展覧会遠征 北関東・東京編

 

 東京方面は春の催し物が相次いでいる。「ラファエロ展」「ルーベンス展」などはずせないイベントが目白押しの状態。私としては当然ながら東京遠征を実行しないといけないタイミングである。ただ東京の美術館を押さえるだけなら土日の一泊二日で十分であるのだが、なぜかそれだけだと物足りない気持ちがよぎる。正直なところ先週来仕事が異常に厳しい状況が続いており、それがようやく一段落付いた今は思い切った気分転換がしたいと考えているところ。そうして見ていると水曜日の祝日がやけに気になってきた。そこで頭に浮かんだのは、「えいっ、いっそのことぶち抜きで休んでしまえ!」という荒技である。

 

 ただ休むは良いが、そうなると何か計画を立てる必要がある。貧乏性が信条になっている私としては、五日間かけて東京の美術館をゆったりと回るなどという優雅な選択肢は元よりない。検討の結果浮上したのは、東武線を中心に北関東を回るというプラン。そもそも以前より東武の北関東方面の路線は気になっており、いつかじっくりと回ってみたいと思って二泊三日プランでそのタイムスケジュールは以前にあらかた立てていたのである。この際にそれを実行しようと思いつき、このプランを中心に実行計画を練ることになった。

 

 こうして綿密なタイムスケジュールが立てられたはずだったのだが・・・そのプランは実行直前になって大幅変更になった。東武ではこの3月16日から新ダイヤということで、私が乗る予定にしていた列車の数本が廃止になってしまったのである。実はそれに気づいたの出発の2日前。大わらわで計画を全面的に練り直すこととなった。それにしてももし気づいていなければ、当日になって列車の来ないホームで呆然と立ちつくす羽目になるところだった。やはり直前でのスケジュールの再確認は必要である。こういった細心の注意がプランを成功に導く原動力である。私のこの細心さが本業の方で発揮されていたら、今頃部長ぐらいにはなっていただろうに・・・。

 

 火曜日の仕事を終えると東京に直行、明日は早朝から活動を開始する予定なので東京で前泊である。宿泊ホテルは例によってホテルNEO東京。この安価なホテルのおかげで最近は東京前泊が毎度のパターンとなってきた。

  

☆☆☆☆☆

 

 

 翌朝は5時半に起床、手早く朝食を終えると身支度を済ませてチェックアウト。今朝は何となく空がすっきりしないので天候が気になるところ。地下鉄日比谷線と銀座線を乗り継ぐと浅草へ移動する。

 東武浅草駅

 東武浅草はゴミゴミとした市街の中の地上駅。特急りょうもうは3番線に止まっているが、まだ早朝のせいか車内は閑散としている。浅草を定時に出発した列車は、まずはスカイツリーの足下にあるスカイツリー駅(旧業平橋駅)を通過すると北千住に到着する。

特急りょうもう

 北千住は多くの路線の乗り換えターミナルだけに乗客は増える。とは言ってもまだ車内は30%も乗車していない。次の停車駅の東武動物公園までは沿線はべったりと市街地。

 東武動物公園を過ぎると沿線に畑が増えてくる。JRとの乗り換え駅である久喜、前回に秩父鉄道に乗り換えた羽生を通過するといよいよ未視察地域。次の停車駅は館林である。

 館林以降の沿線風景

 この辺りになると列車は畑の中を疾走するイメージになる。ただ乗り心地は正直なところあまり良くない。やはり路盤の整備に関してはJRに一日の長があるか。とにかく左右の細かい揺れが多い。

 太田市

 館林を過ぎた頃から単線の待ち合わせが多くなり、覿面に運行速度が落ちるようになる。各駅ごとにすれ違いがある印象で、ドアが開かないだけの普通列車といった趣になってくる。足利市駅を過ぎると沿線随一の大都市といった趣の太田。ここの北側にはいかにも城郭にうってつけの山があるが、その上にあるのが以前に訪問した金山城。

 

 太田を過ぎると伊勢崎戦から桐生線へと移る。桐生線沿線は太田の市街地を過ぎるとしばしは畑の中。それにしても北関東は見渡す限りの平地で畑が多い。昔から上州名物はカカア天下と空っ風と言われているが、これだけ平地で遮る物がないと空っ風も吹くものである。また地形的に小領主同士の境界争いが多くなるだろうから、男連中は勢い戦で手一杯で、家を守る妻の重要性が増すということでカカア天下になるんだろうなどと想像する。

 相老手前でJRを越える

 JRの両毛線を立体交差で乗り越えると、わたらせ渓谷鉄道との共用駅である相老。ところでこの駅名、山陽新幹線の「なんでこんなところに新幹線が止まるんだ?」と言われる駅(有力政治家による典型的な我田引鉄らしい)と同じ読みである。

左 終点赤城で乗換  中央 上毛電鉄車両  右 何やら内部はゴテゴテと装飾されている

 相老を過ぎるとやがて前方に見えてくる線路が以前にも乗車したことがある上毛電鉄。終点の赤城は上毛電鉄との共用駅であり、東武桐生線は途中から上毛電鉄と併走することになる。赤城に到着すると、ここで西桐生行きの列車に乗り換える。上毛電鉄に乗車するのは久しぶりだが、車内がなにやら賑やかに装飾されている。

  

上毛電鉄西桐生駅とJR桐生駅

 西桐生駅に到着するとJR桐生まで移動、トランクはコインロッカーに入れて身軽になる。さてこれからの予定だが、わたらせ渓谷鉄道を視察するつもり。わたらせ渓谷鉄道は国鉄足尾線を引き継いだ第三セクター路線である。足尾線は元は足尾銅山の鉱石輸送のために引かれた足尾鉄道で、1918年に鉱石輸送を重視する国策によって国有化された。しかし足尾銅山の閉山によって鉱石輸送が消滅、沿線の衰退に伴って収益が悪化、国鉄再建の際に切り捨てられることになったことから第三セクター化された。しかしその後も経営状態は芳しからず、常に存廃論議が持ち上がっているというのはいずこも同じ状況である。

  

わさらせ渓谷鉄道車両

 終点の間藤までの乗車券を購入すると1番ホームへ。ホームに待っているのは単両のディーゼルセミクロスシート車。地方ローカル線でよく見かけるスタンダードタイプの車両である。

 

 正直なところガラガラかと思っていたが、車内は意外と乗客がいる。桐生を出た列車は次の下新田駅(本当に小さい駅だ)を過ぎたところでJRと分かれて北上、次の相老で東武と隣接する。ここで乗り込んで来る乗客が10人程度。列車はしばし市街地を抜けつつ大間々へ。ここがこの路線の主要ターミナルらしく、留置線に止まっている車両が多数。中にはトロッコ列車の車両も。ここで数人が乗り込んできて車内は満員。

 登録有形文化財の上神梅駅

 大間々を抜けた辺りから列車は渡良瀬渓谷沿いを走るようになり、それと共に急激に沿線が閑散としてくる。大正に建てられた駅舎が国の登録有形文化財に指定されているという上神梅を抜け、沿線は完全に川だけ。雰囲気としては山口の錦川鉄道と類似している。

 

 水沼駅は駅舎内に温泉センターがあるようで、長良川鉄道のみなみ子宝温泉駅を思い出す。車内にはアテンダントが乗車していて、観光案内とグッズなどの販売を行う。少しでも収益を上げようという苦肉の策で、これもどこの地方三セクでもよく見かける光景。私もお布施としてキーホルダーを購入しておく。沿線ではいわゆる撮り鉄の姿もチラホラ見かけるが、果たして彼らはいくらかでも鉄道会社にお金を落としているのだろうか?

左 神戸駅  中央 ここで車両交換  右 清流レストラン

 各駅で降車は1,2人ぐらいはあるが、基本的に乗車はほとんどなし。まとまった降車があったのは神戸駅。なお神戸と書くと普通は「こうべ」と読むが、ここのは「ごうど」。ちなみに愛知の豊橋鉄道にある同じ字の駅は「かんべ」。神戸駅には車両を利用したレストランがあり、またこの駅から富弘美術館行きのバスが出ている。今回は私もここに立ち寄る予定だが、それは復路で。

 渡良瀬川上流の風景

 神戸駅で対向車と交換待ちをしてから出発。神戸を出るといきなりかなり長いトンネルをくぐり、その合間で鉄橋で川を渡るので、今まで右側にあった渡良瀬川が左側に移る。この辺りから川の風景も巨石がゴロゴロと転がるダイナミックなものになるが、その石が真っ白なのが特徴的。この辺りで産する御影石らしい。

 足尾の精錬所跡

 川を見ながらしばし走行して、鉄橋で再び川を渡った辺りから周囲に民家が増えてくるとまもなく通洞。ここが足尾銅山観光の最寄り駅で足尾の実質的な中心駅でもある。ここで残りの乗客のほとんどが降車、数人残ったのは明らかに鉄オタっぽい連中ばかり。これもよく見る光景である。

 

 次の足尾駅は名前からすると足尾の中心のような気がするが、実際は町並みのはずれの閑散とした無人駅。ここからさらに山の奥に進んだところが終点の間藤である。

  

終点間籐駅

 さて終点までたどり着いたがこれからどうするか。他の鉄オタっぽい連中は折り返しの列車が30分後に発車するのを駅で待つ気配。しかし私は通洞駅まで2キロ程度であるということから歩いてみることにする。2キロ程度ならいつも昼休みに歩いている距離程度。特に起伏もないようだし、ざっと見積もって30分というところである。特に最近は仕事の疲労が異常に溜まったり、天候が悪かったりでしばしウォーキングをサボっていたので、この際に運動がてらに足尾の視察という次第。

間藤から歩く
 

 実際に歩いてみた足尾の町は車窓から眺めるよりもさらに寂れた印象を受けた。銅山で賑わった足尾も閉山後には核がなくなってしまっているのだろう。観光立地を目指しているようだが、それが軌道に乗っているようには到底見えない。どことなく炭鉱閉山後に観光立地を目指して失敗した夕張がかぶる。救いは夕張と違って大型投資をしていないことであるが(だからこそ核がないとも言えなくもないが)。

左 古河の迎賓館  中央 足尾駅  右 足尾の風景

左・中央 足尾の町並み  右 通洞駅
 

 通洞駅に到着したのはちょうど列車が間藤を出る頃。どうやら列車に先行できたようだが、何もそれが目的で歩いたわけではない。ここからさらに歩いて足尾銅山を見学しておくことにする。

左 足尾銅山入口  中央 このトロッコに乗ることになる  右 こんなところにまで萌えが・・・

 入場券を購入すると、構内へはトロッコに乗って降りていくことになる。かつての銅山の労働者もこのようなトロッコで坑内に入ったらしい。トロッコは天井が低くて頭が当たりそうである。

左 最初は機関車にひかれて降りていく  中央 機関車は途中で切り離し  右 ここからはトロッコが自走して坑内に突入

左 行き止まりでトロッコは停車  中央 この先は立ち入り禁止  右 引き返して展示を見学する

 坑内駅で降りると坑内展示を見学することになる。ここからまだ先に長い坑道が続いているようだが、それは立ち入り禁止。展示は生野銀山なんかと同じで人形による採掘風景の復元。足尾銅山は江戸時代から採掘されており、罪人も含めて多くの者が働かされていたらしい(佐渡の金山と同じである)。しかし幕末には採掘量が減少してほぼ閉山に近い状態になる。その後、民間に払い下げられたこの鉱山を経営したのが古川財閥の創業者である古川市兵衛。彼は採掘に新技術を投入、さらに新鉱脈も発見されたことで足尾銅山の産出量は飛躍的に増加、日本の近代化を支えることになる。

坑夫の皆さん(江戸時代編)

坑夫の皆さん(明治・大正編)

坑夫の皆さん(昭和編)

 というような内容が展示の大体のところ。ただしこれらはすべて足尾銅山の光の面であり、足尾銅山といえば忘れてならない陰の面は田中正造の伝記などで知られる足尾鉱毒事件。これは日本の公害問題の原点とも言われる事件である。銅山側は当初は責任を全否定、やがてそれが不可能になると渋々部分的に認めるが対策は不十分、その内に国家権力が介入して運動潰しが始まって最後は有耶無耶といった展開は、その後の数々の公害問題や現在の東電福島原発の放射能漏れにまでつながる構図である(今の政府は東電とズブズブの上に原発利権にまみれているので、明らかに有耶無耶にしようとするだろう)。

当時の設備などの展示 右は当時の看板

 それにしても坑道内は狭くて圧迫感がある。私は強度の高所恐怖症とかなり強度の先端恐怖症はあるが、幸いにして閉所恐怖症だけは全く持ち合わせていないので大丈夫だが、少しでもその気がある者なら息が詰まるだろう。

左 坑内の圧迫感は半端ない  中央 表に出てくるとホッとする  右 坑道入口

 坑内展示を一周してレストハウスまで戻ってきたところで、ここの食堂で一応の昼食を摂っておく。当初予定では通洞駅前で昼食を考えていたのだが、足尾の町は予想を超える寂れっぷりで飲食店が見当たらなかったためである。ただここのレストランもメニューが限られているので、やむなく本来ならNGメニューのラーメンを食べることに。

  昼食のラーメン

 ラーメンは可もなく不可もなくだが、CPが良くないのはこういう場所の常というところ。なおなぜかラーメンにコーヒーがついてきた。

左・中央 レトロ感タップリの通洞駅内  右 硬券切符である

左 ホーム  中央・右 車両が到着

 昼食を終えると通洞駅に戻る。間藤方面からやって来た車両は往路で乗車したものと違ってフルクロスシートの車両である。これで神戸まで移動する。

    神戸駅で下車

 神戸駅で下車すると駅前からバスに乗車、これで富弘美術館を目指す。富弘美術館は巨大ダム湖のほとりの風光明媚なところに建っている。

  富弘美術館

 富弘美術館は事故で手足の自由を失った星野富弘氏が、口に筆をくわえて描いた作品を展示した美術館。緻密に描かれた絵画は口で描いたとは思えない。よくある障害者アートは、明らかに健常者よりも劣っている作品を「こんな障害を持っているにも関わらず、ここまで作れたんですよ。だから感動してください。」と押し売りっぽい場合が大抵だが、彼の作品がすごいのは障害云々抜きでも作品として明らかに優れていること。星野氏の作品は熊本の芦北町の星野富弘美術館でも見たことがあるが、草花に生命力がみなぎっている。よくまあこれだけ描き込んでいるものだと感心する。

 

美術館からの風景

 なお富弘美術館は丸い部屋が連なった独特の構造なので、中で回っていたら目が回ってくるというか現在地を見失ってしまう。面白いつくりではあるが、正直なところ私は妙に疲れてしまった。

  

路線バスで駅まで戻ると神戸駅から再び列車移動

 再びバスで神戸駅まで戻ってくる。今度やって来た列車はロングシートタイプ。どうもわたらせ渓谷鉄道で運行されている列車はタイプがまちまちのようだ。このことが鉄道マニアを呼び寄せるのか、とにかく駅などにいわゆる撮り鉄の姿が多い。

  

左 温泉施設のある水口駅  右 桜満開の大間々駅

 神戸以南は車内は満員状態。帰りは桐生まで行かずに相老で下車する。ここから東武に乗り換えて視察を続けようという考え。まずは赤城からの普通列車で東小泉を目指す。列車は太田でしばし待たされた後に小泉線に突入。次の停車駅の竜舞の辺りまでは太田の市街が続くが、竜舞を過ぎた辺りからは畑の中を走ることに。東小泉で西小泉行きの列車に乗り換え。ここの沿線も基本は畑だが、西小泉の駅周辺には住宅の密集がある。

相老駅で東武に乗換

左 竜舞駅  中央 東小泉駅  右 西小泉駅
 

 西小泉からは折り返しで館林に向かう。この沿線は館林の手前まであまり住宅は多くない。この路線がローカル線扱いなのが何となく分かる気はする。

左 成島駅  中央 館林に到着  右 佐野線に乗り換える

 館林では行き止まりの路線に入線。到着車両はここで折り返す模様。私はここで佐野線に乗り換えることにする。佐野線はローカル線のイメージに反して佐野までは結構沿線住宅は多い。また佐野は私のイメージにあった以上に大きな町。ただ佐野を過ぎると沿線は急に山間めいてくる。特に終点の葛生の手前では住宅もあまりないような地域がある。またこの辺りはセメント工場が多いようだ。渡瀬渓谷の大理石といい、この辺りは石灰岩が多く産出するのだろう。

左 佐野駅  中央 佐野駅以北の沿線はこんな雰囲気  右 葛生駅に到着
 

 葛生から引き返すと佐野でJR両毛線に乗り換えて桐生に戻る。桐生に到着した頃には既に日は暮れていた。ロッカーからトランクを回収すると、今日の宿泊ホテルである「桐盛館」に向かう。ちなみにこのホテル、私はすっかり「きりもりかん」だと思いこんでいたのだが、「とうせいかん」と読むのが正解らしい。

 

 ホテルに入って荷物を置くと夜の町に繰り出す。ワイヤレスマウスに無線LAN、さらにiphone5を充電につないだらノートPCのUSBポートが足りなくなっているので、まずは近くのメガドンキホーテに立ち寄ってUSBハブを入手。なおこのメガドンキホーテ、明らかに建物の造りは百貨店で、この店の前のバス停の名前が「長崎屋前」となっていることからすると、元々は長崎屋だったらしい。後で調べたところによると、経営破綻した長崎屋がドンキホーテに買収され、今では各地の長崎屋がメガドンキホーテに改装されているらしい。低迷する日本の小売り現場の現状を反映している。大量生産大量消費を前提としたアメリカ型商業主義の落日の一端のような気もしないではない。地産地消を前提とした地域共生型経済主義に社会のメカニズムを切り替えられないものか。その方が地球環境との調和性も高いと思うし。そう考えるとやはり私の立場はTPPには反対である。あれは既に破綻しつつあるアメリカ式弱肉強食経済主義を世界に押しつけようというだけの協定であり、破綻に瀕しているアメリカ(ごく一部の富裕層のためだけの国家)の生き残りのための悪あがきでもある。このままでは後に残るのはごくごく一部の超富裕層と大多数の貧民がひしめく不毛の世界であるのが見える。

 

 必要アイテムを入手すると次は夕食を摂る店を探す。しかし桐生駅周辺には飲食店があまりない。結局はいかにも大衆食堂という印象の「万友亭」に入店。「和風ハンバーグ定食(650円)」を注文する。

   

 丼にタップリと盛られたご飯がいかにも大衆食堂。ハンバーグの味はまあまあなので、CPとしてはかなり良いとは言える。つまりは典型的な「普段使いの店」。ただ今の私にはこの大盛りのご飯が恨めしい。結局は罪の意識を感じつつもほとんど残す羽目に。

 

 帰りにコンビニに立ち寄ってサラダと明日の朝食を購入すると、ホテルに戻って大浴場で入浴、身体の汗を洗い流してサッパリすると、しばしマッタリしつつ明日の計画を練り直してから就寝する。

  

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 翌朝は6時に目覚めると朝食を済ませ、すぐに外出する。目的は重伝建の桐生新町の訪問。しかし今朝は昨日と一転して朝から肌寒く、その上にかなりの強風。町を歩いていると倒れた幟や舞い上がるゴミ(中にはどこかからか飛んできたトタン板といった大物も)などに遭遇。この悪条件の中を早足で通り抜ける。

  朝から強風が吹きすさぶ

 桐生新町は江戸期からの商家などが残る町並み。また町割り自体は江戸期にこの町が作られた時のものをとどめているとか。確かにところどころにかなり年代を感じさせる建物が残っている。町自体のベースは江戸期であるが、明らかに明治以降と分かる建物も混在しており、それらが渾然一体となって町並みを作り上げている。この町並みをグルリと一回りして帰ってくる。

新旧が渾然一体となった感のある桐生新町の町並み

 ホテルに戻るとまずは冷え切った体を大浴場で温める。寒風の中で芯まで身体が冷え切ってしまっている。熱い風呂でようやく体が温まったところで一休みしてからチェックアウト。まずはバスで東武の新桐生駅に向かう。

  新桐生駅

 桐生の市街地はJR桐生周辺と新桐生周辺に二分されているようだ。それが結果として桐生市の市街地が広いという印象を与えることになっている。新桐生に到着すると、ここから太田に向かう。

  太田駅はターミナル

 太田からは伊勢崎線で伊勢崎に向かう予定。しかしここでの乗り換え待ちが30分。しかもホームは吹きっさらしで体が震えるほど冷える。周りを見渡すと全員寒さがかなりこたえている模様。私は寒さを警戒して厚手のジャンパーを着てきたのだが、これでも防寒装備としては不十分。ようやく列車が到着した頃には体は完全に冷え切ってしまった。車内に入るとトランクを開けて非常用の防寒着として持参したトレーナーをジャンパーの下に着込む。これでようやく体が落ち着く。風邪をひかなければよいが・・・。

左 ようやく列車が到着  中央 沿線はこんな感じ  右 徳川氏発祥の地の碑

左 境町駅  中央 伊勢崎駅に到着  右 伊勢崎駅舎は仮設プレハブ
 

 伊勢崎までは例によっての畑と民家の混成地。とにかく北関東は畑が多いという印象。それが都会めいてきたら終点の伊勢崎に到着である。伊勢崎では駅前再開発と共に東武伊勢崎駅を高架化する模様で、東武伊勢崎駅は仮設駅舎になっている。

左 ダイヤが滅茶苦茶  中央 ここに東武のホームが来るのか?  右 両毛線車両が到着
 

 ここからJR両毛線に乗り換えて高崎を目指す。しかしJRのダイヤがかなり乱れている。どうやらこの強風で架線にビニルシート(ビニルハウスのものだろうか)が絡まったらしい。結局はその煽りで高崎駅への到着は予定よりも遅れることに。まあ目下のところは当初予定よりも早めに進んでいるのでスケジュールに問題はないが。

 

 高崎に到着するとトランクをコインロッカーに収納し、駅前で適当に昼食を摂ることにする。結局は駅近くの商業ビルのレストランでチキンカツの定食を食べる。可もなく不可もなく、特に印象にも残らずというところ。

 

 昼食を済ませるとこれからは上信電鉄の視察の予定。上信電鉄は高崎と下仁田を結ぶ路線である。以前に高崎を訪問した時に駅を覗いたことはあるものの、その時は時間がなかったので視察は見送っていた。今回はその宿題を果たしておこうとの考え。

上信電鉄高崎駅と車両
 

 ホームには二両編成の電車が止まっている。ロングシートの車内にはそこそこの乗客が乗っている。上信電鉄は「日本一高い私鉄」などとの下馬評もあるが、日本一かどうかはともかく確かに運賃が高い。また保線状態がよくないのか、車体が跳ねるように揺れまくり、乗車感覚はまさに島根の一畑電鉄を髣髴とさせる。また急カーブが多いのも特徴である。

左 山名駅で列車交換  中央 沿線は畑が多い  右 富岡周辺が一番の大都市
 

 線路は最初は高崎の市街地の中を抜けていくが、直に沿線は畑が中心の光景となる。沿線最大の町は富岡市で、後は吉井が住宅が多い程度。実質的には下仁田、富岡と高崎を結ぶための路線である。沿線のモータリゼーションが進んでいる様子が、鉄道経営の将来に暗雲を投げかけているが(いずこも同じ)、乗客に比較的学生が多いようなのがまだ救い。

左 看板にツッコミを入れられる頃から  中央 段々と山岳列車になっていく  右 終点の下仁田に到着

 駅看板に「なんじゃい(南蛇井)」と関西弁でツッコミを入れられる頃にはかなり山の近くにやって来たという印象になってくる。そして次の千平駅辺りから完全に山岳鉄道。今までとは一変して険しい中を比較的長距離走り、ようやく終点の下仁田に到着である。

下仁田駅と下仁田の町並み

 高崎から終点の下仁田まではトータルで1時間ほどを要する。下仁田から折り返しの列車が出発するまで30分ほどあるので駅の周辺をぶらっと見学する。下仁田といえばねぎとこんにゃくだそうだが、昭和レトロムードの漂う町並みも決して悪くはない(ただの寂れた田舎町と言えなくもないが)。

  上州富岡駅も仮駅舎

 30分後に折り返しの列車に乗ると今度は上州富岡で途中下車する。やはり上信電鉄に乗ったからには富岡製糸場を見学しないわけには行かないだろうという考え。なお富岡製糸場は世界遺産推薦の暫定リストに入ったとのことで、地元では富岡製糸場を世界遺産にとかなり盛り上がっているようだ。

 これが町のスローガンの模様

 やや昭和レトロ感のある富岡市街を徒歩で抜けると10分程で富岡製糸場に到着する。入口で入場券を購入すると、もうすぐガイドツアーが始まるとのことなので、それに参加することにする。

 

 富岡製糸場は、殖産興業を進める明治政府が製糸業の近代化のための模範工場として設立した工場である。ここで最新鋭の製糸技術を学んだ者達が、各地で指導員として活躍したという。当時の労働者は武家の子女などが多く、地元の期待を一身に背負って出てきたとのこと。また富岡製糸場も模範工場として従業員の労働環境などにも配慮した当時としては画期的なものだったらしい。ただここの技術を導入して各地で設立された製糸場は民間経営ということで利益第一主義のため、劣悪な環境で労働者をこき使ういわゆる「女工哀史」「ああ、野麦峠」の状況が多くなったのは事実である。これも明治期の近代化の光と影である。今でも「民間活力の導入」という合い言葉による民営化は、単なる利益第一主義の守銭奴を跋扈させることになり、ブラック企業の横行など平成の「女工哀史」の世界になりつつある。しかし現政府はそれでもまだ資本家に媚び足りないのか、労働基準法の廃止、サービス残業合法化などのさらなる労働条件大幅切り捨てを目論んでいるようだ(すべては夏の参議院選挙を誤魔化しで乗り切った後に、強行採決で済ませるつもりのようだが)。そのために彼らが目論んでいる憲法改正の本丸は、基本的人権の廃止だとか。まずは憲法改正のための条件を緩めてから、強行採決とマスコミを使っての情報統制による国民の誘導を目論んでいるらしい。確かに最近のマスコミの露骨な安倍賞賛は確かに情報統制が既に進みつつあるのは感じる。なぜかTPP交渉の内容なんかも全く伝わって来ないし(米を聖域どころか、農産物は原則完全自由化。逆にアメリカの日本車に対する関税が聖域化。輸入食料品の安全確保のための規制は漸次撤廃。アメリカの保険業界の利益のために将来的には健康保険の廃止も視野ということで決まりつつあるようだが)。

左 富岡製糸場入口  中央 この建物には繭玉を保管していたとか  右 明治五年と刻まれている

左 レンガに制作者の銘がある  中央 内部は展示スペースになっている  右 同様の建物は西側にももう一棟
 

 富岡製糸場の建物はフランスから技術者を招いて西洋の技術を導入して建築されたという。ただ基本的な材料はなるべく現地調達を目指し、木骨レンガ造りという独特の建築となっている。またレンガなども現地の土で焼いたらしい。ただ当時はまだその技術が未熟だったためにレンガの色などにかなりばらつきがあるとか。またセメントが当時の日本では調達できなかったために、レンガの接続は漆喰を使用したとのことで、セメントよりも色目が白いのが分かる。ただガラスだけは当時の日本では調達できなかったので、すべてフランスから送られたものだとか。

左 紡績所  中央 紡績機が並んでいる  右 トラス構造の天井

左 診療所も完備  中央 設計技師のための邸宅  右 碑
 

 紡績機が並んでいる建物内も見学できる。西洋式のトラス構造を取り入れることによって広い空間を実現した建物内に、ズラリと並ぶのが紡績機。ただしここにある紡績機は当時のものではなくて昭和のものだとか。富岡製糸場は後に民営化されており、民営化後に導入された機械である。これがなんと日産製。当時最新鋭の高性能装置であったらしい。しかし国内生糸生産は人件費の安い中国製に押されて壊滅。富岡製糸場も閉鎖されることになった。昭和62年に操業を停止した後も富岡製糸場は所有者の片倉工業の元で管理され、2005年になって建物が富岡市に寄付され、敷地は2006年に富岡市が購入したとのこと。そうして地元では産業遺跡として世界遺産登録を目指す運動が始まったらしい。

 

 日本の近代史を代表する建物であったから、潰されてマンションになるということがなかったのは幸いである(富岡市が地方であったのが幸いしたか)。ただ世界遺産となると果たしてどうだろうかというのが私の正直な感想。地元のガイドは今年中に世界遺産登録が確実に決定するかのように説明していたが・・・。ちなみに先の足尾銅山も世界遺産を目指しているらしい。世界遺産登録があり得るなら、全部ひっくるめて「明治期における日本の近代化を象徴する産業遺産」というところか。ただ遺産登録するなら、光の面だけでなくて影の面もしっかりと伝えて欲しいが。

 

 富岡製糸場の見学を終えると高崎まで戻ってくる。それにしても異常に疲れた。やはり太田で寒風にさらされ続けたことで体調を崩してしまったか。こころなしか少し寒気がするような気もする。とりあえず今日の宿泊ホテルであるドーミーイン高崎にさっさと向かう。

 

 夕食も遠くまで繰り出す気は起こらないのでホテルの向かいの「まるとび」に入店する。以前の訪問時はここには中華料理屋があったように思うのだが、どうやらつぶれたのだと思われる。そう言えばあの頃からあまり客が多いような印象はなかった。

 

 注文したのは「刺身の盛り合わせ」「海鮮サラダ」「アジのフライ」「豚の生姜焼き」「棒寿司」。いずれも味は悪くない。ただしボリュームはない。トータルで4200円というのはCPとしては若干しんどい。実のところ高崎では未だに満足の出来る飲食店を確保できていない。これは今後の課題でもあるのだが、そもそも今後高崎に再び来ることがあるのだろうか?

 夕食後はデザートでも仕入れようとコンビニを探すが、どうにも高崎はコンビニが少ない。見つかったのはデイリーヤマザキにローソンといった私の「使い物にならないコンビニランキング」の第1位と第2位のチェーンのみ。私はヤマザキの薬の味が強烈にする食品は体が受け付けないので、食品のヤマザキ比率の高いコンビニがすなわち「使い物にならないコンビニ」ということになる。だからもっともよく利用するコンビニはセブン−イレブンである。結局はホテルから大分歩いたところでようやくファミリーマートを見つけて買い物を済ませる。

 

 ホテルに帰ると大浴場で冷え切った体を温める。やはりこれがあってこそのドーミーイン。夜食はメタボの対策の強い味方のタニタ食堂である。夜食を終えてしばらくマッタリすると、体調もあまり良くないのでさっさと就寝する。

  

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 翌朝の目覚めはかなり悪かった。昨日辺りからかなりひどい鼻水で息が苦しくて眠りが浅かったようだ。鼻水に関しては花粉症のもののようにも思われるが(透明で粘性の低い鼻水)、風邪をひいてしまったのかもしれない。ホテルで朝食を摂ったが、どうもどことなく胸がムカムカしている。やはり昨日のあの太田駅での寒行が失敗だった。

 

 ホテルをチェックアウトすると高崎から八高線で寄居を目指す。今日は東武東上線の視察だが、その途中で寄り道をする予定。八高線車両は高崎駅の行き止まりホームに停車している。二両編成のディーゼル車両の車内は学生などでごった返している。ただその車内も数駅目で学生が大量に降車すると一気に閑散とする。八高線はまさに関東平野の外郭をなぞるような路線であり、さすがにこの沿線になると何もない地域も多い。その内にようやく寄居に到着する。

 

 寄居はJRと東武に秩父鉄道も乗り入れている駅である。以前にここを訪問したのは鉢形城見学のためだった。あの時は秩父鉄道のパレオエクスプレスに偶然遭遇して興奮したものである。なお今回の遠征ではパレオエクスプレスに乗車することも考えていたのだが、残念ながらチケットが確保できなかったので今後の機会を狙うことにする。

 寄居で乗換え

 ここで東武の東上線に乗り換える。東武鉄道は近鉄に続いて営業キロの長い私鉄として知られているが、伊勢崎線を中心とした本線と東上線の2つの路線に完全に分かれてしまっているという奇妙な構成の会社でもある。これは離れた会社を合併したことから起こってしまったことだとか。両線の間で車両を輸送する必要がある時は秩父鉄道の線路を経由するとのことである。

 沿線風景

 寄居を出ると最初は市街の中を走るが、やがて沿線が閑散としてきてついには完全に山の中になる。再び住宅が見えてくるようになってしばし進むと小川町。ここはJRとの接続駅でもある。私の乗った列車は小川町までなのでここで乗換になる。

左 小川町で乗換  中央 隣はJR小川町駅  右 東松山で下車する

 乗り換えた後も沿線は郊外住宅地か山である。その内に住宅が増えてきたと思えば東松山。とりあえずここで途中下車する。ここが今日の最初の目的地である。東松山で下車したのは吉見百穴と松山城に立ち寄るため。吉見百穴は古墳時代の横穴墓群遺跡で、岩山に200以上の穴が開けられているという遺跡である。

  吉見百穴

 吉見百穴まではバスが出ているのでロッカーにトランクを置くとバス停に行くが、残念ながらバスはかなり先までない模様。そこでタクシーで移動することにする。東に10分程走って市野川を越えると、多くの穴の開いた岩山が見えてくるのが吉見百穴である。一種異様な光景である。中に極端に大きな穴があるが、これは戦時中に作られた軍需工場の跡だとか。何やらショッカーでも出てきそうな雰囲気があるが、実際に仮面ライダーのロケが行われたことがあるらしく、リアルでショッカーのアジトだったらしい。

左 それにしても穴が多い  中央 一番巨大な穴は軍需工場跡  右 内部はまさにショッカーのアジト

 吉見百穴の存在自体は江戸時代から知られていたらしいが本格的な発掘が行われたのは明治になってからで、発掘を主導した坪井正五郎博士はコロボックルの住居説を主張したらしいが、後の調査によって坪井説は否定されて墓穴であることが定説となったとのこと。坪井の住居説は当時でもかなり反論があったようだが、確かに日本の先住民族としてのコロボックルの存在を引っ張り出して来ている辺りが、いわゆる「とんでも」の臭いがするのは事実である。実際に掘られている横穴は墓穴ならちょうどぐらいだが住居としては狭すぎるのが事実で、だから小人の登場となったのだろうが。

穴の内部はあまり広くなく、落書きなども目立ったりする
 

 吉見百穴の見学を終えると、隣の山上にある「松山城」を見学することにする。松山城は室町時代の中世山城で、この地域に勢力を張っていた上田氏が築城したと言われている。その後、扇谷上杉氏、山内上杉氏、古河公方の三勢力の争いの最前となるが、そこに勢力を拡張してきた北条氏が加わってさらに激しい戦いに巻き込まれることになる。また1561年には上杉謙信配下の太田資正がここで北条と武田の連合軍を迎え撃って落城している。その後の北条支配下では秀吉の小田原征伐の際に豊臣の大軍に包囲されて落城とまさに歴戦の城である。江戸時代には松平氏の居城となったが、浜松に移封されたことで廃城となったとのこと。

 

 松山城がある山はそんなに標高が高いわけではない(山と言うよりは丘という方が正しい)ので登るのにはさほど苦労はない・・・のだが、やはり風邪をひいたのか身体の疲労が普通ではなく、上り坂にさしかかった途端に身体に力が入らなくて何度も立ち止まる羽目に。ようよう身体を前に進めるが原動力は好奇心だけである。

左 登場路には整備の跡が  中央 ようやく本丸に到着  右 本丸奥の小高い部分が見張り台跡

左 見張り台跡に城跡碑が立つ  中央 北の兵糧倉跡を見下ろす  右 二の丸への土橋
 

 ようやく本丸にたどり着くと一気に視界が開ける。松山城は最近になって国の史跡に指定されたとかで、以前は荒れ放題だったのが最近に改めて整備し直されたとの話を先ほどの吉見百穴の売店で聞いた。確かに下草を刈って登城路を直すなどの整備の跡がある。本丸には祠らしき建物を撤去した跡があり、恐らく以前は荒れ放題の山に朽ちた祠だけが建っていたのだろう。

  

左 明らかに建物を撤去した跡がある  右 意外と見晴らしがよい

 下から見た時はそれほど高い山ではなかったが、上から眺めると思いの外険しい印象である。また歴戦の城らしく堀なども深く、かなり防御を固めてあることが分かる。歴戦の中で歴代城主が順次防備を強化していったのだろう。本丸周囲には二の丸を初めとする多数の曲輪が配置されており、全山が要塞化している。

左 二の丸に渡る  中央・右 二の丸は奥に深い

左・中央 二の丸奥に隣の曲輪へのルートが  右 隣の曲輪は案内看板では春日丸となっていたが、現地看板では三の曲輪

左 二の丸との間の堀は深い  中央 三の曲輪も奥が深い  右 その奥にさらに曲輪がある
 

 二の丸から三の丸と進んで行くにつれて標高は下がっていくが周囲は深い堀で固められている。曲輪同士はかつては木橋か吊り橋でつなげ、曲輪が落ちた時には橋を落として分離したのだろうと推測される。

  城の搦手口に当たる岩室観音堂

 松山城の見学を終えると百穴入口のバス停まで移動するが、このバス停が思っていたよりも遠く、なかなか見つからなくて苦労する。確かにバス停などは○○前という名なら大抵は本当に真ん前にあるが、要注意は○○入口とか○○口というバターン。この場合は「○○につながる道のところにあります」という意味で、実際にはかなり歩かされる場合が多い。これは往路でタクシーを使用したのは結果として正解だったようである。

坂戸で越生線に乗り換えて越生まで
 

 ようやくバスで東松山駅まで戻ってくると、トランクを回収してから東武東上線の視察を続けることにする。まずは越生線との分岐駅である坂戸まで移動、ここから越生線の視察をしておく。越生線は東上線の支線で、運行は完全に坂戸−越生の線内往復のみのようだ。沿線は郊外の新興住宅的なイメージのところで4両編成の車内には結構乗客が乗っている。恐らく通勤時間帯などにはかなり乗客は増えると思われる。坂戸で乗り換えるとそのまま池袋まで出られる場所なので、東京のベッドタウンがこんなところまで広がっているのだろうと思われる。

  川越に到着

 越生は特に何があるというところでもないので、そこで折り返すと坂戸から川越まで移動する。この間の沿線は明らかに市街地の中。もうこうなると沿線風景には別段面白いものは何もない。まもなく川越に到着。以前に池袋−川越間は視察済みなので、これで東武東上線は視察完了である。これで東武で残るのは本線の支線と下今市以遠の鬼怒川線のみである。

 

 昼時なので川越駅で昼食を摂るために中華料理屋に入ったが、風邪のせいで食欲が落ちていることをさっ引いて考えてもあまりうまくない。圧倒的にCPの悪い典型的な「東京飯」であり、そういう意味ではここは既に東京文化圏であることを痛感する。

 

 昼食を終えるとバスで本川越に移動する。ついでだから西武新宿線の視察をしておいてやろうという考え。本川越は西武のターミナルであり、駅には西武系の百貨店が建っている。駅に入るとちょうど新宿行きの急行が入っていたのでこれに乗車する。

左・中央 西武本川越駅  右 西武の車両
 

 車両は典型的な都市型私鉄。西武に乗るのは初めて(だと思う)にも関わらず、車両は非常に見たことがある気がしたので、どこかの地方鉄道で譲渡された車両に乗ったことがあるのだ思う。沿線は川越市街を外れると所沢まではかなりローカルな印象。しかし所沢より先はいわゆる東京圏市街地であり、風景的には見るべきところもなし。典型的な通勤車両という印象である。何となく東京人が所沢を田舎扱いし、西武を田舎列車扱いする理由が感じられた。関西の山陽電鉄に通じる垢抜けなさというものがどことなくある。

  この駅名を見ると私の世代は「一丁目、一丁目」と踊りたくなる

 それにしても急行という割には遅い。駅での待ち合わせなどが多い印象である。西武は無駄に支線が多いと言われるが(確かに支線の多さは路線図を見ても明らかである)、その煽りか。

   西武新宿駅

 終点の西武新宿は「なんでこんなところに」と言われることの多い駅らしいが、確かに新宿中心部からはかなり手前のJRの高架とビルに挟まれた手狭な場所に無理矢理にある印象で、地図で見ても西武新宿−新宿の距離は新宿−代々木の距離とほとんど変わらず、つまりは「隣の駅」である。聞くところによると本来はもっと中心地に乗り入れるつもりだったのだが、あまりに過密すぎる新宿に場所を確保できなかったのだとか。無理矢理に新宿中心部に乗り入れようとすると地下しかないだろうが、今や大深度地下まで塞がっているので、さらにそれよりも深い超大深度地下にでも作るしかなかろう。そうなると「なんでこんなところに」というのが水平方向から垂直方向に変わるだけで大して意味がない。しかも傾斜を考えるとかなり早めから地下に潜る必要があるだろうから、手前の池袋での乗換が現状よりも不便になるのがオチか。

 

 次の目的地は渋谷である。ここからJRで行っても良いんだが、ついでだから池袋に移動して地下鉄副都心線を使ってみることにする。東京の地下鉄は新しいもの程地下深くになるという法則があるが、地下鉄池袋駅もとにかく深い位置にある。

  

渋谷駅ではとにかく無駄に歩かされる

 地下鉄渋谷駅はつい最近東急東横線と直結されたとのこと。しかしこの駅がとてつもなく深い位置にある上に、動線を全く考えていない大馬鹿設計のせいで地上に出るまでに無駄に長距離を歩く必要があってストレスが溜まる。確かに埼玉から横浜方面に移動する者には便利かもしれないが、それよりも圧倒的に多いと思われる渋谷駅を利用する者にとっては大幅な改悪である。何のためにこんなことをしたのかは余所者である私には理解不能だ。そもそも東京の地下鉄の乗り換えはやたらに無駄に歩かされることが多く、よくまあ東京人はこんな理不尽に耐えているものだと感心する。もしかしたらこの異常に劣悪な住環境といい、東京人は極度のM体質なのではないかと思ってしまう。なるほど、それならあんな知事を選び続けたのも理解できる。

  グルグル振り回された挙げ句、ようやくハチ公に巡り会う

 グルグル回って方向感覚を失いつつ、ようやく地上に出てくると「ここはどこなんだ?」状態。私がある程度の土地勘を持っているのは渋谷駅西側なのだが、どうやら東側に出たらしい。駅構内を潜ってようやくハチ公に巡り会うと、当初の目的地に向かう。

 


「ルーベンス展」BUNKAMURAで4/21まで

 

 日本では「フランダースの犬の主人公ネロが死ぬ前に見た絵の作者」ということで一番有名なルーベンスの展覧会。

 ルーベンスは17世紀ヨーロッパのバロック時代を代表する画家である。バロック時代はキリスト教支配下の暗黒時代から人間重視のルネサンスに移行した後の時代であり、当時としてはかなり尖った現代アートと位置づけても良いかもしれない。まだ宗教素材や神話素材などが多くて先時代の影響の支配から脱していないのは感じられるが、表現がかなり人間的になってきている時代でもある。

 ルーベンスは工房を運営して多くの仕事をこなしており、かなりシステマチックに作品を製造していたらしい。そのために実際の制作者が変わっても作品の質がばらつかないための「設定書」のようなものが残っており、最後の仕上げに彼自身が立ち会うことで作品の質を保証していたようだ。そういう点では彼の作品の製作スタイルは、現代のアニメーション制作に一番近いように思われる。

 また彼自身も当時の他の画家とのコラボ作品を残しており、人物、動物、風景などをそれぞれ最も得意とする画家が分担したとか。やはりアーティストというよりもプロデューサーとしての側面の強さが伺える。

 かなり高名な画家であるのだが、私自身があまり古典分野に対する興味が高いとは言えないためか、正直なところ作品からはあまり強烈な印象を受けなかったというのが本音。むしろ先に挙げた彼の制作スタイルの現代性の方に興味を持ったというのが実態だったりするのである。


 

 それにしても体調が悪い。全身が疲労感で覆われている印象。しかし完全にダウンしてしまう前にもう一カ所だけ立ち寄っておきたい。私が大嫌いなスポットの一つである六本木成金ヒルズである。先ほど地上に出た時にたまたまヒルズへの直行バスのバス停を見つけたので、今回はバスで移動することにする。

 

 東京の異常さはこのバスに乗っても痛感できる。とにかく道路の混雑が半端でないので無駄に時間がかかる。スムーズに流れたら10分もかからないであろう距離が、結果としては20分以上かかることに。こんな中をわざわざ車で移動するなんて・・・やっぱり東京人って根っからのMか。まあ東京で列車への飛び込みが多い理由が、単に人口の多さだけではないことは理解できる。ここは明らかに人間をおかしくする病んだ町である。東京の健全化のためには早急な東京解体策を考える必要がある。

 


「ミュシャ財団秘蔵 ミュシャ展−パリの夢 モラヴィアの祈り」森アーツセンターギャラリーで5/19まで

 

 アール・ヌーヴォーの旗手、20世紀最強の萌え絵師ミュシャの展覧会。

 前半部分は彼の有名なポスター芸術などが中心だが、中盤以降で彼の民族主義的な作品であるスラブ叙事詩などにかなり力を入れて紹介しているのが特徴。どうもミュシャといえばデザイン的な仕事の方が有名であるが、ミュシャという芸術家を語るには晩年の民族主義的作品をはずすわけにはいかない。

 スラブ叙事詩は彼の民族主義だけでなく、画家としての高い技量も感じさせる逸品である。あまりの大作であるために作品自体は現地を訪問しないと直接的に眼にすることは不可能であるが、このような展覧会でその断片、構想の一部を眼にするだけでもその壮大さは垣間見ることが出来る。それはまさに圧倒されるだけ。ミュシャ好きとしては是非とも眼にしておく必要はある。


 

 体調不良下での無理のしすぎのせいで異常に疲れたが、展覧会の内容が素晴らしかったのでヘロヘロになっていた身体が何とか精神面からの作用で持ち直した感がある。ようやくこれで今日の予定は終了なので、メトロ日比谷線で北千住まで移動、そこで夕食を摂ってからホテルに戻る。ホテルは当然のようにNEO東京である。

  この日の夕食はうどん

 ホテルに入るとすぐにグッタリとして、この日は風呂に入る気力もないままそのまま寝てしまったのだった。

  

☆☆☆☆☆

 

 

 今朝は大事をとって7時過ぎまで就寝。そのおかげか体調はかなり持ち直し、昨日あれだけ悩まされた鼻水も止まっていた(やはり風邪のせいだったのか)。とりあえず風呂に入ってからゆっくり目にホテルを出る。

 

 今日の予定だが基本的には上野地区の美術館の攻略である。しかし体調も持ち直したようなので当初に考えていたオプショナルツアーを実行することにする。南千住からつくばエクスプレスに乗車すると終点のつくばを目指す。つくばエクスプレスは以前に南千住から秋葉原までを乗車しているが、やはりあの時に感じたようにとにかく揺れない。ロングレールと最新の車両の威力だろうか。また最初から高速運行を想定した路線になっているので、運行速度はかなり速い。

   

南千住からつくばエクスプレスで移動

 沿線は東京周辺はともかくとして、そこから離れるとまだ山野というイメージのところが多い。東京周辺に残された最後の開拓地という印象か。しかし本来はこの辺りの山野が住宅開発されてしまう前に東京を解体して、適正なレベルの規模の都市に縮少する方が正解なのであるが・・・。

沿線風景は北上するに連れて閑散としてくる

 つくばエクスプレスはJR、東武野田線、関東鉄道と多くの路線と立体交差しながら走行する。これらの路線を結びつけて東京に直行させるというのもこの路線の目的なんだろう。なお沿線にトンネルが多いのもいかにも今時の鉄道。情緒は削がれるが合理的である。まあそもそもが首都圏の通勤路線なので情緒などは不要なのだろうが。

つくば駅から地上に出る
 

 終点のつくばは地下駅。地上に出るといかにも人工的な研究学園都市のイメージ通りの非常に無機質な町並みである。私の仕事上での知り合いでここに住んでいた人が「つくばは仕事をする場所で人が住む場所ではない」と言っていたが、何となくそれが肌で理解できる。関西にも研究学園都市はいくつかあるが、共通する空々しさというか空虚さがある。

 

 ここからはバスで土浦を目指すことにする。つくばは集合住宅が多いが、それがマンションと言うよりはアパートというイメージの建物が多いことに、この先進学園都市の古さが滲んでいる。

 

 アパート中心の町並みが一転して郊外の一戸建ての風景に変わると、そこは筑波ではなくて土浦の市街にさしかかった証。私は土浦駅までは行かずに途中で下車する。そもそも土浦に立ち寄ったのは土浦城こと亀城公園を見学するため。古い住宅街を抜けて亀城公園を目指す。やはり私にはこのような古い町並みの方が相性がよい。先ほどのつくばで受けた疎外感と全く逆の空気を感じる。亀城公園は住宅地の中にある。

  土浦市立博物館

 亀城公園の手前には市立博物館があるのでそれに入館。開催されていたのは戦国武将の甲冑展・・・なんだが、どうやらカプコンとのタイアップ企画らしく、戦国BASARA一色で目眩がしてくる。歴史的事実を豪快に無視しまっくていることで有名な同作品(徳川家康が真田幸村よりも年下だとか)だが、新作登場でさらにとんでもキャラが増えているようだ。怪しいメカを駆使する金髪の大友宗麟(私にはスケベなハゲ親父のイメージしかない)とか、Gガンダムの某キャラのように囚人用の鉄球を振り回して戦う黒田官兵衛(使者に出たら捕まえられてしばらく牢に入れられていた経験があるからだろう)に、挙げ句はチェーンソーを振り回す立花宗茂(お前はジェイソンか!)などさらにとんでもなことになっているようだ。まあこういう作品も歴史に興味を持つきっかけには良いが(実際に三国志のゲームから中国史に詳しくなる者もいるし、私も似たようなものだ)、気を付けないとこの世界にばかり入り浸っていると歴史認識が狂うので要注意。なおこのゲーム、女っ気が少なくなるのを補うため、鶴姫を登場させたり雑賀孫市を女性化するというウルトラCまでしているようだが、それならなぜ忍城で大活躍した甲斐姫を出さないんだろうか?(無双には出ているらしいが) なお雑賀孫市に対する私のイメージはそのまんまゴルゴ13。傭兵で銃の名手といえばやっぱり男臭いキャラの方が合うように思う。

内部はほとんど

BASARA記念館と化していた

 

 BASARA記念館・・・じゃなかった、市立博物館を一回りすると(BASARAはともかく、博物館の展示自体は大真面目なんだが)、亀城公園の見学に移る。亀城こと「土浦城」は江戸期を通じて水戸と江戸を結ぶ拠点の城として重視されてきた城である。築城は平安時代に平将門によるという伝説もあるが真偽のほどは定かではなく、確実なところは室町期に若泉氏が居城にしていたということらしい。その後戦乱の中で城主は変転し、徳川家康の時代には次男の結城秀康が入ったこともある。最終的には土屋氏の元で明治を迎えて廃城となっている。

  現存門

 往時にはかなり大規模な城郭だったようだが、今では城域のほとんどは市街に埋もれ、かつての本丸と二の丸の一部が亀城公園として残っているだけである。往時の建築としては太鼓櫓門が現存し、東櫓と西櫓が復元されている。

左 本丸堀  中央 本丸内は完全に公園化  右 東櫓

左 西櫓  中央・右 本丸土塁は健在
 

 本丸内には建造物の類は何も残っておらず、土塁だけが残っている。堀も健在なので復元櫓や現存門などは結構絵にはなる。ただそれ以外はただの市民公園という雰囲気になってしまっている。

左 なかなか絵にはなる  中央 移築門  右 搦手門跡の碑

 土浦は市街自体にかつての城割の名残が残っているという。ただ今はそれを逐一観察している暇はない。土浦駅から東京に戻ることにするが、その前に昼食を摂りたい。途中で年季の入ってそうな天麩羅屋を見つけたが、生憎と満席。そこで別の店を探す。結局は「八起」という店に入店。「天丼(950円)」を注文する。

   

 天ぷら自体はサクッと揚がっていてなかなかうまい。ただひっかかったのは出汁の味の方にもう少し繊細さが欲しいというところ。そう思いながらふと見ると、料理人は喫煙者の模様。出汁の味に若干感じたえぐみに何となく納得。喫煙者はこの手の味に鈍感になるのである。

 

 土浦からは常磐線で東京に戻ることにする。しかしその前に寄り道。我孫子で各駅停車に乗り換えると馬橋で途中下車する。ここから出ている流山電鉄を視察しようという考え。流山電鉄は馬橋と流山を結ぶ5.7キロの路線の鉄道会社である。かなり小規模な電鉄会社だが、大手鉄道会社の系列に属しない独立系の会社である。元々は地元の有志が出資して設立した町民鉄道だったとか。

流山鉄道馬橋駅と車両
 

 流山鉄道のホームはJRの線路と隣接している。そこに2両編成のレトロな雰囲気のロングシート列車がやってくる。馬橋を出た時点では車内はガラガラ。列車はJRから分かれると川沿いのビルの合間をすり抜けるように走る。

沿線は一貫して住宅地である

 次の幸谷はJR新松戸と隣接している駅で多くの乗客が乗り込んでくる。次の小金城趾が交換可能駅で、ここで対向車とすれ違う。流山電鉄で2編成をピストン運転しているようである。なおこの駅名から分かるようにかつてこの地域には小金城なる城郭があったらしいが、今では完全に宅地の中に埋もれてしまって遺構はほとんど残っていないという。

終点流山駅で下車

 小金城趾を過ぎると沿線には若干のどかさがでてくるが、それでも一貫して住宅地である。この沿線人口の多さがこのミニ私鉄が今日まで生き残ってきた理由であろう。終点の流山は完全に住宅地の真ん中で、特に何かがあるという場所ではない。駅前の観光案内看板には「近藤勇・土方歳三離別の地」とあり近藤勇が潜んでいた陣屋の跡があるというのだが、看板しか残っていないところを見に行っても仕方ないし・・・そのまま引き返すことにする。

 

 住宅地の中を走る鉄道だけに流山鉄道はそれなりには乗客はいるようだ。ただこの路線も少子高齢化で乗客数が漸減していたところに、つくばエクスプレスが開業したことでさらに乗客が大幅に減少しているとのこと。町のために町民が引いた地元密着の鉄道も、その将来は決して明るくはないようである。

  上野駅は大混雑

 馬橋まで戻ってくると常磐線で上野まで移動する。ここから今日の本題である美術館巡り。しかし上野に着いた途端に改札に大行列で閉口する。何が起こったのだと驚いていたら、どうやら花見客が大量に繰り出してきたらしい。そうか、上野は美術館だけではなくて花見をするところだったのか・・・。

 


ラファエロ展」国立西洋美術館で6/2まで

 

 ルネサンスを代表する画家であるラファエロの展覧会。ラファエロは、彼の登場以前と以降でヨーロッパの芸術の流れが変わったと言われる程の巨大な芸術家である。

 最初に展示されるのはいわゆる修業時代の作品。彼はペルジーノらから絵画を学んだと言われているが、初期の作品はまだ古典主義の古さを感じさせるところがあるが、それでも後の彼の天才さをうかがわせる輝きがある。

 彼が本領を発揮するのはダ・ヴィンチやミケランジェロに触発されてから。展示作には彼らに対するオマージュのようなものもあり、その影響の大きさはうかがえる。ただ彼のすごいのはそのままで収まらず、そこからさらに自分のスタイルを作り上げることである。

 彼の作品から感じられる感情は、一番は「調和」であろうか。「美しい」と感じさせる作品が多いのが彼の特徴であり、これは人当たりも良くて好かれたと言われている彼の人柄の反映であろうか。だからこそ彼の絵は万人受けしやすい。もっともその特徴が人間の生の本質を表現するのが芸術であると考える向きには否定される理由でもあり、また「ラファエロによる芸術に対する悪影響を排除する」ということを掲げたラファエロ前派の登場にまでつながったりもするのだが。何にしろ彼がそれだけ芸術に対して大きな影響を与えたということでもある。


 

 さすがにラファエロ。絵画から感じられるオーラが半端ではなかった。これで本遠征の第一主要課題は達成である。ラファエロを堪能したところで次の目的地へ。

 


「グレートジャーニー人類の旅」国立科学博物館で6/9まで

 

 人類の祖先はアフリカで発祥し、そこから新たな住処を目指して世界中に広がっていったと言われている。これが「グレートジャーニー」である。本展はそのようにして広がっていった人類の足跡を、自らの腕力や脚力などを頼りに逆ルートで体験した関野吉晴氏が、各地で見聞した民族の暮らしや文化などを伝えるものである。

 考古学的な内容かと思っていたら、実際には民俗学的な内容であった。環境に応じて様々な民族が様々な暮らしをしているということが分かる内容になっており、それが人類の多様性を物語っている。個人的にはそれと同時に、自分たちのみの習慣を「人類の普遍的なあるべき姿」として押しつける欧米文化の傲慢さも感じずにはいられなかったが。

 展示最終部で人類最古の足跡化石から当時の人類を復元するプロジェクトの紹介がされていたが、この時の復元像の表情モデルに起用されたのが岡村隆史とか。ただ復元された原人の表情だけでなくて顔自体が岡村隆史氏になってしまっていたのは笑わずにはいられなかったが。

岡村原人

 

 これで本日の目的は終了である。後はホテルに戻るだけだが、まだ日が出ているのでその内に片づけておきたいことがある。JRで亀戸まで移動する。東武の本線には亀戸から曳舟までを結ぶ亀戸線と、西新井から大師前を結ぶ大師線という二つの支線があるのでそれの視察を済ませておこうという考えである。

東武亀戸駅
 

 東武亀戸駅はJR亀戸のすぐ隣の一段下のところにある。運行車両は亀戸と曳舟の間をピストン運転している模様で、乗客は結構多い。曳舟までの沿線はとにかく密集している印象。ゴミゴミしていてどこを走っているのかもよく分からない。

 曳舟駅から見えるスカイツリー

 曳舟はスカイツリーの近くなのでホームからはスカイツリーがそこに見える。実は今回の遠征でスカイツリーに登ることも考えていたのだが、チケットが完全に塞がっていて確保できなかった次第。やはりお祭り騒ぎが一段落をするのを待つのが賢明なようだ。ちなみに通はスカイツリーの開業で完全に忘れ去られている東京タワーを訪問してわびさびの情緒を味わうのだとか。ただ生憎と私はそこまでは枯れていない。

西新井駅で構内改札を抜けて大師線へ
 

 曳舟から急行で西新井まで移動すると大師線の視察に移る。大師線は一駅だけの短距離支線で、大師駅が無人駅らしく西新井に改札がある。線内を一編成が往復運転である。しかしこの路線も意外に乗客は多い。また全線高架路線でもある。

大師駅は無人駅なのにやけに立派
 

 終点の大師前は無人駅だがやけにホームが広く、駅舎も立派である。ホームは二線分をとれるだけの幅があるようだが、距離が短いために一編成の往復で十分なのであまり意味がない。立派な無人駅舎を出ると西新井大師の真ん前。しかし私は寺院にはあまり興味がないので引き返す。

 

 西新井に戻ってきた頃には日も暮れかかっていた。夕飯を考えないといけないが、店を探すのも面倒だし、どうせ東京ではろくな飲食店がないので駅前のイオンで寿司やサラダを購入してそれをそのまま今日の夕食にすることにした。非常に合理的ではあるのだが旅情は微塵もない。もっとも東京で旅情を求めることに意味があるかは疑問だ。

  この日の夕食

 ホテルに戻るとイオン寿司で夕食を終え、入浴してからマッタリ。しばしボンヤリとテレビを見てからこの日は就寝となった。

  

☆☆☆☆☆

 

 

 翌朝は6時に起床。身体にだるさはあるものの風邪の気配はもう全くない。さて最終日の予定は残りの美術館の掃討戦。しかし時間に余裕はあるので昨日の内に追加プランを立てている。とりあえず昨日イオンで買い込んだ朝食を平らげるとチェックアウト。上野駅でトランクをロッカーに詰め込んでから日暮里まで移動する。まずは日暮里舎人ライナーを視察しようという計画。

 

 日暮里舎人ライナーは東京都交通局が運営する新交通システムである。東武伊勢崎線とJR東北本線などの間を北上する路線で、この地域のバスの渋滞緩和のために引かれたとか。ここまで細かく鉄道が敷設されるのも、異常に巨大化してしまった東京ならではではある。

日暮里駅から日暮里舎人ライナーに乗車
 

 車両といい駅の雰囲気といい、ポートライナーやニュートラムで惨々見慣れたタイプのシステムである。休日の早朝ということもあるのか、見沼台親水公園行きの列車にはそう乗客は多くはない。

ひたすら高架上を走るだけ
 

 沿線はひたすら住宅地の上空を抜けていく印象。「西新井大師西」という「どんだけ西をつけるねん!」という駅を過ぎてしばし進むと沿線に突然に緑地が現れる。ここは舎人公園という緑地公園。しかし中途半端に造成してあるので、宅地開発に失敗した新興住宅地のようにも見えなくもない。なお日暮里舎人ライナーはここに車両基地があるようで、駅の中央に地上に降りていく分岐線がある。

終点の見沼代親水公園には特に何もない
 

 ここから二駅進むと終点の見沼代親水公園。しかしここで降りても当の公園は全く見えず、ただの住宅地の中。またここに着いた頃には車内はガラガラで降車客は数人。駅前の案内看板で、どうやら見沼代親水公園というのは近くの水路沿いの公園であるらしいことは分かったが、わざわざ立ち寄る価値のあるような公園には思えなかった(かなりショボイ印象を受けた)ので引き返すことにする。どうも中途半端な場所で路線が終わっているように思えるが、それはこれ以上進むと埼玉県に入ってしまうからということだろう。東京都交通局の運営だから起こる奇妙な分割である。鉄道として考えた場合、明らかにさらに数キロ延長して川口市まで引いた方が有用性は格段に上がったと思うのだが、明らかに縦割り行政の弊害。

 

 日暮里まで引き返してくると、そこで京成に乗り換えて成田空港行きの特急で勝田台まで移動する。ここから東葉高速鉄道を視察する。東葉高速鉄道は地下鉄東西線を第三セクターで千葉県内に延長したという路線(先ほどの日暮里舎人ライナーもこの形で埼玉県内に延伸できないのだろうか)。ただ建設費がかさんだためにその借金の利払いに追われており、営業収支は黒字にかかわらず経常収支は赤字だとのことで、その煽りが異常に高額な運賃に反映している。そのために地元では東葉高額鉄道と揶揄する声もあるとか。先日の高崎の上信電鉄などと同様、全国各地にある「日本一高いと言われている私鉄」の筆頭である。ちなみにこの少し北を走る北総線も運賃が高く、沿線の学生が「運賃が不当に高すぎる」と訴訟を起こしたというニュースを目にしたことがある。どうもこの辺りの地域はいろいろなことが失敗しているようである。これも大きな意味で病める東京圏の象徴であろう。

東葉高速鉄道勝田台駅は京成の地下
 

 東葉高速鉄道の勝田駅は京成勝田の地下にある。車両は地下鉄のもの。駅から出るとすぐに地上を走行することになるが、沿線は明らかに新興住宅地という風景。ほぼまっすぐに走りながら時々トンネルの中に潜るという行程はつくばエクスプレスとそっくりで、いかにも「今時(シールド工法などでトンネルが安くなった時代)の鉄道」という印象。

 

 西船橋でJRと接するとそこからは地下鉄東西線のエリアになる。乗客は西船橋でドッと増える。東葉高速鉄道の高すぎる料金が避けられているのだろうか? 西船橋を出た列車は地下鉄と言いながらもしばしは地上を走行するが、やがて地下に潜って東京の都心に乗り込むことになる。

   

エレベータからしてやけに格式の高い日本橋高島屋

 日本橋で降りると高島屋を目指す。現在高島屋で「杉山寧展」が開催中なのでそれを見学するのが目的。高島屋はいかにも昔の百貨店という印象で、歴史と格式を感じさせる建物。エレベーターなどは今時珍しくなったエレベーター嬢付である。展覧会開催中のフロアに直行しようかと思ったが、その前に別館に行って昼食を先に済ませておくことにする。

 

 入店したのは「恵亭」。春向きの昼食膳(2100円)があったのでそれを注文する。

    

 料理を待つ間に漬物類の盛り合わせとキャベツが出てくる。これを食べながらお待ちくださいということか。何とも大仰なことに感じたが、これがなかなかうまい。しばらく待つとようやく料理が運ばれてくる。何とも上品な感じでボリュームはあまりないが、今の私には逆にちょうど良いぐらいである(昔なら明らかに量が不足だったろう)。場所柄、最初からCPは捨ててかかっているので、まあこんなものであろうと感じる。そもそも東京ではまともに食べられるものが出てきたらそれだけで上々というのが実態だし。

 

 昼食を終えると展覧会会場へ。さて入館しようかと思ったところで後ろから声をかけられる。どうやら島屋では年会費無料の島屋クレジットカードの加入を勧めていて、今加入すると展覧会の無料券を進呈するとか。またこのカードがあると、今後の全国の島屋での展覧会も半額になるとのこと。私にとっては悪い話でないので加入手続きをとる。


「杉山寧展−悠久なる刻を求めて−」日本橋高島屋で3/25まで

 

 戦後を代表する日本画家・杉山寧の展覧会。

 常に新しい日本画を追究していたという彼は、具象画の果てに抽象画的な作品にまで行き着き、「とうとう杉山も抽象画になったか」と言われたことがあるらしい。実際にその時期の作品は明らかに抽象画としか言いようのないもので、絵のタイトルまでもが具体性を抜きにしたものになっている。どの世界でも若手の新進気鋭のアーティストが辿る道筋のようである。

 ただ彼の場合はそこに安住せず(そのまま楽をしてしまって終わる芸術家も少なくない)、そこから再び具象の世界に帰ってきたようで、戦後にエジプト方面に旅して描いた作品などは彼らしいデッサン力の高さを示す作品で、そこに幻想性を帯びさせた独特の魅力のあるものになっている。

 杉山寧のエジプトシリーズはどことなく平山郁夫と印象がダブるところがあるが、私は平山郁夫の作品からはあまり深い感銘は受けないのに対し、彼の作品からは深い感銘を受けた。表現しがたい魅力を持った画家である。


 

 思いもかけず無料で見ることができた。内容的には金を払ってでも見る価値があったものなので上々である。

 

 次の目的地は東京国立近代美術館。地下鉄東西線で次は竹橋まで移動する。


「フランシス・ベーコン展」東京国立近代美術館で5/26まで

 

 奇妙に歪んだ人体を描いた独特の絵で高い人気を博しているという画家の展覧会。

 彼の描く人体はとにかく歪でその上に多重のイメージが重なっていたりするが、抽象画というわけではなくてあくまで具象画の世界に属している。というか、人体表現にこだわる結果に行き着いた世界のように見える。

 作品からは、人間の本質を描こうとか自身の感情を表現しようとかいう表現意図は明確に読み取れる。ただその結果が作品として好ましいものになるかどうかは別の話である。しかし彼のメッセージ自体がある程度の普遍性を持っているからこそ、高い人気を博するのであろう。ただ私の嗜好には合わないのは事実。


 

 まだ時間にかなり余裕がある。そこで当初予定にさらに一箇所追加して渋谷に移動することにする。ただその前に途中で神楽坂に立ち寄り、私の行きつけの「紀の膳」「抹茶ババロア」を頂く。ここは私が東京で唯一勧めている店で、ここの抹茶ババロアはたとえ一万歩歩いてでも食べる価値がある。

  

いつも行列の紀の善で抹茶ババロアを頂く

 飯田橋からJRで渋谷に移動。渋谷駅前からはバスで目的地へと向かう。

 


「琳派から日本画へ−和歌のこころ・絵のこころ−」山種美術館で3/31まで

 

 装飾的と表現される琳派の作品が日本画に与えた影響を考える展覧会。

 琳派の作品の特徴はパターン化などによる装飾性であるが、その手の簡略化による明快な表現は今日の日本画でも見られるものである。本展ではその装飾性が琳派発生以前からの流れとして日本の絵画表現に見られるということを示しており、元を辿れば装飾芸術から発祥しているという流れになっている。

 山種美術館らしく、近代日本画の名品なども展示されており、加山又造などのいかにも装飾的な絵画も展示されている。個人的にはそういうのが見所。


 

 再びバスで渋谷駅に戻ってくると、いよいよ最後の目的地へ移動である。最後の目的地は東京駅の近く。山手線で東京駅まで移動すると、改装工事の終わった東京駅を見学してから目的地へと向かう。

改装なった東京駅
 


「奇跡のクラーク・コレクション」三菱一号館美術館で5/26まで

 

 アメリカ・マサチューセッツのクラーク美術館が所蔵する印象派作品の展覧会。

 最大の売りは滅多に海外に出ない同館のコレクションがまとまって公開されるということ。同館は現在館内の増改築工事中とのことで、それをきっかけに世界での巡回展が実現したらしい。

 個人的にはルノワールの名品が数点展示されていたのが白眉。印象派は人気が高いだけに展覧会がよく開催され、勢いどの展覧会でも見たことのある作品に何度も出くわすと言うことになりがちである。しかし今回は滅多にない機会と言われるだけあって、見たことのない作品が並んでいるのでそれだけでマニアとしては垂涎。四の五のと難しいことは言わず、とにかく楽しむが勝ちである。


 

 これで本遠征の全予定はとうとう終了である。上野に移動してロッカーからトランクを回収すると新幹線で帰途に着いたのである。

 

 東京地区の美術館巡回がメインでありながら、東武乗りつぶしの旅となった感のある本遠征であった。また同時に「明治日本の近代化の過程を体感する旅」という側面も出てしまった。例によって私らしく、テーマが散漫でとにかく盛り沢山の遠征というのが今回である。途中で体調を崩したりなどのトラブルもあったが、とにかく当初予定はすべて日程通りに消化する満足の高いものになった。

 

 本遠征の最大の特徴は、とにかくメインターゲットである展覧会の内容がレベルの高いものが多かったと言うこと。同時期にこれだけの展覧会が並ぶ東京は、やはりこの点では非常に恵まれた場所であるということを感じずにはいられなかった。だからこそ私は「東京嫌い」を明言しつつも、年に数回は東京を訪問しないわけにはいかないということになる。ただその度に住環境の悪さと食べ物のレベルの低さには辟易する。東京は日本最大の都市であると同時に、日本最悪の高ストレス都市でもある。本遠征の最中でも東京名物の人身事故には何度も出くわした。こんな町に住んでいたら、精神を病んで列車に飛びこみたくなることもあろう。確かに東京は遊びか仕事で行くべき場所で住むべき場所ではない。

 

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