展覧会遠征 北四国編

 

 秋の行楽シーズンである。しかし私はプライベートでかなり気が滅入ることがあったせいで、最近の週末は鬱々とお篭り状態でふさぎ込んでいたのである。だがいつまでもこのままでは精神が不健全になってしまう。そこで今週は気分転換もかねて遠征へと繰り出すことにした。

 

 今回の遠征先は四国。香川と愛媛で開催される美術展を目的に、四国地域の山城攻略を絡めた上に、重伝建絡みで島まで訪問するという計画である。日程は金曜日から日曜日までの二泊三日。山城を含んだ計画であるため、移動には車を使用する。

 

 明石大橋を渡ると久しぶりに淡路島を突っ走る。昨日に台風が沖合を通過したところであるが、その余波があるのかやや風が強いせいで車が若干あおられる。私の愛車のノートは以前のカローラ2と比較すると横断面積が広いせいで風にはあおられやすい。

 

 久しぶりに四国に上陸すると、まず最初に訪問したのは「一宮城」。一宮城が築城されたのは古く南北朝時代に遡り、戦国期においては三好氏と長宗我部氏の阿波をめぐる争いの中で最前線となっている。長宗我部についた城主の一宮氏は、堅城を持って何度も三好勢の侵攻を食い止めたが、一宮成祐が内通を疑われて長宗我部元親に殺害され(長宗我部元親が阿波を間接統治から直接統治に切り替えようと考えたと思われる)てからは一宮城には長宗我部家臣が入って長宗我部の直接支配下に入る。しかしまもなく始まった豊臣氏の四国征伐で一宮城は豊臣秀長配下の4万の軍勢の前に落城、長宗我部元親の降伏の後に一宮城には蜂須賀家政が入る。その後、江戸時代までを通じて阿波は蜂須賀氏の領地となるが、一宮城は一国一城令で廃城となり、その石材の一部は徳島城の修築に使用されたという。

四国八十八箇所第十三番札所の大日寺

その向かいにある一宮神社
 

 一宮城の麓には一宮神社と四国霊場の1つである大日寺が道路を挟んで向かい合っている。そこの見学を済ませると一宮神社横手の登城口から山城に登り始める。

左 登山道入口  中央 足下はかなり整備されている  右 竪堀の跡
 

 足下はかなり整備されており登りやすい。ただそれでも直登はそれなりにキツく、体がなまりきっている私は情けなくもすぐに息が上がる。

左 倉庫跡  中央 倉庫跡奥  右 見晴らしは良い
 

 ただ幸いにしてほどなく曲輪が見えてくる。最初に出くわすのは倉庫跡。ここは今では展望台になっている。

左 右手に曲輪が見えてくる  中央 曲輪  右 意外と広い
 

 再び登城路を進むと右手には小さな曲輪が、左手には次の倉庫跡の看板があるが、こちらは通路が崩れたのか立ち入り禁止になっている。

左 正面の崖の上が才蔵丸  中央 倉庫跡方面は通行禁止  右 崖の下に湧水がある

左 崖に沿って登る  中央 堀切に出る  右 左手が才蔵丸の虎口
 

 そのうちに正面に切り立った崖が見えてくるが、その上が才蔵丸。この正面には湧水も出ている。城の内部に入るにはこの才蔵丸の前を登り、隣の明神丸との間の堀切を通る必要があるが、その間は才蔵丸と明神丸から降り注ぐ矢の雨を受ける羽目になるわけである。

 

左 才蔵丸  中央 奥は展望台  右 遠くに眉山が見える

 才蔵丸は結構広い曲輪であり、東側は開けていて遙か先に眉山なども見える。ここは今は展望台のようになっている。

左 右手が明神丸  中央 門跡  右 その先の右手が明神丸虎口

左 付近の地図  中央 明神丸入口  右 明神丸奥
 

明神丸

明神丸からの風景

 本丸へ向かうには明神丸の周りを回り込んでいくことになるので、この間も明神丸から攻撃を受け続ける構造になっている。回り込んだところが門跡で、明神丸はこの右手に虎口がある。

左 帯曲輪を抜けていくと  中央 奥に本丸の石垣がある  右 かなり規模は大きい

左 本丸上風景  中央 振り返るとかなり高い  右 本丸からは辺りを一望
 

 本丸は明神丸の反対側の帯曲輪を抜けた先。目の前に平たい石を積み上げた急な石垣が見える。この石垣の上が本丸で城の最高所に当たる。本丸からは周囲を一望でき、まさにこの地を守る城郭にふさわしい堂々たる構えである。

左 本丸奥の一段下が釜床跡  中央 釜床跡  右 ここからの道はかなり悪くなる
 

 本丸の裏手には釜床があり、炊事場の石組みが残っている。そこを抜けると小倉丸や椎の丸の方向に向かう山道があるが、城郭の整備状況はここら辺りが急激に悪くなり、クモの巣を払いながら進むことになる。

左 投石用の石  中央 鬱蒼とした中を降りていく  右 曲輪跡には踏み込めそうにない

左 堀切もある  中央 花畑って何だろう?  右 唐突に送電線の鉄塔

左 小倉丸はこの斜面の上  中央 鬱蒼とした小倉丸内  右 一番奥は櫓跡
 

 山道を下っていく脇にも曲輪らしき構造が連なるが、鬱蒼としていて登れそうにはない。その内に送電線の鉄塔に行き当たるが、その先にあるのが小倉丸。土塁の上に登ることが出来るものの、内部は鬱蒼としていてその構造の細部はよく分からない。

左 空堀を越え  中央 竪堀も越え  右 土塁を越える

左 正面に見えるこの小山が椎の丸らしいが・・・  中央 貯水池方面への分岐  右 貯水池に降りることにする

 再び小倉丸の入口に戻ってから先に進む。空堀や竪堀、さらに土塁を越えると椎の丸方向への道と貯水池に降りる道との分岐点にさしかかる。椎の丸は完全に薮化していると聞いていたし、小倉丸の状況からもそれは容易に想像できたので、椎の丸に向かわずに貯水池方向に降りることにする。

左 直に辺りは谷川の風情に  中央・右 この辺りが貯水池だったらしい
 

 斜面を下るとすぐに沢筋に出る。昨日雨が降ったためか水が結構流れており、足下はビチャビチャしている。途中で貯水池跡があるが、確かにこの城は山城に不可欠の水には困らなさそうである。

左 前方に急崖が  中央 この鎖を持って降りることに  右 降りてから振り返るとこの滝

 さらに進むとかなり急な崖を鎖に捕まりながら降りることになる。通路が整備されているので油断さえしなければ危険を感じるほどのものではないが、それでも迂闊なことをすると命に関わることになる。慎重に降りてから振り返ると、滝の横を降りてきたことがよく分かる。城内に滝まであるとは非常に面白い城郭である。

 

 後は沢筋を下っていくと再び一宮神社に戻ってくる。なかなかに見応えのある堅固な城郭で、これだと三好勢を退けるには十分であると思われた。非常に実戦的な城郭である。山歩きとしても手頃でなかなかお勧めの城郭であった。

 

 車に戻ると次の目的地へ。次の訪問先は「勝瑞城」。かつて阿波国守護の細川氏が本拠とした城で、吉野川南岸の平城である。今では完全に平地の中になっているが、往時は周辺は河川や湿地に囲まれた水城であったという。吉野川の水運を活かして機内とも直結していたために城下はかなり繁栄したという。戦国期にはこの城は三好氏の配下にあり、一宮城を本拠とする一宮氏が長宗我部氏についたため、両者の間で何度も争奪戦が繰り広げられることになる。しかし城主・十河存保の時に長宗我部軍の攻撃によって落城、廃城となったという。

左 手前の水堀  中央 見性寺入口  右 勝瑞義家碑

左 矢竹  中央 城跡の看板  右 裏手の堀跡

 かつての激戦の城も、今となっては本丸の一部が見性寺となって残るのみ。遺構は本丸周囲の堀と土塁の一部だけである。今となると往時の繁栄ぶりを想像することも困難である。

 

 勝瑞城の次に向かったのは「引田城」。寒川氏配下の四宮右近が築城、その後に三好氏の台頭によってこの城は三好氏の支配下となり、後に諸々の変遷を経て十河存保のものとなる。勝瑞城で長宗我部氏に敗れた十河存保はこの城に籠もるが、結局は再び長宗我部氏に敗れてこの城を追われる。しかしその長宗我部氏も秀吉の四国征伐で讃岐を追われ、この城の城主も仙石氏、尾藤氏、生駒氏と変遷した後、生駒氏の本拠移転で廃城となったという。

 

 高松道を引田ICで降りると海の方向に走る。引田城は海沿いの丘陵の上にある。2カ所ほどアクセスルートがあるとのことだが、北側の田の浦キャンプ場の方向に向かって車を走らせる。途中で駐車場と案内看板があるのでそこで車を駐車、すぐ手前に北の郭方面に通じる登り口があるのでそこから城内に登る。

左 北の郭への登り口  中央 ひたすら階段を登る  右 内部は鬱蒼としている

 最初はかなり急な登りだが、標高自体はそう高くないのですぐに水平移動が主になる。引田城があるのは山と言うよりも丘の上であり、その尾根上に放射状に広がっている形態になる。上がったすぐのところが丹後丸と呼ばれる曲輪であるが、一面が鬱蒼とした森林になっていて城内という雰囲気ではない。それに難儀なのがとにかくクモの巣が多いこと。しかもその規模がかなり大きく、巣の主もかなり巨大。クモが苦手な者ならこれだけで脅えて引き返しそう。私とてクモが得意ではないが、それに脅えていたら山の中など歩けないので、登山杖でクモの巣を払いながらの前進となる。

北の郭の石垣上部にはブルーシートが被せてある

 さらに進むと前方にかなり立派な石垣が見えてくる。これが北の郭の石垣のようである。高さは数メートルもある巨大なものだが、老朽化が著しいので触ったら崩れてきそうな恐怖感がある。実際に崩落の危険があるらしく上部にはブルーシートが被せてある。本格的に崩落しないうちに早急なる整備を期待したいところである。

左 この辺りが中央部  中央・右 南方方向に東の郭を進む

左 東の郭の先端の櫓  中央 海が見渡せる  右 下に見えるのが引田灯台

 ここを抜けたところが中央の櫓部分。城はここから放射状に広がっている。南方方向に城郭の主要部が延びているようだが、まずは先に灯台のある東方向に向かって歩く。どん詰まりは一段高くなっていて櫓跡のようである。ここからは海を望むことが出来る。ここからさらに灯台に降りていけるようであるが、私は灯台には興味がないので引き返すことにする。

西の郭は鬱蒼としていてわけが分からない

 中央部まで戻ってくると今度は南方に向かって歩く。この辺りは面積も広く城の中心的な雰囲気がある。その先が西の郭。ここにも石垣があると聞いていたのだが、辺りが森林で鬱蒼としていて確認できず。またいよいよクモの巣がひどすぎて奥に分け入る気もしない。

左 降り口を通過する  中央 この辺りが南の郭  右 この辺りは天守台

左 さらに先はやや下っている  中央 先端が見えてきた  右 先端の櫓跡

 この先に降り口があるが、そこを無視して南東方向に折れるとそこが南の郭。途中に天守台と呼ばれる部分があってやや小高くなっているものの、その形態はあまりハッキリしていない。そこからさらに若干下った先がこれまた櫓跡。

 

 海に突き出た丘陵上に位置する城郭であるので、海上に睨みをきかせるのには最適の配置である。それほど巨大で凝った造りという印象の城郭ではないが、面積としては意外と広く、この高地にこれだけの平地があるということに不思議な感覚も抱かされる。

 

 ただ城郭としては案内看板もほとんどなく、どちらかと言えばハイキングコース扱い。それにしてもあまりのクモの巣の多さはほとんど人が来ていないことも感じさせられ、何となく忘れ去られてしまった城郭という雰囲気が漂う。ただの山としてではなく、遺跡としての観光整備も考えても良いように思われるのだが(木をいくらか払うだけでも大分印象が変わると思うが、そうすると今度は自然公園としての価値が落ちるのか)。

白壁が目立つ井筒屋敷

 引田城の見学の後は城下の方に向かう。引田には古い町が残っているらしいので、そちらの方に車を走らせる。まずは井筒屋敷の見学。井筒屋敷はかつてこの地で醸造業を営んでいた商家である。かつてはここで引田醤油が作られていたらしいが、今ではここは利用されておらず、現在では市が建物を引き取って観光拠点として公開しているとか。内部は今では土産物屋や町民会館のようなものになっている。屋敷も公開しているようだが、時間の関係でパスする。

赤壁が対照的なかめびし屋

 白壁の井筒屋と対照的に赤壁の建物が隣のかめびし屋。ここは今でも醤油の販売などを行っているようだが、飲食店も経営している模様。よくよく考えると今日はまだ昼食を摂っていなかったので、かなり遅くなったがここで「もろみうどん大(600円)+焼きおにぎり(200円)」を注文する。

   

 もろみうどんは真っ黒なもろみを出汁に溶いて食べるうどん。いわゆる生醤油うどんよりもさらに濃厚な風味。こうして食べるともろみにはかなりの旨味が含まれていることが実感できるが、ただいささかしょっぱいというのも事実。なおうどん自体は一応は讃岐うどんであるが、やはりどちらかと言えば醤油が主役。ただ麺の口当たりは非常によい。

 

 うどんを食べた後は町並みを車で走り抜けてから次の目的地へ。引田にこのような古い町並みが残っているということは事前に把握していなかったので見学の時間を十分に取れなかった。また機会があれば再訪したいところ。

 

 さてもうかなり日が西に傾いてきた。しかし今日中に終わらせておかないといけない予定が1つ残っている。高松道を高松まで急ぐ。久しぶりの高松であるが、やはり市街は渋滞などがあって走りにくい。ようやく目的地に到着した時には5時頃になっていた。

 


「ウルトラマンアート展」高松市美術館で10/28まで

  

 日本の特撮史に燦然と輝く傑作がウルトラマンであるが、この作品は天才・円谷英二を中心に、彫刻家の成田亨、画家の高山良策といった美術スタッフが造形などで参加し、怪獣デザインなどに大活躍しているのが知られている。このような造形面でのアートサイドからウルトラマンという作品に迫ろうという展覧会。

  

 ということではあるのだが、内容的にはごく普通の「ウルトラマン展」というのが実態だったりする。いきなり入口からウルトラマンにウルトラセブン、さらにはバルタン星人などが立っているのには泣かされるが、ちゃぶ台に向かうメトロン星人がなかなかにシュールである。

 

 これ以外にも実際に撮影に使用された模型や、やはり美術展ということで怪獣のデザイン画なども展示されていて、特にファンというわけでなくてもなかなか楽しめる内容になっている。


 

 これで今日の予定は終了である。後は宿泊ホテルに向かうだけ。今日の宿泊予定ホテルは坂出プラザホテル。元々安価なホテルであるが、宿泊補助を利用することでさらに破格の価格で宿泊可能であることから選択したホテルである。チェックインするとシングルルームに通される。しかし「狭い・・・」。まあ宿泊料は格安だったし、ここは寝るだけだから部屋はどうでも良いが。

 

 とりあえず入浴。ここには最上階に展望大浴場があるとのことだが、その前に姉妹館の温泉浴場を利用することにする。ここの姉妹館は車で5分ほどの距離にある「瀬戸内荘」。車でひとっ走りすると人気があるのか駐車場は一杯。ようやく車を止めてフロントで大浴場の場所を聞くと露天風呂で入浴。ナトリウム炭酸水素塩泉でいわゆる低張性アルカリ泉。意外とヌルヌル感の強いなかなか良い湯。展望浴場になっている内風呂と違い、目隠しされていて眺めは良くないが、開放感はなかなかで湯あたりしやすい私にはありがたい。結局はここでマッタリとする。

 

 正直なところここの湯に浸かれただけで宿泊料の元が取れてしまったという感じ。ゆったりくつろいだ後は市街地に夕食のために繰り出す。しかし地方都市の常で中心商店街は今一つ活気がない。とりあえずイオンの駐車場に車を入れると商店街へ・・・と言っても実際は半シャッター街。結局は目に付いた「お食事処鹿野」に入店する。

 

 注文したのは「ハゼの酢の物」「おにぎり」「ジャコ豆腐サラダ」「天ぷら盛り合わせ」「アジのタタキ」。特に驚くようなものはなかったが、いずれも普通に美味しいというところ。以上で2350円。CPはなかなか良い。居酒屋と飯屋の中間のような店で、酒を強要されないのが個人的にはポイントが高い。

 

 夕食を終えるとイオンで飲み物や菓子を調達してからホテルに戻る。ちなみに紳士服のコーナーを覗いたら、やけに大きなサイズの商品が揃っているのが印象的。もしかしてうどん県住民は、その食生活のせいで肥満が多いのか?(と思って調べてみたのだが、どうやらむしろ肥満比率は低い方らしい)

 

 ホテルに戻るとしばしテレビを見ながら休息してから、早めに就寝することにする。今日はハードすぎたのか、かなり身体に疲れが残っている。

  

☆☆☆☆☆

 

 

 翌朝は6時半に起床。しかし体が重い・・・。やはり私の体力では山城連チャンはキツすぎたようである。当初予定では朝一番から山城攻略を考えていたのだが、この状況ではとても無理そうである。これは予定の変更をせざるを得ない。

 

 7時からホテルで朝食を摂ると、展望大浴場でマッタリ。その後はしばし部屋で時間をつぶす。今日は丸亀から塩飽島に船で渡るつもりだが、その船の時間が7時40分と10時40分。前者はあまりに早すぎるので後者を利用するつもりなのだが、そうなると今度は時間がやや遅い。そこで当初予定ではその前に山城に立ち寄るつもりだったのだが、それをあきらめた以上はフェリーの時間までをつぶす必要がある。結局は部屋でテレビを見ながらボンヤリすることになる。

 

 10時前になってチェックアウト。ここから丸亀港までは10分程度なのですぐに港に到着する。しかし車をどこに止めて良いのか分からない。とりあえずそこらに車を置くとチケットを購入して、その時に駐車場の場所を聞く。どうやら道路の南側に市営駐車場があるとのこと。とりあえずそこに車を置きに行く。

丸亀フェリー
 

 10時40分発の便はフェリーである。しかし乗り込んだ車は軽自動車が一台だけ。フェリーは定刻に丸亀港を出ると、瀬戸大橋を横目に見ながらゆっくりと塩飽本島を目指す。大小様々な島からなる塩飽諸島は古来より瀬戸内水運の要であり、戦国期には塩飽水軍が勢力を張っており、江戸時代にも自治領として御用船方から選ばれた年寄が勤番所で政務を執ったという。操船に長ける塩飽島民は各地に水夫として出稼ぎに出ており、咸臨丸の水夫の50名中実に35名が塩飽島民であったという。明治以降は漁業が主要産業となるが、徐々に地域の過疎化が進んで今日に至る。今では塩飽諸島のいつくかが瀬戸大橋の橋桁の島となっているが、期待した観光も奮っていない状態とか(橋が出来たら観光客は来ずに犯罪者だけが来たという笑えない話もある)。

瀬戸大橋を横目に見つつ、塩飽本島に到着

 フェリーは30分ほどで塩飽本島に到着する。そもそもここに来た目的は笠島地区に立ち寄ること。笠島地区は往年の港町の風情を湛えた町並みが残っているとのことで、重伝建に指定されている。

 

 本島港から笠島地区までは2キロほどあるとのことなので、港でレンタルサイクルを借りることにする。1000円を払って、返却時に500円返ってくるシステム。なおこのレンタサイクルに鍵が付いていないのには驚いた。さすがに島というか、やはりどことなくのどかである。

 

 案内に従って笠島地区方面に向かって走っていると、途中で塩飽勤番所の前を通りかかるので、行きがけの駄賃で立ち寄ることにする。

塩飽勤番所

 塩飽勤番所は先に述べた自治時代の政庁である。建物自体はどこでもある典型的な江戸期のお役所造り。内部は今は博物館的な展示がしてあり、やはり咸臨丸に関する資料が非常に多い。咸臨丸の航海はよりによって100年に1度と言われるぐらいの悪天候に出くわして惨々なものだったらしく、嵐で船室が浸水してしまったため、体調を崩す者が多数出て犠牲者も出たという。ただこの苦難の航海は、後の日本の航海技術の向上のための貴重な経験にもなったらしい。

 

 塩飽勤番所見学の後は、瀬戸大橋を彼方に見ながら海岸沿いを自転車で突っ走ることしばし、ようやく笠島地区に到着する。

 笠島地区は風情漂う集落。港町であるが、ただの漁村とは違って立派な建物が多い。それは江戸時代に廻船問屋として繁栄した家が多いからだとか。しかし廻船業もやがて大阪などに負けて衰退していったのだが、塩飽島の島民は船舶建造技術から大工に転じることでかつての屋敷を手入れしてきたのだとか。ただこの地区も今では過疎化の波に洗われており、住宅の大半は空き家になりつつあるという。残念ながらいずこも同じ地方の衰退状況である。

 

 集落の奥の小高い丘の上に専称寺があり、ここから「笠島城(東山城)」への登城路があるので見学をすることにする。しかし蜘蛛の巣を払い払い登った先は「ただの山」。堀切の跡や曲輪の一部などは残っているが、城としての遺構はほとんどなし。確認のために堀切跡から登ってみたが、その先は鬱蒼としていて何も確認できず。

左 専称寺  中央 笠島城への登城路  右 空堀跡

左 一番北の見張り台らしき場所  中央 この上によじ登ってみたが  右 鬱蒼としていて何も分からない
 

 笠島地区から再び自転車で本島港へと戻ってくると、とりあえず観光センターで昼食に天ぷらうどん。それにしても何もない島である。のどかで良いところではあるが、時間をつぶすには少々つらかったりする。

帰りは高速船で

 結局は見学に要した時間は実質2時間足らず、島への滞在時間は3時間ほどだったので1時間近くを港でつぶしたことになる。惨々待った挙げ句、ようやく丸亀に戻る高速船の出発時刻になる。確かにこちらの船はフェリーと違って速い。水面を泡立てながら高速で進む。ただ速い上に小さい船なのでそれなりに揺れる。船に弱い者ならつらいかも。

 

 丸亀港に帰ってくると次の目的地へと移動・・・といってもこの後は今日の宿泊地である松山まで長駆ドライブするだけである。

 

 2時間近くドライブした後でようやく松山に到着する。今日の宿泊ホテルは私の松山での定宿であるチェックイン松山。例によって大浴場付きで安価な宿泊料がポイントのホテル。駐車場に車を入れるととりあえずはいったん部屋に入ってくつろぐ。

 

 しかしここでゆっくりしてしまうにはまだ早い。とにかく松山を訪問した主目的を達成しておくことにする。ホテルを出ると向かったのは松山市美術館。

 


「ストラスブール美術館展」愛媛県美術館で10/21まで

 

 フランスのストラスブール美術館が所蔵する近代から現代に至る絵画作品を展示。

 

 ゴーギャン辺りから始まって、後期印象派にフォービズム、キュビズムから大戦間の写実主義、最後は抽象やシュルレアリスムを経由して現代アートへという流れで紹介している。

 

 展示作品としては予想していたよりは抽象作品が少なかったという印象。おかげで展示作品は分かりやすくはある。とは言うものの、展示作品は知名度的には今一つのものが多いため、かなりマニアックであるという感を受ける。個人的には実のところは印象派以降のフランス絵画は今一つ私の嗜好とずれているので、あまり印象に残る作品がなかったというのが本音だったりするのである。


 

 これで松山での主目的は達成。後は路面電車でフラフラと道後温泉に向かう。何も入浴するつもりはないが、とりあえず松山に来たら道後温泉本館に挨拶はしておきたい。私は初めて来た時からこの温泉地の雰囲気が大好きなのである。活気があり、風情があり、それでいて猥雑。このあらゆるエネルギーが入り交じったような町は私に元気を与えてくれるのである。

   

道後温泉本館と道後温泉駅

 道後温泉を一回りすると、夕食を摂ることにする。例によって工夫のかけらもないが「味倉」に立ち寄ることにする。恐らく松山市内を探せばもっと良い店はいくらでもあるはずなのだが、正直なところわざわざ探すのが面倒くさい。ここまで来たんだから、もう味倉でいいかというところ。

 

 注文したのは「鯛茶漬け」「あまぎの唐揚げ」「鱧の唐揚げ」。元々はほほたれ茶漬けを注文したかったのだが、鰯の入荷がなかったらしく、代わりに鯛茶漬けを注文した次第。正直なところかなり疲労が来ているので鯛飯よりは茶漬けであっさりと済ませたかったいうのが本音。

 

 「鱧の唐揚げ」は確かに旨いがまあこれは想定内。今回印象が鮮烈だったのは「あまぎの唐揚げ」。あまぎはどんな魚か今一つよく知らないが、とにかく味があって旨い。特に唐揚げの場合は中骨がカリカリの骨煎餅で旨い。やっぱりこの店はいつも来るたびに発見がある。だから何だかんだ言いつつもいつもここに来てしまってるんだが・・・。

 

 最後は鯛茶でしめて終了。何だかんだ言いつつも今回も夕食を堪能してしまった。

 

 夕食を終えるとホテルに戻って入浴。ここのホテルの大浴場は奥道後からパイプで引泉している。柔らかいなかなか良い湯である。入浴を終えてサッパリすると、マッサージチェアで体をほぐす。

 

 入浴後はしばしテレビを見ながらボンヤリと過ごすが、夜も更けてきた頃になると小腹が減ってきたのでラーメンを食べに行くことにする。立ち寄ったのは「麺屋なかむら」。注文したのは「塩ラーメン(650円)」

 

 スープは鶏がら系のようである。ガラスープの場合、ラーメンでは2通りのスープのパターンがある。1つはエグ味も含めてガラのすべての味を出し切るコク系のスープ。もう1つはガラのエグ味は出さずに上品に仕上げるあっさり系のスープ。ここのはこの後者のパターンで、非常にあっさりとしたコンソメスープかと思われるようなスープである。しかしこの嫌味の全くないスープが細めの麺と絡み合うとなかなかにうまい。コク系のスープでありがちな胃にもたれるような部分がないので、「ガッツリ食べたい」と考えている場合には物足りなさを感じるかもしれないが、今回のような「軽く何かを食べたい」と考えている時には最適なラーメンである。

    

 小腹を満たしてホテルに戻ると、かなり疲労が出てきた。調べてみると昨日は山城2つで1万6千歩。今日は山城はないもののやはり1万6千歩。さらに歩数には未カウントの自転車こぎも加わっている。かなり足にダメージがあり、ふくらはぎがつりかけて堅くなっている状態。これは体力の限界である。さっさと眠ることにする。

  

☆☆☆☆☆

 

 

 翌朝は6時半に起床すると7時過ぎに朝食を摂りにレストランへ。レストランは宿泊客でごった返している。その中でさっさと朝食を済ませると部屋で一服する。

 

 さて今日の予定だが、そもそも当初からほとんど予定を入れておらず、重伝建の脇町南町に立ち寄って帰るだけ。そこで疲れていることもあるので9時頃までホテルでゆっくりしてからチェックアウトする。

 

 松山から南下して松山道に乗ると、そこから徳島道を経由して美馬市に向かう。途中で吉野川SAで昼食。スダチソフトをここで頂く。ほのかに柑橘の爽やかさがあり、意外に美味。なおここからは吉野川の遊覧船も出ているとのことなので覗きに行くが、ちょうど船が出た直後だった上にわざわざ遊覧するほどのところでもないと判断されたので帰ってくる。

  スダチソフト

 吉野川SAから美馬ICまでは大して距離はない。ところで徳島道は対面二車線の道路であり、途中に追い越しゾーンがあるのだが、その追い越しゾーンにわざわざオービスを設置してあるのを見かけたのには絶句。交通取り締まりが事故を減らすためではなく、罰金徴収のノルマを達成するためにあるものというのを再確認した。交通警察にしたら、むしろオービスに気づいた車の急ブレーキによる事故でも起これば仕事が増えて万々歳なんだろう。

 

 美馬ICから一般道をしばし東進すると脇町南町に到着する。脇町南町は江戸期に吉野川水運の拠点として栄えた町で、当時の商家が連なるうだつの町並みとして知られている。瓦屋根に漆喰の塗り壁というのは中世の耐火建築だが、従来は城郭や武家の屋敷などにしか用いられなかったこの作りが、江戸時代には町の防火対策として庶民にも許されることになり、当時の豪商たちは皆このような建物を建てることになる。うだつというのは漆喰の壁を軒先に張り出したもので、隣家から軒先を通じての延焼を避けるために設置されたものである。つまりうだつを持つような屋敷を建てられる者は、それなりに財を成して身を立てた者であるので、いわゆる立身出世を成すことが「うだつが上がる」と言われるようになった。ただ現実には厳しい世の中を反映してか、「うだつが上がらない」と用いられる方が多いようだ。

  これが「うだつ」

 近くに設置されている観光用臨時駐車場に車を止めると、うだつの町並みを見学することにする。日曜日ということもあるのか、美しい町並みを見学するために多くの観光客が訪れている。うだつの上がった町並みは、「うだつの上がらない人生」の生きた見本のような私にはまぶしい限りである。

 途中で川田光栄堂に立ち寄ると、地元菓子である「麦団子」を頂く。香ばしい柏餅という感覚。

 

 重伝建地域の中には観光開発が進んでいる地域と、全く観光開発されていない地域とがあるが、ここは観光開発が進んでいる方。あまりに露骨に観光地化していると興醒めするが、この程度は観光地化している方が地元も潤って良いであろう。何事もバランスである。

 

 町並みを見学するとここに来る途中で見かけた「←岩倉城」という看板が気になったのでそちらに向かうことにする。案内表示に従って車を走らせると、高速道路脇の路地をクネクネと走らされた挙げ句に畑の脇で車を降りさせられる(二台分ぐらいの駐車スペースがある)。

左・中央 ここで車を降りさせられる  右 岩倉城遠景

 そこから数十メートルぐらい歩いた先が城の入口。しかし道らしきものはあるものの、下草が生い茂って軽いジャングル状態。とりあえず下草を踏みしめて、クモの巣を払いつつ進む。

  入口はこの状態

 そこを抜けると山道という風情。右手に小高い山があってその中が曲輪跡らしく想われるのだが、とても入っていける状態ではない。そのまま進むと開けた場所に出て、何やら倉庫のような建物と案内看板が立っている。

左 山道を進む  中央 何やら小屋が見える  中央 ここが本丸跡らしい

 案内看板によると、岩倉城跡古くから阿波西部の防衛拠点とされていた城郭で、古くは1267年に阿波国守護の小笠原長房が居城としていたと言われているが、正確な築城年代は不明。また往時には六坊を備えた巨大な城郭で、三好康長が城主をつとめていた時期もあるとのこと。しかし今では地形改変で本丸跡の一部分(つまりここ)が残っているだけとのこと。

 

本丸からの風景

 ただこの地は東南方に先ほどの脇町及び吉野川を見下ろせる要地であり、この地を守る防御拠点となっていたのは頷ける。実際には周辺の脇城などと共に防御拠点を形成していたらしい。ただ次第に主たる機能は脇城の方に移っていって、この城の重要性は徐々に下がっていって廃城となったとか。

 

 これで本遠征の全予定は終了。薮をかき分けて車のところに帰ってきたのだが、その時にはスボンの裾がひっつき虫だらけで悲惨なことになっていたのだった・・・。

  ズボンの裾が悲惨なことに・・・

 結局は気分転換のための中規模遠征と言ったところ。心身共にかなりまいっていたので、とにかく無理は避けて余裕のあるスケジュールにしたつもりだったが、それでも結構身体に負担があったのは私の貧乏性のせいか、それとも想像以上に体力が低下してしまっているせいか。しかしこうして改めて回ってみると、もう既に視察は終わったと思っていた四国でも、まだまだいくらでも行くべきところはあるもんだなと再認識。またやはり私は松山とはかなり相性が良いことを改めて再確認した次第。ちなみに私が全国で相性の良さを感じている街は、まず第一が松山。後は金沢、松江、広島、長崎、熊本、函館などである。やはり城下町と路面電車がある街が多いが、一番は「うまいものが食える」ということでもあるようである。

 

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