展覧会遠征 東京編8

 

 今回は東京出張のついでに美術館に立ち寄った。まず上野から。


「グエルチーノ展 よみがえるバロックの画家」国立西洋美術館で5/31まで

  

 グエルチーノはイタリアバロックを代表する画家にして、アカデミック画法の基礎を築いた一人として美術史上非常に重要な人物であるにも関わらず、激動する美術界の中でその存在が永らく忘れたような状態になっていた人物である。しかしながら近年になってイタリアで再評価の気運が高まってきたという。本展は2012年の地震で被災したチェント市立絵画館のコレクションを中心にグエルチーノの作品を集めて展示する。なお収益の一部は絵画館の復興資金に充てられるとのことである。

 グエルチーノの作品は今の時代から見れば、明らかに「古い時代の作品」である。しかしながらそれは現代の基準で見るからであって、当時の画家としては最先端の画法を研究していたはずである。実際に彼の作品も時代を追うにつれて画法の変遷はある。初期はやや固く不安定な感もあるが、それが円熟期を迎えるにつれて熟達の技を感じさせるものに変化していく。鮮やかな色使いやダイナミックな明暗表現は恐らく後の絵画にも影響を与えたのだろう。

 もっとも晩年に至って工房で大量生産の時代になると、粗製濫造とまでは言わないまでも、ややパターン化のようなものは見られてくる。この辺りは当時の画家が芸術家ではなく職人の位置づけにあったことが影響しているだろう。

 ただとにかく「一つの時代を作った」画家であることは間違いなく、「後の時代の価値観に合わないから」という理由で忘れ去られるべき画家ではないことは確かであろう。


 次は東京駅まで移動。赤煉瓦の建物が絵になる美術館だ。


「ワシントンナショナルギャラリー展」三菱一号館美術館で5/24まで

  

 アメリカのワシントンナショナルギャラリーが所蔵するフランス印象派コレクションを展示。展示作は小品が多いので、この美術館のような観客と作品の距離が近い美術館向けの展示である。

 マネ、モネ、ルノワールといった印象派定番どころの作品から、セザンヌ、ゴッホと言ったところの作品までを含む。小品が多いと言うことは、画家にとって親密な内輪の作品なども多く、例えば友人に寄贈した肖像画などと言った類のものも含む。それだけにいかにも尖っていない楽しげな作品も多い。

 個人的にはやはり興味を引かれるのはルノワールの肖像画作品。年代によってタッチが変わるのが彼の作品だが、その異なるタッチの作品が並んで展示されている。こうして見ると彼の絵画の変わった点と変わっていない点がハッキリと認識されておもしろい。


 最後は乃木坂まで移動。ここに来るのも何度目だろうか。


「ルーブル美術館展 日常を描くー風俗画に見るヨーロッパ絵画の真髄」国立新美術館で6/1まで

  

 ヨーロッパ絵画の王道と言えば近代までは神話などを扱った歴史画や宗教画というイメージがあるが、その一方でごく普通の日常を扱った風俗画と言うジャンルも連綿として続いてきている。そのような風俗画に力点を置いた展覧会である。本展では風俗画の元祖として古代エジプトやギリシアの装飾から始まって時代を横断して作品を展示している。

 その性質からどうしても「ヨーロッパ風俗史」というような印象が強くなる。美術展としてみた場合、知名度的に劣る画家に紛れてムリーリョやフェルメール、ティツィアーノらのビッグネームが散在しているという感じであり、時代が下ってくると唐突にトロワイヨンの牛までが現れるという百家争鳴的な展覧会であるので、個々の作品の印象がどうしても薄くなるきらいがある。

 またこういうテーマになると必ず登場するのが、寓意を含んだ理屈っぽい17世紀オランダ・フランドル絵画である。フェルメールの「天文学者」もこの文脈の中で展示されている。フェルメールらしい見事な作品だが、全体的に絵画の完成度の高いフランドル絵画の流れの中では傑出したというまでの印象は受けない。

 作品的には面白いものもあったように思われるのだが、こういう形式のテーマ展にされるとなぜかそれが今一つ薄められる感を受けるのは残念。さらに加えて平日にも関わらずやたらに観客が多くて鑑賞のコンディション自体がかなり悪いということも含めて、何やら今一つ不完全燃焼感が残らずにいられなかった。


 

 以上をザッと駆け回ると、ここからは仕事モードに切り替えである。ここのところ何かと忙しいが、たまには心の洗濯も必要だ。

 

 

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