展覧会遠征 神戸・西宮編

 

 先週は会津方面の大遠征を実施し、まだ身体に疲労が残っている。外は灼熱地獄だし、今週は近場の美術館を車で回るだけにする。

 

 まずは兵庫県立美術館を目指すが、駐車場の前に車列が。聞くと5台も待っているとか。時間の無駄なので次の目的地へと移動することにする。

 


「國府理 未来のいえ」西宮市大谷美術館で7/28まで

 

 車などの部品を使用した独特のアート作品の展示。

 アートであるので実用性は皆無なのであるが、その割にはそれっぽく見えるというのが特徴。メカニックと緑を無理矢理に融合させているような奇妙な感覚がある。


 出るのがあまり早くなかったので、この時点で昼頃。とりあえず昼食にすることにする。明日が土用の丑ということを考えるとやはり鰻か。調べたところ近くに鰻の店があるようなのでそこを目指す。

 

 入店したのは「竹葉亭」。東京の老舗の鰻屋のようである。造酒屋「白鷹禄水苑」の中に店がある。私が到着した時には2組ほど待ちがあったが、意外と客の回転が早くすぐに順番が来る。注文したのは「江戸前ひつまぶしの葵(4000円)」。3000円の桐とどう違うか聞いたところ、桐が鰻一匹、葵は1匹半だそうな。

 東京の鰻屋ということはいわゆる江戸前の柔らかい鰻である。名古屋のひつまぶしのようなパリパリとした感触はない。関西人には江戸前の鰻を嫌う者も少なくないが、私は関西原理主義者ではありながら、鰻は江戸前のものも好むという人間なので抵抗はない。ふっくらとした鰻はこれはこれでなかなか旨い。

 鰻を堪能した。ところで気になったのは、松竹梅というランクはよくあるが、桐と葵というランク。桐は豊臣家の家紋であり、葵は言わずとしれた徳川家の紋、葵を桐よりも上のランクに置いているところに関西原理主義者としては怒るべきか(笑)。いや、元を辿れば桐紋は皇室の紋だから(今は菊紋の方が有名だが)、怒るべきは右翼か。

 

 昼食を終えたところで再び兵庫県立美術館を訪問する。今度は駐車場に辛うじて空きがあった模様。

 

 まずはクラーク・コレクション展を再訪。これは以前に東京の三菱一号館美術館での開催時に訪問済みであるが、なかなかに逸品が多かったのが記憶にある。

 

 会場が変わると展覧会の印象も変わるから不思議。また東京での訪問時にはかなり疲れていたせいか、ほとんどの作品を覚えていなかったことに気づいた次第。私の記憶よりもモネの作品が多数来ていた。なおやはり最大の見所はルノワール。ロリコンとか陰口も叩かれる画家だが、確かに少女像が一番美しいのは事実。また色遣いがなかなかに良い。

 

 ルノワールを堪能したところでとなりのギャラリーで開催中のマリー・アントワネット物語展にも立ち寄る。こちらはベルばらファンをターゲットにしているような印象。マリー・アントワネットの生涯にリンクして、当時のフランスの風景画や彼女が好んだ宝飾類、さらには衣装などを展示。ベルばらファンなら楽しめるか。ちなみに私はフランス革命のアニメと言えば、ベルばらよりも「ラ・セーヌの星」である。

 マリー・アントワネットについては諸説あるようだが、不運だったという点はあるだろう。社会矛盾が限界まで来ていた時代にたまたま王妃であったことで犠牲になったという点はあるし、貴族達が自分たちの権益を守るためにすべての罪を彼女に着せたというところもある。なお夫のルイ16世も人間としては悪人ではなかったと思われるのだが、明らかに王としては無能であったと言える。人の上に立つ者は善人であるかどうかよりも、その能力を問われることになる。いかに善人であったとしても、トップであれば無能であるということが最大の罪になってしまうのである。

 

 これで今日の予定は終了、灼熱地獄の中の移動で意外と汗をかいたので新長田の「あぐろの湯」に寄っていくことにする。アグロとは姫路地域に本拠を置くホームセンターだが、なぜかここではスーパー銭湯を経営しているらしい。福崎町に本拠を置くカー用品&ホームセンターのエーモンも笠方温泉を経営しているし、播州のホームセンターは温泉が好きなのか?

 施設自体は海沿いの古い埋め立て地にあり、ホームセンターも同居したアグロゾーンとなっている。施設は典型的なスーパー銭湯で規模の大きな内風呂と開放的な露天風呂。泉質はナトリウム塩化物泉で、立地的に考えてもいわゆる「地下に潜った海水」。ただかけ流しを謳っている浴槽の湯は悪くはない。人気があるのか施設はかなり混雑しており、これが一番の難点か。

 

 さっぱりと汗を流すと家路についたのである。なおこの帰途でダサ過ぎる車に遭遇。やたらに爆音は遠くに響くのだが、車自体はめちゃ遅。本人は格好付けて運転しているつもりなのかもしれないが、出足からハンドリングまですべてが遅すぎ・・・。最近は個性を発揮すべきところでは全く個性がないのに、つまらぬところで目立とうとする輩が増えた。どうしてこんな顔に「馬鹿」と書いて表を歩いているようなことができるのだか。

 

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