテレビ局にしては、珍しく柄でもないものを流していると驚きながらも最後まで見る。

 

 テレビが終わったところで眠くなってきたので就寝。

  

☆☆☆☆☆

 

 

 翌朝は6時半に起きるとホテルでバイキングの朝食。今日の便は9時からなのでやや時間に余裕がある。8時前にチェックアウトすると車で空港へ。今日は利用者が多いのか第1駐車場は満車で第2駐車場にまわされる。

 

 搭乗手続きを済ませると、トランクを手荷物で預けることにする。今まではトランクは機内持ち込みしていたのだが、今回は山城に立ち寄るために登山杖を持っていこうと思ったらこれが機内持込不可サイズ。そこでどうせ預けるならトランクも一緒に預けてしまおうと言う考え。

 

 荷物検査を受けて搭乗ゲートに到着すると、スカイマークの長崎便は使用機体の到着遅れとかで出発が10分の遅れとのこと。相変わらず今日も元気にスカイマークは定常運行(定時運行でないのがミソ)である。

 

 長崎便の機体は東京から回ってきたようだ。スカイマークのスタッフがドタバタと全力疾走で駆けずり回る・・・大丈夫かいな? この便の乗客の大半は長崎への乗り継ぎ客のようである。30分ぐらいで機体は再出発準備を整える。まるっきり新幹線並みである。

 

 機内はほぼ満員。例によってビジネススタイルの者は全くいない。乗客には子供もいるので機内が少々騒がしい。この辺りはビジネス客中心のANAの便などとは性格がかなり異なる。飛行はいつもの通り。操縦がやや荒いような、こんなもののような・・・。ただ明らかに着陸は荒い。機体が一度跳ねたのが機内にまで伝わってくる。

 

 長崎空港に到着すると手荷物を回収。しかし荷物に貼られたセキュリティチェックのシールが綺麗に取れなくて閉口。何でこんなに質の悪いシールを使うのやら・・・。

 

 空港からはレンタカーで移動する予定。既に日産レンタカーに予約を入れているので、カウンターで申し込むと送迎車が来るのを待つ。レンタカー事務所は空港から車で数分。貸出車はてっきりマーチ辺りだろうと思っていたら、ティーダを貸し出す模様。申し込み時にクラスアップ可にチェックを入れていたのでクラスアップされたのだろう。ティーダはノートと共通部分が多いので、走行感覚もノートとそっくり。ノートユーザーの私としてはすぐに馴染める車である。

 

 さて最初の目的地はハウステンボスである。海沿いの一般道を北上する。ここで驚いたのは長崎では制限速度50キロの道路がきっかり50キロ台で流れること。関西では制限速度50キロの道路なら、まずは走行速度は80キロという辺りが相場。長崎県民はおっとりしているのか、それとも遵法精神が強いのか。私も流れに合わせてのんびり走ることにする。

 

 大村湾沿いを北上すること1時間程度。ようやくハウステンボスに到着する。確かハウステンボス美術館は入場料不要のフリーゾーンの中にあるはず。しかしそのフリーゾーンの入口が分からなくて周りをグルグルと何周も走る羽目に。ようやく入口を見つけて入ったと思ったら、何と「本日はフリーゾーンも有料ですので、入場ゲートに回って入場券をお買い求めください」との看板が立っている。

 

 思わずこの時点で「ふざけんな!」という声が出る。私は何もハウステンボスに興味があるわけでなく、美術館に来ただけである。その美術館に入館するために美術館の入館料にプラスしてクソ高いハウステンボスの入場料まで取られてはたまったものではない。そこで急遽予定を変更、ハウステンボスは後日に回すことにして次の目的地へと移動することにする。

 

 次の目的地は山城攻略。佐賀にある岸岳城を目指してひたすら北上を続ける。ナビに従ってしばらく走行していると、眼前に「九州陶磁文化館→」の表示が現れる。ここも以前に立ち寄ろうと思いつつ実現しなかった施設である。行きがけの駄賃でここに立ち寄っていくことにする。

 

 九州陶磁文化館は有田駅近くの小高い山上に建っている。小さな山だが意外と高さがあり、車で来たことが正解だったと感じられる。私の来訪時は特別展開催中ではないので入場無料らしい。なかなか太っ腹である。

 九州陶磁文化館

 展示内容は九州の陶磁器の歴史などの博物館的展示から、現代陶芸作品などの美術館的展示までが混在している。また九州の各地の陶磁器なども展示されていたが、唐津、鍋島、伊万里などで特徴が違っていて面白い。元より私はあまり陶芸には興味はない方なのだが、それでもそれなりに楽しめた。

 

 九州陶磁文化館に立ち寄ったついでに、この近くの有田内山地区を訪ねることにする。言うまでもなく有田は陶芸の産地として有名であるが、その中でも内山地区は製陶町として重伝建地区に指定されている。

有田の町並み

 有田を走ると陶芸関係の店などが多く並んでいる。町並み全体に風情もある。ただ困ったことに、現地に到着するとどこが内山地区なのかがサッパリ分からない。現地にも明確な表示はなく、地元の民俗資料館に入館したもののやはり位置はハッキリしない。結局は市街を車で通り抜けただけになってしまう。

 

 何やら中途半端な感じになってしまったが、とりあえず有田を後にして「岸岳城」に向かって北上することにする。ナビに従って佐賀の山中をひたすら進む。途中で道沿いの店で軽く昼食を摂ってからさらにひた進む。伊万里を抜けて唐津方面に走ることしばし、ようやく岸岳城の案内看板が現れるので、後はその看板に従って山道を進む。最初はさほど狭くはない道路であったが、途中から道の傾斜がきつくなると共に舗装が悪くなり道幅も狭くなる。ただ幸いにして対向車は皆無である。そのまま進むと道路脇に登山者用駐車場という表示があるのでそこに車を停める。

左 ここに車を止めて歩いたのだが  中央 登山口まで到着すると  右 すぐ近くに駐車場があった・・・やられた

 駐車場からしばし車道を進むと登山口に行き当たる。どうやらここにも駐車場があるようなので、手前の駐車場ではなくてここまで車で入ってくる方が正解らしい。やられたと思ったものの仕方ないのでそのまま登山道を進むことにする。

 

 岸岳城はかつてこの地に勢力を張った松浦党の一勢力であった波多氏の居城であり、標高300メートル以上の岸岳の山上の尾根に築かれた堅固な山城である。波多氏はここを拠点にして戦国時代に九州で台頭してきた大友氏、龍造寺氏の狭間で生き延びていくが、秀吉の九州征伐によってその軍門に下ることになる。しかしこの時は所領は安堵されたものの、後の文禄・慶長の役の際に非協力的であるとして波多氏は改易され、この地には寺沢広高が入ることとなる。寺沢氏は岸岳城を整備したものの、後に一国一城令によって廃城となって今日に至る。

 岸岳城はこの山の上

 なお今日ではなぜかこの岸岳城は九州有数の心霊スポットということになっている。波多氏の怨念が残っているということらしいのだが、八王子城のように落城の惨劇があった城ならその手の噂が残るのは分かるのだが、波多氏は確かに秀吉によって改易されて没落したが、一族郎党が岸岳城に籠もって玉砕したわけではない。波多氏の怨念が岸岳城に残る理由が意味不明である。怨念よりもむしろ望郷の念が残るというのなら分かるが。

 クモの巣を払いつつ、息を切らせて急な山道を登っていくと、十数分ぐらいで旗竿石の手前のところに出てくる。どうやらここが山上の城域の最西端に当たるらしい。ここから尾根上を東に向かって進んでいくことになる。

左 険しい登城路を登っていくと  中央 旗竿岩に突き当たる  右 三の丸方面に向けて歩く

 しばし進んでいくとすぐに堀切に突き当たるが、この先が三の丸。内部は鬱蒼としていて意外と起伏があるが、広さはそれなりにある。

左 三の堀切に到着  中央 この辺りは立派な石垣がある  右 三の丸に到着

内部はかなり起伏に富んでいる

 三の丸を進んでいくと再び広い堀切に突き当たるが、これが二の堀切でこの先が二の丸である。この堀切の周辺は石垣が整備されている。また二の丸はかなり広く、内部は複数の曲輪に区切られているようであり、石垣らしき痕跡もあちこちにある。なお城跡は全体的には整備はされているのだが、この辺りは通路がハッキリしないために途中で迷い、結局はかなりの急斜面を無理矢理に登っていく羽目になってしまった。途中で埋め門跡があり、息を切らせながらさらに登り切った先には井戸跡が残っていた。籠城には不可欠の水はここで確保したようであるが、それにしてもこんな山上に井戸があるというのも不思議なものである。

左 二の堀切に当たる  中央 結構幅がある  右 先に進む

左 やはり結構起伏がある  中・右 石垣の痕跡らしき巨石がゴロゴロ

左 埋め門跡  中央 井戸跡  右 結構深い

 その先のやや下ったところが大手口跡で、そこから本丸へは崖の脇を再び登っていくことになる。崖を登った上が本丸だが、ここはかなりのスペースがあり、相当数の兵が籠もることも可能であると思われる。

左 大手口を進む  中央 右手の高台が本丸  右 本丸

 本丸の東端は石垣でしっかりと固められており、ここから一段降りたところに三左衛門殿丸という小さな曲輪がある。ここには櫓でも建っていたのだろうか。この先に姫落し岩があるとの表示があるが、山上歩行でもうかなり足に限界が来ているのでここらで引き返すことにする。

左 本丸先端の石垣  中央 上から見た三左衛門殿丸  右 三左衛門殿丸

 想像以上に巨大な城郭であり、尾根上を移動するだけでかなり疲れてしまった。尾根上に細長く延びる城郭という意味では岡山の楪城を思い出した。なお私は八王子城で「北条の一族がこの滝に身を投げた」と言われている滝を見ても何も見えも感じもしなかったぐらいの霊感皆無の人間なので、この九州有数と言われる心霊スポットでも何らの霊的な気配を感じることはなかった。ただ不思議なのは山上には全く人気は皆無だったにもかかわらず、常に比較的近いところに人の気配のようなものを感じていたことである。ただしそれは霊などという敵対的なものではなく、むしろ遠くから登山者を見守っているような気配であった。言えるのは、もしこの地に何かがいるとしても、それは少なくとも悪霊や怨念といったものではないということである。もしかしたら霊ではなくてトトロかもしれない(笑)。

 

 それにしてもなかなかハードだった。もう夕方の4時を回っているし、果たして次の目的地を訪問するべきか悩むところ。次の目的地は獅子ヶ城。やはり松浦党絡みの山城である。とりあえず現地に立ち寄ってから見学するかどうかは判断することにして車を走らせる。それにしても全身汗だく、またやけに頭がガサガサすると思ったらクモが付いていた。何ともワイルドな話である(笑)。

 

 「獅子ヶ城」のあるらしき場所を目指して車を走らせるが、細かい場所がサッパリ分からない。これは諦めて帰るかと思った頃に道路脇にかなり立派な獅子ヶ城跡の石碑を見つける。どうやらここが登城口の模様。とりあえずここから車で山道を登ることにする。かなり登ったところで出丸の近くに駐車場がある。さてこれからどうするかが判断のしどころ。もう4時をとっくに過ぎて日は西に傾いている。しかしここは九州であり、東北などに比べると日没時刻は遅いはず。また山のかなり上まで車で登ったということは、ここからそう長い登りはないと考えられる。ここでとにかく行ってみようと決断する。

  

いきなりすごい断崖がある

 駐車場から見上げる崖はかなり凄まじいものがある。ここから落ちたらまず間違いなく死ぬだろう。「佐賀山城殺人事件 石垣は見ていた」思わず2時間ドラマのタイトルのようなシチュエーションが浮かんでしまう。絶壁から転落死した男性、警察は事故死と断定する。しかしさらに第二の事件が。「近世城郭マニアのはずの彼が、なぜこのような中世城郭に・・・。」独身中年山城ハンターの推理が冴える。あっ、岩崎宏美の歌が聞こえてきた。

 駐車場から息を切らせながら山道を登っていくとほどなく三の丸に到着する。三の丸はかなりの広さがあり、中央には自然の崖の上に一段高い二の丸が載っている。その二の丸を横目に見ながら先に進むと二の丸とは堀切で区切られた井戸曲輪が。

左 三の丸に向かって登る  中央 三の丸  右 この巨石の上が二の丸

左 二の丸と井戸曲輪の間の堀切  中 手前右手が井戸曲輪、奥が本丸  右 井戸曲輪

左・中央 井戸  右 井戸曲輪から堀切を見下ろす

 井戸曲輪の奥には本丸に登るルートがあり、その上が本丸。本丸はそれなりのスペースがあり、西部が一段低くなっているが、そこには虎口の跡がはっきりと残っている。

左 本丸へと登る  中央・右 本丸風景

左 本丸西部が一段低くなっている  中 虎口の跡がある  右 かなり高い

 本丸の南側には石垣上の一の曲輪、その下に二の曲輪と馬場があり、二の曲輪の先には櫓台もある。これらで本丸の南方をしっかりと固めている。とにかくかなり堅固な城郭である。

左 一の曲輪から本丸を見上げる  中央 一の曲輪の下が二の曲輪  右 二の曲輪から一の曲輪の石垣を見る

左 二の曲輪の隣は馬場  中・右 二の曲輪にある櫓跡

 三の丸まで戻ってくると二の丸の回りを一周。自然石の絶壁の上にあり、まさに取り付く島もない。一カ所、虎口かと思われる場所はあったものの鬱蒼としていて進む気にはなれず。

左 二の丸に沿って回る  中央 北三の丸に向かう  右 途中にある虎口

左 北三の丸  中・右 それにしても二の丸周囲は険しすぎて登り口が分からない

 とにかく自然石と石垣を併用した非常に堅固な山城であった。何とも本格的な見応えのある山城を堪能したという印象。しかし気が付くともう既に日はかなり西に傾いてきたので慌てて今日の宿泊地である嬉野温泉を目指すことにする。

 

 多久から長崎道に乗ると嬉野温泉目指して走る。しかし驚いたのはこの道路の走行速度。一般道では制限速度厳守していた長崎ナンバーが、高速道路に乗った途端に豹変するのである。今まで走行車線が100キロを遙かに超える速度で流れている(100キロだと流れに乗れない)道路は、伊勢湾サーキットこと伊勢湾岸自動車道以来である。長崎県民は日頃抑圧した野獣の魂を高速道路で解放するのだろうか? なおこのサーキットの中を桁違いに無茶な運転でぶっ飛ばしていった車がいたが、その車は大阪ナンバーだった。

 

 嬉野ICで高速を降りると、嬉野温泉はすぐそこである。宿泊予定のホテルは嬉野温泉和多家別荘。自家源泉を有するという嬉野温泉を代表する巨大旅館である。しかしうれしいことにこういう施設には珍しく一人客用のビジネスプランを用意してある。チェックインをすると通されたのはビジネスホテル装備のツインルーム。ありがたいことにインターネットも利用可能である。部屋で一息つくと何はともあれまずは大浴場に出向く。

 

 巨大ホテルらしく大浴場は立派なもの。そこに自家源泉から汲み上げた湯が大量にダバダバと注ぎ込まれている。源泉の温度が高いのでわざわざ冷却するための施設まで持っており、加水消毒などは最小限にしているらしく無粋な塩素臭はない。

 

 ナトリウム−炭酸水素塩・塩化物泉のお湯は肌にしっとりと馴染むようなすばらしいお湯。アルカリ泉のいわゆる「美肌の湯」で肌がスベスベとしてくる。カンカン照りの山道を含む1万6千歩の歩行で疲れ切った身体に染みいるような感じである。川が見える露天風呂でこのようなすばらしい湯に浸かっていると思わず笑いが出てくる。あぁ、来て良かったな・・・という言葉が自然に口から出てくる。

 

 さすがに温泉旅館の大浴場、設備的には言うことなしである。またインチキ水割り温泉も多い中で、この嬉野温泉は本物。寒河江のサンチェリーでも感じたが、やはり一人旅派にはビジネスホテル形式の部屋+温泉旅館の大浴場という組み合わせは最強コンビである。今後こういう形式が増えていってくれないかと望むところ。

 

 温泉を堪能したところで夕食に繰り出すことにする。私のプランは格安のビジネスプランなので夕食は付いていない。当初の予定では外に食事に出るつもりだったが、ホテルに着いた途端にどっと疲労が襲ってきてホテルから出る気が起こらないので、ホテル内の居酒屋で夕食を摂ることにする。

 入店すると綺麗なお姉ちゃんが注文を聞きに来る。とりあえず串カツの御膳(1800円)を注文する。居酒屋にしては珍しく飲み物を強制されなかったのが好印象。小鉢から始まって、刺身、湯豆腐、串カツと続くのだが、予想に反して意外とうまい。正直なところ横着して旅館内で済ませることにしたので、味の方は期待していなかったのだがうれしい裏切り。ごまだれをつけて頂く湯豆腐などがなかなかにして良い。

 湯豆腐が食べ頃に煮えてきた

 かなり気分が良くなったのでご当地らしいところということで「ムツゴロウの甘露煮(1000円)」を追加する。ムツゴロウは案に反して泥臭さはない。小骨が多い感じだが、逆にそれが香ばしくて頭からポリポリといける。うん、これはうまい。ムツゴロウはハゼの仲間だが、そう言えば以前に掛川で食べたハゼの刺身は絶品だった。ハゼという魚に対する認識が改まりそうである。

 ムツゴロウの甘露煮

 部屋に帰るとテレビを見ながらボンヤリ。防災の日ということがあってか、NHKでは東日本大震災関連の番組ばかり。それらの番組を見るともなく見ているうちに眠気が襲ってくるのでやや早めに床につく。

  

☆☆☆☆☆

 

 

 翌朝は7時前に目覚めるとまずは朝風呂。朝日の中での露天風呂が最高に心地よい。この快楽はなんとも捨てがたいものがある。朝寝・朝酒・朝湯で身上をつぶした小原庄助氏の気持ちが分かる瞬間である(笑)。

 

 朝風呂の後は朝食に出向く。朝食はバイキング形式。それで腹を満たすと部屋に帰って一息ついてからチェックアウトする。もう一風呂浴びたい気もあるが、それをしてしまうとさすがに今日一日走り回る気力がなくなってしまいそうな懸念がある。今日も予定は目白押しである。

 

 ホテルを出ると鹿島に向けてひた走る。ただしその途中で一カ所立ち寄り。目的地は塩田津。その名の通りの港町だが実は内陸の町。塩田津の港はいわゆる河川輸送の港で、塩田川を利用した水運で栄えた町である。長崎街道の宿場町でもある塩田では、かつては陶芸用の陶土を河川を利用してここまで運び、ここから陸運によって陶芸産地に輸送していたという。往時にはこの中継貿易によって富をなした豪商が軒を並べたという。運送の中心が陸運に移った今日では往時の繁栄は最早ないが、当時の面影をとどめる町並みが重伝建に指定されているという。

 

 重伝建地区は塩田川の向こうにあるが、河川改修されたという今の塩田川は往時の姿が想像できないほどの小さな水路のようになってしまっている。休日で解放されている銀行の駐車場に車を止めると徒歩で街道を散策する。

 町並みはよくある宿場町の風情。通りの奥に寺社がある辺りもお約束。町の風情としては関宿や熊川宿など今まで訪問した宿場町に類似している。ただここは水運の町でもあったので、街道筋の裏側に港の遺構があり、大きな商家などではそこから直接に荷物を搬入できるようにしてあるところが関宿などとの違い(熊川宿には一部似たようなシステムがあったはず)。

左・中央 塩田川は今ではかなり狭い  右 ここから荷揚げしていたらしい

 観光案内所に到着すると国の重要文化財である西岡家住宅の見学を申し込む。しばし表で待つと市役所の担当の方がやってきて入口を開けてくれる。彼に案内されて内部を見学。ここは当時の豪商の住宅で、最近になって修繕が完了したらしい。いかにも豪商の住宅らしく良い木材を使用している。今でも屋敷は子孫の所有らしいがやはり管理は大変なようで、今では市に管理を委託しているとか。どこの重伝建地区でも同じだが、家屋などの維持管理の費用の捻出や、地域自体の高齢化・過疎化などが将来に暗い影を投げかけているらしい。こういう地方の現状を見るたびに、地方を中心とした日本の再生策の実行が急がれるのだが現政権にはそういう観点は皆無であるし、次に権力を握ると言われている連中が、東京中心志向の権化のような老害石原や地方を踏み台にして独裁権力を握ることしか頭にない橋下などでは日本の先行きも暗い。

西岡家住宅は立派な商家

 塩田津の見学を終えると鹿島まで車を走らせる。鹿島はそもそも佐賀鍋島家の支藩があった城下町である。ここには鹿島9代藩主鍋島直彬が築城した「鹿島城」が存在していた。城自身は明治維新後に江藤新平等による佐賀の乱の際に焼き払われたそうだが、今日でもその名残は旭ヶ岡公園として残っているという。

左 城の東側の石垣  中央 登り口を登ると  右 神社になっている

左 神社の北は公園  中 奥に見える土塁は城の遺構か  右 ここはそもそも本丸堀だった

左 本丸は今では高校  中央 赤門が高校に残っている  右 本丸の堀

 旭ヶ岡公園の南に駐車場があるので、そこに車を停めて辺りを散策する。建物の類は全く残っていないが、石垣や堀などに往時の面影が残っている。かつての本丸跡は今は鹿島高校となっているが、その正門である赤門はかつての遺構であるという。なかなかに風格のある門である。また車でグルリと南側に回り込むと、そこはかつての武家屋敷の面影のある通り。市街地内の城で維新期に焼失していると聞いていたので、今では大して遺構もないのではと思っていたのだが、思いの外いろいろと当時の面影が残っていたのには驚いた。もっともその分、車では非常に走りにくい。

城跡南側の武家屋敷跡

 鹿島城を後にすると、近くにある重伝建の肥前浜宿を訪問する。ここは醸造町であった地区と、港町だった庄金地区の二つが隣接しているという。醸造町の地区は酒蔵が通りの両脇にズラリと並ぶ町並み。一方の庄金は茅葺集落が見られる。ゆっくりと見学したところであったのだが、生憎と車を停められる場所が見あたらなかったので、結局は車で通過するだけになってしまう。いずれ機会があればリターンマッチしたいところでもある。

  

酒蔵通り

  

港町だった庄金地区

 鹿島を後にすると有明海沿いをひたすら南下する。諫早の手前で堤防道路に乗ると雲仙方面を目指す。次の目的地は神代小路。ここもやはり佐賀鍋島藩の支藩で鶴亀城を中心とした城下町が残っており重伝建地区に指定されている。またここには鍋島邸も残っているとか。現地は往時の武家屋敷街の面影をとどめる閑静な住宅地。鍋島邸の駐車場に車を止めるとまずは鍋島邸の見学から。かつてここの若き当主も佐賀の乱の際には海上から出兵して駆けつけようとしたらしいが、家老が身体を張って止めたとのこと。おかげでこの地は佐賀の乱に巻き込まれずに済んだらしい。

 屋敷の方は長屋門を中心に現在修復工事中とのことで、残念ながら細かい見学は出来ず。裏には鶴亀城の二の丸の一部を使用した庭園がある。ただ庭園といってもやや殺風景でどちらかと言えば野趣に溢れると言うべきか。

左・中央 鍋島邸  右 長屋門は修復中

左・中央 やや野趣溢れる庭園  右 屋敷も修理中です

 鍋島邸の見学後は「鶴亀城」を見学。二の丸と本丸が通路になっている堀切を隔てて南北に並んでいる縄張りだが、二の丸の方は今では完全に畑化していて特に何も残っていなそう。かつてはこの二の丸の北に大手があって、そこから有明海につながる大海城だったらしい。本丸の方は今は神社になっており、そこそこの広さがある。また本丸周囲には土塁の跡も残っている。なかなかに立派な城郭だったようである。元々この城を築いたのは、この地を支配した神代氏とのことだが、当時から難攻不落の城として知られていたらしい。秀吉の時代に佐賀鍋島氏の支藩となった際に再整備されているが、後に一国一城令によって廃城になっている。

左 右側が二の丸で左側が本丸  右 二の丸入口

二の丸は今では完全に畑

左 本丸入口  中央 本丸内は神社  右 本丸周囲には土塁がある
 

 神代小路を後にすると今日の宿泊予定地である長崎へと向かう。その途上で「守山城公園→」という看板を見たので少し寄り道。

 

 「守山城」はかつてこの地に勢力を張った守山氏の居城であったという。守山氏は肥前の有馬氏の重臣であったらしいが、その主従関係はそう強固なものではなかったようで、諫早の西郷氏や神代氏と共に何度か有馬氏に反旗を翻したことがあるようだ。後に龍造寺氏の伸張と共にその傘下に下るが、龍造寺氏が沖田畷の戦いで敗北して没落すると守山城は島津の支配下となり、守山氏はこの地を逐われる。後に秀吉の島津征伐で再びこの地は守山氏の支配下に戻るが、その2年後、有馬氏の謀略によって夜襲を受け一族郎党全滅して守山城は廃城となったとか。

左 本丸登り口  中央 本丸に二段になっている  右 上の段

左 守山一族終焉の碑  中 上の段から見下ろす  右 かなりの高さはある

 こうして歴史を見てみると、岸岳城などよりもよほど怨念が深そうな城である。そのためかここを最近になって公園化した際に、守山一族終焉の碑という慰霊碑を建てたようである。平地の中の小高い山で辺りを見渡すことができるが、それほど大きな山ではない。現在公園となっているのはかつての本丸跡だとか。現在は完全に公園化されているが、遊具などはあまり使われている様子がなく、公園全体が鬱蒼としてやや朽ちかけている雰囲気があるのがいかにももの悲しい。

 

 守山城を後にすると諫早まで移動、そこから長崎道で長崎入りである。山の間を抜け、ながさき出島道路の長いトンネルを抜けるといきなり長崎市の中央部に到着する。今日の宿泊予定のドーミーイン長崎はこの近くである。ただし長崎の道路は道幅が狭い上に通行量が多く、しかもその上に路面電車も走っているのでとにかく走行しにくい。結局はスムーズにホテルに到着できず、グルッと遠回りする羽目に。

 

 ホテルにチェックインすると一息つく。ああ、長崎にやってきたんだなという感慨が湧いてくる。私は基本的にこの町が好きである。初めて来た時から非常にしっくり来る感覚が強い。

 

 一休みすると外出することにする。まず向かったのは大浦天主堂やグラバー館のある南山手。この辺りは重伝建になっているが、洋館などは多いものの土産物屋などばかりで全く落ち着いた風情はなく、町全体が竹下通り化してしまっている。これで重伝建と言われても・・・というのが本音。

南山手はどこか落ち着きがない

  

 ここからプラプラと歩いてオランダ坂のある東山手に向かう。この辺りも重伝建指定させている地域だが、なんと言っても有名なのは日本三大がっかり名所にも上げられるオランダ坂である。今回はそのオランダ坂のがっかり度合いがどの程度なのか確認してやろうというやや意地の悪い目的もある。

左 旧長崎英国領事館  中央 一つ目の坂  右 湊会所跡

左 これが二つ目の坂  中 そして最も古い三つ目の坂  右 坂を登り切った先

 オランダ坂は山手の洋館などがチラホラある住宅街の中の石造りの小さな坂。下から3つぐらいの坂が連なっており、一番上の坂が一番古い年代のものらしい。そこそこの観光客が来ているが、完全に観光地化している南山手と違ってややわびた風情が漂っていて悪くない。ここががっかり名所に上げられるのは「特に何もないから」とのことなのだが、一体たかが坂に何を期待しているのだか? こうして見てみると、やはりがっかり名所に挙げられるべきは高知のはりまや橋ぐらいか。ただはりまや橋はあのインチキ臭い太鼓橋が建築されたことで、がっかり名所からお笑い名所にクラスアップしているので、そういう意味ではがっかり名所は該当なしか。あえて挙げるとすれば、札幌時計台ではなくて羊が丘展望台の方。あそこは本当にクラーク像しかなかった。

 

 長崎市内を見学したところで、次の立ち寄り先は長崎県美術館。

 


「スタジオジブリ所蔵 メアリー・ブレア原画展 人生の選択、母のしごと。」長崎県美術館で9/2まで

 

 ディズニー・スタジオで「シンデレラ」「ふしぎの国のアリス」などのコンセプト・アートを手がけるなど活躍したアーティストであるメアリー・ブレアの展覧会。

 

 彼女はディズニーから離れた後はフリーのデザイナーとしていろいろな挿絵などを手がけており、多くのアーティストに影響を与えたという。実際に私も、彼女の名前については全く覚えがなかったのだが、彼女の絵柄については幼い頃にあちこちで眼にした記憶がある。

 

 やはり目に付くのは卓越した色彩感覚である。簡略化してデフォルメした形態も彼女独自のものであるが、それを際だたせるのが色遣いのうまさ。それをサラッとやってのけるところは天性の才であろうか。

 

 デザイン系にあまり興味がなく、さらにはディズニーアニメーションの絵柄が嫌いな私にとっては好みに合致しているとは言い難いアーティストではあるが、それでも独自の魅力があることは認めざるを得ない。

 


 

 美術館を出た時にはもう既に日は暮れかかっていた。ホテルまで戻ると入浴することにする。今日も1万6千歩を歩いたので体はクタクタ。その疲れを大浴場でしっかりと抜く。入浴後は洗濯物を洗濯機に放り込むと夕食に繰り出すことにする。

 

 夕食は中華街で長崎チャンポンを食べることに決めている。入店したのは前回の遠征時と同じ「京華園」。注文したのは炒飯と長崎チャンポン。

 

 やはりここの炒飯は私の好みと合う。あっという間に完食。長崎チャンポンも塩味のスープと太めの麺がうまい。そう言えば味の好みとは人によっていろいろあるものだが、この店のチャンポンを「味が薄くておいしくない」とネットで言っている者がいるのに驚いた。私に言わせると「やや味は濃いめ」なんだが。あれを薄いと感じるとしたら、醤油ドバドバの東京人か、赤味噌だぎゃーの名古屋人ぐらいだろうかと考えつつ読んでいると、「リンガーハットの方がうまい」と書いてあるのでようやく理解できた。つまりは化学調味料がピリピリこないと味がしないと感じるファミレス舌だったようだ。全く人によって味の好みとは様々である。だから私は口コミサイトは全く信用しない。

  

 長崎チャンポンを完食すると、デザートに杏仁豆腐を頂いて夕食を終える。ここの汁気の多い杏仁豆腐も私の好み。とにかく私の好みに非常に合致した店である。

 

 夕食を堪能してホテルに戻り、これで長崎訪問の主目的(?)は達成したのであるが、こちらに来て悲しいニュースも同時に知った。私が以前の長崎遠征時に訪問したうなぎの老舗「なかしま」が閉店したというのである。昨今のうなぎの価格急騰が原因かと思っていたのだが、閉店理由は「店主が高齢化したのに後継者がいない」ということらしい。これだけの老舗さえこんな理由で閉店とは、何やら衰退する地方の縮図の一つのように思われてならない。

 

 ホテルに戻るとこの日はやや早めに床につく。やはり炎天下の無理が祟ってかなり疲労が溜まっている。

  

☆☆☆☆☆

 

 

 翌朝は7時に起床するとホテルで朝食を摂る。すぐにチェックアウトしようかと思ったが、身体に疲労が残っているし、今日の予定はそれほどタイトではないので結局は9時前ぐらいまで部屋でウダウダと過ごす。

 

 ホテルをチェックアウトすると長崎道を北上する。今日こそは本来の主目的であったハウステンボス美術館を訪問する予定。その後は大ざっぱな計画はあるものの、基本的には出たとこ勝負である。長崎道を東そのぎICで降りると後は下道を通ってハウステンボスを目指す。この道は2日前にも通った道なのでおおよその推定は付く。

 

 10時頃にようやくハウステンボスに到着する。フリーゾーンに回り込むと施設内の駐車場に車を置いて美術館を目指す。ハウステンボスはかなり巨大な施設で駐車場から美術館までも距離が遠い。なお施設内はオランダを模した建物が多く建っているが、遠目や写真を通して見れば美しいのだが、近くでマジマジ見るとなぜかわざとらしさを感じてしまって興醒めする。ハウステンボスの宣伝などを見ていると、莫大な費用をかけて本格的にオランダの町並みを再現したというようなことを謳っているのだが、それにもかかわらずこの全体に漂うわざとらしさは何なんだろう? まず基本的に日本の風土の中にオランダの町並みを再現するというコンセプトが意味不明。オランダの町並みはオランダの風土の中に存在するから意味があると思うのだが・・・。なぜか表現しがたい居心地の悪さのようなものを感じてしまうのである。

 


「幻のゴッホ展 パリ時代のゴッホ 空白の2年間」ハウステンボス美術館で10/28まで

 

 オランダのゴッホ美術館の改装に伴い、その所蔵作品を公開するという展覧会。展示作品は52作品とそう多くはないが、51作品がゴッホの作品で1つはジョン・ピーター・ラッセルによるゴッホの肖像画ということで、展示作すべてがゴッホである上に、36作品が日本初公開というのが最大の特徴である。

 

 展示はゴッホを理解するという観点に沿って行われており、彼が売れる作品を描くために試行錯誤しつつ彼独自の画風を確立していく過程が作品を通して語られている。最初は写実主義的な暗い重苦しい絵画を描いていた彼が、印象の影響などを受けつつ色彩が煌めくあの独自の筆致にたどり着く様子が、途中の実験的作品などによって直接確認できるのである。

 

 本展ではいわゆる典型的なゴッホ的な作品というのは決して多くはないのであるが、逆に「らしくない」作品を多く目にすることで、ゴッホという画家について立体的に理解を深めていくことへの助けとなっている。ありきたりのゴッホ展に飽きた向きにはこれは非常に刺激的な展覧会である。


 

 美術館の見学を終えるとハウステンボスを後にする。今日の予定は、もし私がこの場所を気に入れば入場料を払って一日過ごすことを考えていたのだが、結局は最後まで当初に感じた違和感を埋めることは出来なかった。そこでそういった場合に用意していた第二案を実行することにする。どうやらやはり私はこの手の巨大開発とはとことん相性が悪いらしい。それにしても九州の巨大施設は、宮崎にわざわざ人工海岸を造ったり、福岡になぜかスペースシャトルがぶっ立っていたりなど、なぜあえてご当地色を無視するようなものばかりなんだろうか? 観光なんてものは、その土地の独自性や風土が渾然一体となって初めて魅力が出るものなんだが・・・。ハウステンボスは喩えるなら、黒髪で黄色い肌の日本人が髪の毛を脱色して欧米人ぶっているようなちぐはぐさを感じずにはいられなかったのである。

 目指したのは九十九島。佐世保の北の風光明媚で知られる古典的観光地。遊覧船なども出ているという。とりあえず駐車場に車を放り込むと、お約束通りの遊覧船ツアーと洒落込むことにする。

   

 遊覧船は帆船風のものと海賊船風のものが交互で就航しているようである。私が乗船したのは帆船風の方。乗客は40人程度だが、ほとんどの乗客が船内に残らずに甲板の方に上がる。私も出航までは船室の方にいたが、船が出航すると同時に甲板に上がる。

 

 九十九島の名前通り、この海域は島ばかりだが、実際には99どころか208も島があるらしい。あちこちに浅瀬があって船としては難航路だと思うのだが、慣れているのか女性船長が豪快に海を渡っていく。島が多い入江ということで風景としては松島を思い出す。とにかく被写体には事欠かない地域なので写真撮りまくり。

 島巡りのクライマックスは松浦島の深い入江の奥に入ってのUターン。海が荒れている時にはここは通れないらしいが、今日はかなり波静かである。またこのような多島な海域は海賊にとっては格好の住処だが、伊勢志摩に九鬼水軍が瀬戸内に村上水軍が闊歩したように、かつてはこの地域には松浦党が闊歩していたと言われている。ただそれから数百年経った今日は、海賊ならぬ米軍がこの地域を闊歩している。

 

 九十九島巡りはいかにもコテコテの観光コースだが、余所者には意外とこういうコテコテコースの方が楽しめるものである。私も1時間弱のクルーズをしっかりと楽しんだのである。

 

 港に戻ってくると、適当に昼食を摂ってから九十九島煎餅を土産に購入する。すると隣の水族館でイルカショーがもうすぐ始まると言われたので、何とはなくに流されるように水族館に入館。イルカショーは美ら海水族館で見たものと似たようなものであるが、それでも結構楽しめてしまう私。

 

 イルカショーを楽しんだ後は水族館を一回り。大して大きくもない水族館だが、近海魚の展示やクラゲの展示などがなかなか面白い。

 

 水族館を出た時には2時頃になる。いよいよ最後の目的地に向かうことにするか。この旅の最後は長崎空港で車を返しての帰宅になるが、車を返す前に大村に予定がある。高速に乗ると大村まで突っ走る。

 

 大村には1時間程度で到着する。最後の目的地は大村にある玖島城。ただその前に土産物を購入するために寄り道をする。やはり長崎の土産物といえばカステラ。そして長崎カステラといえば福砂屋。というわけで今回の遠征では最初から土産物は福砂屋のカステラにするつもりだった。そこでどこで売っているかと調べたところ、大村に福砂屋の工場があってそこで販売もしているということが判明。どうせなら工場で買ってやれとの考えである。

 

 福砂屋の工場は長崎空港の近くにある。配送センターのようなところからトラックが出て行っている。とりあえず車を停めると販売コーナーへ。ここで土産物のカステラを数本購入。カステラは結構高いので出費としては痛いが、こうでもしておかないと家に帰ってから家族に何を言われるやら・・・(「親の葬式代も残さないドラ息子」「自分だけ遊び呆けている極道兄貴」と言われたい放題である)。

 

 カステラ購入後は「玖島城」に車を走らせる。玖島城は鎌倉時代より大村の地を支配していた大村氏が秀吉の死後の1598年に政情不安に備えるために築城したとされている。江戸時代以降も大村藩として残り、そのまま明治を迎えて廃城となった。大村氏はこのように中世から明治に至るまで一貫してこの地を治めており、これは歴史上においても希有な例である。玖島城は海辺の浮城として築かれており、また江戸時代に改修された際に加藤清正による設計指導を受けて扇の勾配の石垣を築いたとされている。

  玖島城の板敷櫓

 今は大村公園となっている城跡に南側から回り込む。板敷櫓もある立派な石垣を眺めつつ海側に回り込むと、海沿いに駐車場があるのでそこに車を止める。板敷櫓のある石垣はかなり立派なもので、これが加藤清正監修という石垣らしい。板敷櫓は平成になって再建されたというものだが、なかなかに絵になっている。なお現在公園になっている部分は本来は堀だったらしい。

 

 大手門跡をくぐると、すぐ右手には埋め門があり、左手には土産物屋なども並んでいる幅広い石段がある。この石段は180度に折れて本丸の正面につながっている。ここから左手に進んだところが二の丸で、板敷櫓はその奥にある。二の丸自体は城全体の規模から考えるとそう大きくはない。

左 大手跡  中央 大手右手の埋め門  右 左手が登り口

左 大手路を進むと  中 本丸の壁に当たる  右 右手には門があるようだ

左 反対側が二の丸  中央 二の丸の奥に板敷櫓が  右 二の丸内に堀らしきものがある

 二の丸から引き返すと本丸の虎口門がある。なかなか立派な構えで、ここをくぐると本丸。本丸は今では神社になっているが、これはお約束のパターン。本丸の奥には小さな搦手門が残っており、ここをくぐると三の丸方面に降りることが出来る。三の丸はかなり広大なスペースで、今ではここにグラウンドなどがあり、また門らしい構造もある。

左・中央 本丸虎口を進む  右 神社になっている

 

左 本丸奥の搦手口  中央 搦手口から出る  右 三の丸の門らしき構造

 三の丸をグルリと回っていくと公的施設の間に梶山御殿が残っている。これは大村氏の別邸として建造されたもので、今は教育施設となっているらしい。さらに海には船着き場のような構造があるが、これがお船蔵跡。内海で波静かな大村湾は海上交通には格好で、大村藩でも移動には船が利用されていたという。また海上の浮城である玖島城では、一朝事が起こった時には船が重要な戦力であることは言うまでもない。

   

左 梶山御殿  右 お船蔵跡

 非常に立派な城郭であり感心した。正直なところ知名度がイマイチの上に今では公園になっていると聞いていたから、ろくな遺構も残っていないだろうと思いこんでいたのだが、その予想を覆す立派さにただただ感心。本遠征の最後を締めくくるに実にふさわしい訪問先となったのであった。こういうことがあるから城郭巡りは止められない。

 

 玖島城見学後は近くの回転寿司で軽く夕食、レンタカーを返却すると長崎空港から帰途についたのであった。帰りのスカイマーク便はとにかく揺れる。かなり気持ち悪くなりつつ神戸へと帰り着いたのである。

 

 本遠征の主目的はゴッホ展であったのだが、終わってみれば最も印象に残ったのは数々の立派な城郭、そして嬉野温泉の湯のすばらしさ、相変わらずの長崎チャンポンのうまさであった。さらに言えば土産に買って帰ったカステラも期待を裏切らないうまさであった。なかなかに充実した遠征であったが、代償は炎天下の強行軍での著しい体力の消耗。帰宅後は私も体力的に相当衰えているということを惨々思い知らされることになってしまったのである。当初に予定を立てた時にはかなり余裕綽々の計画だったはずなのだが、終わってみればなぜこんなにハードな遠征になってしまったのだろう? 改めて振り返ってみると、訪問先が二つ三つ増えていた(笑)。スケジュールに空きが出来ればそこに仕事を詰め込んでしまうジャパニーズビジネス戦士並の猛烈な勤勉さである。この行動力が仕事に発揮されていれば、今頃は部長ぐらいにはなっていただろうに・・・。そう言えば私が遠征であちこちウロウロしていたら、いつもかけられる声は「お仕事ですか?」。どうやら遠征中の私からは仕事オーラが出まくっているらしく、フリーカメラマンか記者の仕事に見えるらしい。何やら根本的に人生を誤っている気がしてきた今日この頃。

 

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