展覧会遠征 静岡編2

 

 シルバーウィークである。となればやはりどこかに出かけたい。ここのところはライブばかりで野外活動が低調だったせいで体力が激烈に落ちている。やはりここらでリハビリを兼ねた城郭巡りが必要だと判断した。訪問すべき適当な城郭が残っている地域で、シルバーウィークの期間で回るのに適当な場所として浮上したのが静岡。

 

 金曜の仕事を早めに終了すると直ちに高速を車で突っ走る。今日の宿泊予定地は岡崎。当初予定ではもっと近い亀山で宿泊するつもりだったが、楽天が岡崎のふるさと旅行券を配布していたことから岡崎まで足を伸ばすことにした。

 

 例によって西宮で渋滞に出くわして無駄な時間を食ったが、早めの出発が功を奏して4時間ほどのドライブで何とか無事に岡崎に到着する。宿泊ホテルは岡崎ニューグランドホテル。岡崎城のすぐ隣のホテルだ。宿泊費の内、5000円がクーポンで補填されることになる。さらに家康公クーポンなる岡崎で使える金券付きのプランだが、とりあえずこれを使用するのは後日になるだろう。

 ホテルにチェックインすると夕食のために外出するが、ホテルの周辺には見事なほどに何もないので、東岡崎までプラプラと散策する。東岡崎周辺には飲食店は多数あるが、死にかけの和民など全くそそらないチェーン居酒屋ばかりである。選択の余地があまりないし面倒にもなってきたので、たまたま見かけたラーメン屋「まんぷく屋」に入店。ラーメンとネギ丼と餃子のセット(1000円税込)を注文する。

 太麺の塩豚骨ラーメンはまずまず。ただこれに餃子とネギ丼をプラスするとあからさまに全体がしょっぱすぎる。関東人ならこのバランスでも良いのかもしれないが、関西人の私にはこれはキツイ。

 夕食を済ませるとプラプラとホテルに帰ってくる。本当はコンビニに立ち寄りたかったのだが、なぜかどこにも見当たらない。どうにも不便な町である。

 

 ホテルに戻るとライトアップされた岡崎城が見える大浴場で入浴。4時間のドライブでかなりの疲労が蓄積しているからそれをほぐす。

 

 風呂から上がるとテレビをつけるがろくな番組がない。ニュースをつけると、日本をアメリカに売って自分だけ生き延びた売国奴の孫が、今度は日本と日本人の命を丸ごとアメリカに差し出す売国法案を強行採決しようと躍起になっているニュースだけ。これで祖父さんの悲願だった完全売国完了とでも言いたいのか。あんなクズでも権力を握ってしまうと何でも出来るというのは明らかに政治体制の不備である。これは日本の悪い意味での転機になるだろう。何しろ最高権力者が「法律なんて都合が悪ければ無視すればよい」と自ら国民に示してしまったのだから。このまま行けば後世に「日本の滅亡を招いた愚かな指導者」と評価されることになるだろう。そうさせないためにも国民のこれからの対応が重要である。勘違い独裁者は早々に退場させる必要がある。

 

 とにかく疲れた。この夜は早めに就寝する。

  

☆☆☆☆☆

 

 

 翌朝は7時に起床、シャワーで目を覚ますと岡崎城が見える最上階のレストランで朝食。和食系おかずの品数はあまり多くなく、洋食中心のバイキングである。とりあえず燃料補給。

  レストランからは岡崎城が

 今日はかなり動き回る予定になっているので、8時過ぎにはチェックアウトする。しかし岡崎ICから高速に乗った途端にいきなり渋滞。シルバーウィークのトラップに早速はまってしまったようだ。ここでかなり時間を浪費する。

 

 今日の最初の目的地は社山城。県道44号線を新名神の手前まで北上し、右手の山の手前にある諏訪神社を抜けてさらに進んでいくと案内表示がある。山道の手前に車一台分ぐらいのスペースがあるので、そこに車を置いて山に登ることにする。何だかんだでここに到着した時には既に10時を回っていた。

 

 社山城は築城年代は不明であるが、1501年頃の斯波氏氏と今川氏の抗争で今川氏の支配下となるが、その後の今川氏の没落で徳川氏の支配下に移行、武田氏の上洛の際には抗争の場となったという。しかし武田氏の滅亡で存在価値がなくなり、その後の徳川氏の関東移封で廃城となったとのことである。

 山道を10分も上がれば一の郭に到着する。山道もしっかりと整備されているし、ハッキリ言って楽勝と言っても良いような道なのだが、それでも息が上がってしまうのが現在の私の体力の情けなさ。

 一の郭は神社になっている。それなりの広さはある曲輪であり、奥には土塁も見られる。

左 一の郭  中央 神社になっている  右 奥には土塁が

 隣の二の郭との間には幅広い堀切で分かたれており、二の郭の手前には櫓があったと思われる小高い部分があり、ここには現在は稲荷社が置かれている。

左 一の郭の奥の帯曲輪  中央 一の郭から二の郭を見る  右 二の郭の奥は鬱蒼としている

 二の郭はかなり奥に深いようであるが、その奥は鬱蒼としており進む気にはなれない。基本的にはこの二つの郭からなる単純な構造の城郭だが、回りの地形が切り立っているので防御力は高い。

 

 社山城見学後は久野城へ移動することにするが、その前に一仕事。実は来年のPACのチケットの販売日が今日の10時から。先ほど登山の前にHPに接続してみたのだが、毎度のように非力なPACのサーバーは落ちてしまっていて接続不能だった。あれから30分ほど経ったので再び接続してみる。最初はつながらないが何度かトライした後にようやく接続でき、何とか目的のチケットを確保。どうも最近は山の頂上でチケットを手配したりとかこんなことが多い。

 

 久野城は再び東名高速近くまで南下して、袋井ICのやや東の田んぼの中の小さな小山の上にある。近くまで来ると案内看板も整備されており、私の到着時はちょうど地元の保存会の方々による下草の伐採作業が終了した直後であったらしい。地元の方々の愛着のほどが覗える。

 久野城は今川氏麾下の久野宗隆が築いた城だが、孫の宗能の時代には徳川氏の麾下となり、小牧長久手の戦いなどで戦功を上げたという。徳川氏の関東移封後には丹波より移った松下之綱が城主となり、その後何人かの城主を経て1644年に廃城となったという。四方に堀を巡らせた堅城であり「当国第一の要害」との記録も文書に残るとのこと。

左 登り口  中央・右 北の丸

左 北の丸から主税屋敷方面を仰ぐ  中央・右 三の丸

 城の規模自体はそう大きくはないのだが、多数の曲輪が連携して防御できる形になっており守備力は高い。また井戸も本丸下にあるので水の手も確保されている。かつてはこの周囲に堀を巡らせてあったらしいから、確かにかなり難攻不落要塞であったと思われる。

左 本丸方向に登る  中央・右 途中にある二の丸

左 二の丸の先にあるのが高見  中央 高見からの風景  右 本丸方向を振り返る

左 二の丸にある井戸  中央・右 本丸

 比較的小規模なのが幸いして全体の構造が非常に把握しやすい。また地元の方々の努力による整備が行き届いているので見学がしやすい。これはなかなかに初心者にもお勧めしやすい城郭である。こういう見学しやすくて分かりやすい城郭というのは意外と少ない。これは余裕で続100名城Bクラス相当だと考える。

 

 久野城の次はさらに海際まで南下。横須賀城に立ち寄る。横須賀城は徳川家康によって武田氏の高天神城を包囲するべく築かれた付城の中核となる城郭である。初代城主は大須賀康高で、その後目まぐるしく城主を代えながら明治維新まで存続したという。玉石垣を用いているのが特徴であり、かつては三層四階の天守も建っていたという。現在は国の史跡として公園整備されている。

 現地に到着すると玉石を用いた特徴的な石垣がまず目に飛び込んでくる。公園整備されているが保存状況は良好である。本来の城域はもっと東西に長く、現在残っているのは本丸と西の丸を中心とした城の中心部に当たるようだ。今では住宅街や畑に埋もれてしまっている東西部分が二の丸と三の丸で、奥の松尾山まで城域に含むかなり広大なものであったらしい。また現在はかなり内陸になっているが、そもそもはこの城のすぐ南まで入江であり、横須賀港があって海上交通の要衝でもあったという。しかし1676年の宝永大地震で地盤隆起が起こって地形が一変、この入江も消失して湊が使えなくなったとのこと。これは横須賀城及び城下町にとっては軍事及び経済の両面での大打撃となり、西にある太田川河口の福田湊まで運河を作って小舟による輸送を行うようにしたという。

 本丸上は辺りを見渡せる高地になっており、かつて海がその際まで迫っていたことを考えると、陸海を押さえる要衝であったことが頷ける。だからこそ明治まで存続することになったのであろう。

左 登り口  中央 天守台  右 礎石

西の丸

 西の丸から西に降りたその先はかつて二の丸だったらしいが、今では住宅と畑に埋もれて痕跡はない。本丸北側からグルリと回り込んだ本丸の裏手の曲輪は現在はパターゴルフ場になっているようで老人の団体がプレー中であった。その奥にあるのが松尾山で、本来はここを中心とした山城だったらしいが、後に現代の形に拡張されたのだという。松尾山の上に登ってみたが、確かに曲輪と言って良い削平地があったが、現在は下草が鬱蒼としていてそれ以上踏み込める状態ではなかった。

左 西の丸から西方を望む  中央 米倉跡  右 本丸の裏手

左 北の丸の奥が松尾山 中央 松尾山に登る  右 鬱蒼としていて進めない

 整備状況もまずまずで見学しやすい。またあの玉石垣はなかなかにインパクトがある。そういうわけでここも続100名城Bクラスに挙げても良いだろうと考える。

 

 横須賀城の見学を終えると次の目的地は天ヶ谷城。ただしその前にまず昼食である。途中で見かけた「遠州和食処おけ屋」に入店、「カツとじ定食」を注文。さらにデザートに「プリン」を追加。なぜ和食処でデザートがプリンなのかは謎だが、まあ美味かったのでそれは良しとする。

 昼食を摂るとさらに東進、天ヶ谷城は御前崎市と菊川市の境の山上にある。手前の神明神社のところに駐車場と案内看板があるので、そこに車を置いて徒歩で西の山を目指す。最初は案内看板にあった直登ルートを目指したのだが、ここはハイキングコースの看板は出ているものの、下草が鬱蒼とした道なき道の上に前方を見ると倒木が道を塞いでいたのでこのルートを進行することは不可能と判断、一旦戻って竜源寺跡方面登り口から進行することにする。

直登コースは案内看板はあるものの、すぐに進行不可能な状態になる

 こちらは途中までは整備された道だったのだが、尾根筋沿いに進むところから鬱蒼とした中を蜘蛛の巣を払いながら進まないといけなくなる。笹のトンネルを抜けたり、雑木林の中の崖を降りたりと、一応ルートの案内はあるがなかなかに難儀なルートである。

最初はまともな道だが、直にとんでもない道になってくる

左 尾根筋を歩く 中央 見晴台  右 本丸手前の堀切

 本丸まで到着するのにはそう長時間は要さない。本丸はそれなりの面積を持つものの、構造的にはそう複雑ではない。しかしここに至るまでに何度も蜘蛛の巣に顔を突っ込んだりで戦意喪失甚だしい。この奥に二の郭もあるらしいが、案内を見れば「通行不可」の記載があるし、覗いてみたらまたもや鬱蒼とした笹のトンネルだったので、これ以上進む気が起こらず引き返すことにする。

左・中央 本丸  右 この先が二の丸らしいが・・・

 それなりの遺構は残っているようなのだが、残念ながら整備状況がひどすぎて単独行では深く踏み入ることがためらわれるような状況だ。久野城レベルまでの整備は期待しないまでも、もう少し整備をされていればと残念なところである。山上の城跡には付きものの神社などもなかったようだし、今では山上に踏み入る人もほとんどいないのだろうか? 山上に神社などがあるというのは、少なくともそこまで踏み込む人間が入るということであり、それは同時に最低限の通路の整備は継続されるという意味もある。人が山と共に暮らしていた時代の名残と言えるだろうか。最近はそういう自然との関わりが急速になくなってきた。

 

 この天ヶ谷城からさらに東に少し進んだところにある想慈院の背後にある山が八幡平城である。墓地の裏手に登り口があるからしばらく登ってみたが、ここも足下が鬱蒼としている上に先はそれなりにハードそう。しかも案内看板が先ほどの天ヶ谷城と酷似していることから不吉な予感を抱いたように、山道の整備状況はあまり期待出来なそう。その上に先ほどの天ヶ谷城で私の脚はそろそろ限界が来つつあったし、既に日も西に傾いてきているしということで、ここは見学を断念して途中で引き返す。また何かの機会があれば捲土重来を果たしても良いが、わざわざここだけのためにあえて出向いてくる価値もなさそうである。

左・中央 想慈院の墓地の脇に登り口がある  右 しかし登山道の整備状況は良くない

 ホテルに入る前に最後に小山城にだけ立ち寄る。吉田IC南の小高い丘の上にある城跡で、今は能満寺公園として公園整備されている。ただ公園整備されすぎであり、なんちゃって天守まで建っている。三日月堀や三重堀などもあるのだが、どことなく「重機でほじくり返しました」感があって、どこまで本物なんだろうかとの疑問もあり。まあ地元の史跡に指定されているようなので、全くの出鱈目は天守ぐらいなんだろうが。これがインチキ天守の弊害という奴で、一つああいう出鱈目があると、他もすべて出鱈目に見えてしまうという次第。

左 登り口は2ルート  中央 登り切って見下ろすと  右 小山城跡

左 やけに立派な堀  中央 三日月堀  右 なんちゃって天守

左 重機で掘ったような三重堀  中央 なんちゃって大手門  右 遠景

 これで今日はほぼタイムアップ。夕闇が迫りつつある中を宿泊ホテルに向かう。今日は焼津で宿泊する予定。宿泊ホテルのくれたけイン焼津駅前はその名の通りJR焼津駅の北口の真ん前にあるホテルだ。選択のポイントは例によって宿泊料と大浴場である。

 ホテルの駐車場に車を置くとチェックイン。部屋は普通のビジネスホテルでベッド上にやけにクッション類が多いこと以外は特に変わったところはない。

 

 荷物を部屋に置くと直ちに夕食のために外出する。しかし駅前だというのに、ホテルの周りをウロウロしても全く飲食店がない。そこで地図で調べてみたところ、焼津駅前はどうやら南口が正面の模様。そこで跨線橋で南側に移動する。 

 

 確かに駅の南側に商店街や商業ビルが立っている・・・とは言うものの、商店街は完全にシャッター街になっていて、ほとんどの店がご臨終の模様。また営業しているらしき店も、連休のせいかシャッターを降ろしている。そして商店街を歩いている者も私以外にはほとんど見当たらない。まさに世紀末的状況である。

左 シャッター街と化している駅前商店街  中央 橋にはなぜか人魚姫  右 マンホールはマグロ

 寂れきった焼津駅前商店街をウロウロしていたところ、川沿いの少し入ったところに大人の隠れ家風の居酒屋を発見。ただいかにも一見さんには敷居の高い門構えなのが気になるところ。しかし焼津くんだりまで来て「魚民」や「花の舞」に入店する気などなかった私は、意を決してこの店に入店することにする。店名看板もまともに出ていなかったのでその時は店名はよく分からなかったのだが、後で調べたところでは「にじいろ」らしい。

 とりあえず腹は減っているので結構大量に注文した。まずは「あん肝ポン酢」。これが絶妙にうまい。続けて「焼き牡蠣」「砂肝」、さらに「牛タン焼き」。ご飯ものとして「カツオの焼おにぎり」。最後にお勧めという生しらすを加えた「刺身盛り合わせ」を追加。さすがに漁師町。いずれも非常にうまく申し分ない。生しらすは初めて食べたが、臭みの類が全くなく美味であった。で、以上食いまくった上に突き出しとウーロン茶2杯を加えて支払いは4950円(税込)。これはCPもかなり良い。入店時は敷居の高さを感じたが、入店すると店員も気さくで雰囲気が良く、ゆったりとくつろぐことが出来た。なかなかに良い店に当たった。

あん肝ポン酢に焼き牡蠣に砂肝

刺身盛り合わせは写真を撮り忘れて後で慌てて撮ったので、本来の生しらすはもっとドッチャリ盛ってあります

 タップリと夕食を堪能した後はホテルに戻って大浴場で入浴。大浴場と言っても「部屋の風呂よりは大きい風呂」程度のものだが、足を伸ばして入れる風呂は最高。今日はかなり疲れたのでその疲れをしっかりと抜く必要がある。

 

 大浴場でゆったりと体をほぐすと、その日はかなり早めに就寝したのだった。

  

☆☆☆☆☆

 

 

 昨晩早く寝過ぎたせいで今朝は5時過ぎに目が覚めてしまった。そこから無理矢理ゴロゴロと半覚醒状態で7時まで過ごす。

 

 7時になるとシャワーで目を覚ましてから朝食。朝食は和洋両用のバイキング。レベルとしてはルートイン相当というところか。くれたけインは初めてのホテルだが、いろいろな点でルートイン互換ホテルと位置づけることが出来そうだ。

 チェックアウトは8時半頃。まず最初に向かうのはつい最近に重伝建に指定された焼津市花沢地区。日本坂峠への旧街道が通る集落で、谷間の平地がほとんどない地域だけに傾斜地に石垣を組んで居住スペースを確保した独特の町並みを形成した。この山間の集落の町並みが残存しているとのことである。

 

 日本坂トンネルの手前で国道をはずれ、北に向かって進んだところが花沢地区の入り口。集落内は道路幅が狭いため、観光客の車は手前の駐車場に置くようにとの看板がある。そこで観光用の駐車場に車を置くと集落までプラプラと散策。私と同様の姿で同じ方向に向かう者は少なくない。

 花沢地区入口

 花沢の町並みはまさに山村のそのものである。観光客を相手に商売している家もあるようだが、商業化が進んでいるという気配はない。それよりは車を使うと意外と焼津中心地にアクセスの良い土地なので、普通の住宅街として居住している者がいるように思われた。のどかな落ち着いた雰囲気の漂うよい所だが、昨今のように集中豪雨の多いご時世にはいささか危険も感じる地形ではある。

 住宅街を一回りすると観光駐車場に戻ってくる。なお南の山上に花沢城なる城跡があるとの情報もあったが、見上げると結構高い山の上に、遺構は対して残っていないという情報もあったので今回はパスする。

 この山上のようだ

 次に向かう先が実は本遠征の主目的の一つ。丸子城の訪問である。丸子城は築城年代は明らかではないが、駿府を防衛するための拠点に当たるためにその歴史はかなり古いだろうと推測される。1568年には武田軍の駿河侵攻によって武田氏の勢力下に入り、山県昌景等の武将が在城して今川方に備えたが、その際に武田流に大規模に改造が行われ、それが今日の姿であるという。後に武田氏の撤退で徳川氏の有するところとなるが、徳川氏の関東移封で廃城となったと考えられる。

 この山上だ

 丸子城の登り口は東西にあるが、東側の駿河匠宿の方から登ることにする。車は駿河匠宿の観光用駐車場(料金410円とやや高い)においてから案内看板に従って進む。

案内看板に従って進んでいくと、このような山道を直登することになる

 一番手前の曲輪までは斜面を直登することになる。足下は整備されているがここが一番キツい。事前の情報では所要時間10分と聞いていたが、体力の落ちきった現状の私ではもう少し時間がかかる。

 登り切ったところには稲荷社が建っており、一定の兵力をおける削平地となっている。ここが最前線の番所と言うところか。

 山上の稲荷社

 ここから尾根筋をしばしダラダラと進む。一応長大な曲輪になっているようだが、それほどキチンと削平しているという風でもない。

尾根筋をダラダラと進んでいくと道は登りになってくる

 この突き当たりがやや登りとなっていて堀切を土橋で越えることになる。その越えた先に大手曲輪、北曲輪と続くが、この辺りは傾斜地に合わせて曲輪を積んでいった印象である。北側には土塁があり、その先には横堀も見られる。

左 土橋  中央 堀切  右 大手曲輪

左 大手曲輪を先に進むと  中央 北曲輪  右 北曲輪奥の土塁

 ここから堀切を土橋で越えた先が二の丸になる。この二の丸はそれなりの面積のある曲輪でかなり重要性の高い曲輪であったと思われる。

左 二の曲輪への土橋  中央 堀切  右 登っていく

左・中央 二の曲輪  右 二の曲輪北の横堀

 ここから本丸へ渡る部分の堀切はかなり深い。このそこに一旦降りてから登っていくと枡形虎口を経て本丸へたどり着く。

左 向こうが本丸  中央 堀切  右 枡形虎口

左 本丸  中央 平虎口  右 向こうに小さな曲輪

本丸

 本丸南には平虎口があり、その先には小曲輪がある。見取り図によるとこの下に数段の曲輪があるようだが、それは確認していない。なお北側の喰い違い虎口を経て降りていくと、その先に馬出曲輪と呼ばれる部分がある。

左 喰い違い虎口  中・右 その向こうにあるのが馬出曲輪

 なかなかに見応えのある山城であり保存状態も良好である。これを見学するためだけでも静岡までやって来た価値があると思わせるものであり、これは続100名城Aクラスに相当すると判断した。

 

 丸子城から降りてくると駿河匠宿で昼食を摂っておくことにする。「たくみ亭」に入店して名物というとろろ汁のある「丸子(1500円税込)」膳を頂く。良くも悪くも観光地レストランという印象だが、とろろ汁は悪くない。

 丸子城の次は宇津ノ谷を訪問することにする。旧東海道沿いの集落で丸子宿と岡部宿の中間に当たり、厳しい峠越えの前後で旅人が休憩を取った集落だとか。現在は町並み保存に力を入れているとのこと。

 道の駅にあった宇津ノ谷の模型

 近くの道の駅の駐車場に車を置くと徒歩で見学に向かう。かつては街道の街だったが、今では国道はトンネルで横を通過しており、今ではメインストリートから外れた寂れた集落という趣。集落内は木造の懐かしい造りの家が多く、往時のような看板を掲げてはいるが、今日では商売を行っている家はほとんどなさそうである。地元では町並み保存に力を入れているらしいので、それが功を奏して集落の活性化につながると良いが。

 集落を抜けた奥に明治時代のトンネルが残っている。今では登録有形文化財となっているこのトンネルは、今では車は通行止めで観光客が通過するのみ。と言ってもこれを抜けた先には特に何もない。薄暗いレンガのトンネルは一種の不気味さも感じさせるスポットとなっている。

 宇津ノ谷の見学を終えると静岡県立美術に立ち寄ろう考えて国道1号を突っ走る。しかし到着した美術館では何かのイベントでもあったのか駐車場が大混雑。最寄りの駐車場どころかかなり手前の図書館との共有駐車場にも空きが全くない状態で、駐車場の空きを求めてウロウロしている車も多数。これは今日は美術館に立ち寄ることを断念するしかないと判断する。

 

 美術館の見学を諦めると今晩の宿に直行することにした。今日宿泊するのは静岡の北の山中にある梅ヶ島温泉。当初は静岡市内で宿泊することを考えていたが、それでは面白くないと山中の秘湯に立ち寄ることにした次第。静岡から移動すること30キロほどだが、これがところどころすれ違い困難箇所もある難儀な道路。しかも驚いたことにこの道を路線バスが走っている。1時間弱ほどの運転だが、とにかく疲れるし神経がすり減る。

 

 予約を取っていたのは「よしとみ荘」。梅ヶ島温泉の入口に当たる宿である。ポイントは価格とお一人様宿泊が可能だったこと。また「じびえ料理」という言葉にも惹かれた。

 悪路を無事に通り抜けてようやく宿に到着したのは3時過ぎ。すぐに風呂に入りたいところだが、その前に一カ所立ち寄りたいところがある。この近くに安倍の大馬鹿・・・じゃなかった、安倍の大滝という滝があるとのこと。ただし通常のルートは大雨で吊り橋が落ちてアクセス不能になっているという。そこで上の林道から降りていくルートでアクセスしようと考えた次第。旅館の人に降り口の場所を聞くが、かなり危険な山道なのでお勧めはしないとのこと。滑ったらただで済まないような道らしい。しかしそういうところをあくまで自己責任で進むのは今まで何度も行ってきたところ。とりあえず実行あるのみ。

 遠くから滝を見る

 梅ヶ島温泉街を抜けて先に進むと道はさらに細くなり、傾斜もきつくなった上に路面もかなり荒れたものになっていく。この道路は本来は山梨まで抜けていたらしいが、今は途中が閉鎖されたまま放置されている。それでも安倍の大たわけ・・・じゃなかった、大滝のところまでは行けるらしい。このひどい路面をしばし進んでいくと確かに安倍の大滝の表示があり、目印のロープが張ってある。この辺りは道幅が広くなっているので道路脇に車を置いて下に降りてみることにする。

 降り口はここ

 いかにも急整備な印象のある山道であるが、今まであちこちで進んできた登城路に比べると極端に悪い道というわけではない。ただ道幅が狭い上に斜面はかなりキツイので、万一足を滑らせるとただで済まないのは明らかであり、これは地元としては大っぴらには推奨はできないわけである(大っぴらに推奨したら、事故が起こった時に責任問題が発生する恐れがある)。ただ晴天である限りは足下に問題はないが、もし雨が降ってきたらまずいことになるのも明らかである。

 道はこんな調子

 しかし大分下まで降りてきたところで状況が悪化してきた。それまでも若干怪しげだった空模様がいよいよ薄暗さを増し、今にも雨が降りそうなものに変わってきた上に、遠くから雷の音まで聞こえてきたのである。単独行の場合の大原則はとにかく安全マージンを十分に確保しておくこと。怪しきは進まずである。結局は一番下まで降りきずに、滝が近くに見えたところで引き返してきた。そもそも私は「石橋を叩くだけで渡らない」と言われているぐらいの慎重派である。なお時間に追われながらあわてて引き返すこの帰りの行程がかなり大変であったことは言うまでもない。上がりきった時には息も上がっている上に足下はガクガクとなっていた。丸子城からのダメージの蓄積で完全に限界が来てしまったようだ。

 結局は滝がここまで見えたところで引き返した

 とりあえず宿まで戻ってくると、入浴して汗を流すことにする。風呂は二人程度が入れる小さな浴槽が二つ、内風呂と露天風呂になっている。泉質はアルカリ性の単純硫黄泉とのことだが、硫化水素や硫酸イオンの含有量が多い。浴室内には硫黄の匂いがこもり、湯は肌に当たるとかなり強くヌルヌルとする濃厚な湯。ここまで強烈な湯は以前に寸又峡温泉で経験して以来である。やはり静岡北部の山中の秘湯は侮れない。ここまではるばるやって来た価値があったというものである。ここはかなり上質な湯でゆったりと疲れを抜いたのである。

 

 風呂から上がると夕食時までマッタリと過ごす。夕食はじびえ料理であるが、鹿のタタキやイノシシの角煮などが非常にうまい。なかなかに期待通りの食事であった。やはり改めて思う「日本人よ、もっと鹿を喰え」。

 食後にもう一度入浴すると部屋でマッタリ。しかしこうなるとする事がなく暇になる。何しろ近くのコンビニまで車で1時間近くはかかる秘湯である。出かけるような所はどこもない。そこでipadに落としてきた「ヒロイックエイジ」を鑑賞。鬱アニメの代表にもされている「蒼穹のファフナー」のスタッフが精神的均衡を図るために作ったと言われている作品で、「追い込まれた人類」いう設定は同じなのだが、無双で脳天気な主人公のキャラもあってストーリーに微塵も影がない。意外と面白いので気がつけば12時過ぎまで見入ってしまっていた。

  

☆☆☆☆☆

 

 

 翌朝は7時に起床するとまずは朝風呂。ぬるめの露天でゆったりとくつろぐ。外は急斜面の山々だが、今朝改めて見てみると大規模に斜面崩落が起こっているところがある。この急斜面は昨今の大雨が降ると危なそうだ。

 

 8時になると朝食。和定食だが朝からご飯がうまい。こういうシンプルな和食は朝から体に染みる。

  

 ホテルをチェックアウトすると昨日も走った山道を南下、途中で赤水の滝に立ち寄る。看板のところに車を置いて1分も歩いたら滝の見える場所に出る。滝の規模もさることながら脇で大規模な斜面崩落が起こっていることが気になるが、そもそもその名の由来が宝永年間の大地震で発生した大谷崩れで褐色の濁流が数日に渡って落下したためとのことなので、元々そういう崩落の多い土地柄なのであろう。

 赤水の滝を見学後はこの日の最初の目的地へ。この日の最初の目的地は興国寺城。北条早雲の旗揚げ時の居城である。実はここの訪問が丸子城と並んで本遠征の主眼。この城に関しては山中城を訪問した3年前の箱根遠征の時に見学するつもりだったのだが、沼津以西の大渋滞に進路を阻まれてタイムアップで断念した経緯がある。よって3年越しの宿題である。

 

 昨日は四苦八苦した山道だが、今日はもう勝手が分かっているから運転もスムーズ。さらに新静岡ICから新東名に乗っての行程までは順調だった。しかし最後にシルバーウィークが牙をむく。新富士ICの出口が大渋滞でにっちもさっちもいかない。しかも私のカーナビのこの周辺の地図が古かったせいで、間違って反対方向の道路に迷い込んだ上にそこでまた大渋滞に巻き込まれてしまう。結局は渋滞を抜け出すまでに1時間以上を要し、大幅にタイムロスをしてしまったのである。前回の時といい、さすがに北条早雲の居城は難攻不落である。

 

 興国寺城に到着したのは予定よりもかなり遅れた上に、かなり体力を消耗した状態になっていた。とりあえず二の丸の脇に車を置いて見学に入る。しかし車から降りて歩いてみると、昨日の大滝での酷使のせいで足がパンパンに張っていて歩く度に筋肉が悲鳴を上げる状態。

 手前の丘が興国寺城

 しかし興国寺城はそのような悪コンディションを吹きとばすぐらいすごい城郭であった。驚いたのは本丸背後を守る高い土塁。多分丘陵を削り残したものだと思われるが、土塁もここまで来ると城壁と同じである。しかもこの土塁の上に登ってみると、北側には深い空堀も掘られている。背後はほとんど絶壁のようなもので、ここからの攻撃はほぼ不可能ではないかと感じられるぐらい。また敵を見張り攻撃するための櫓台も設置されている。

左 本丸に乗り込む  中央 神社がある  右 背後の土塁に登る

左 土塁上には櫓台が  中央 櫓台  右 背後の堀は呆れるほど急で深い

左 さらに西にも櫓台が  中央 西の櫓台  右 本丸方向を望む

本丸風景

 南側の正面は背後に比べると防御が手数に感じられるのだが、本来はこの土塁は本丸の四方に巡らされていたらしく、南側は廃城後に畑化された際に土塁は崩されて空堀も埋められたとのこと。つまりこの方向もそもそもは万全の防御施設があった上に、三の丸、二の丸という連郭構造になっていたらしい。

  

各曲輪の境は今では不明瞭だが、かつては土塁と空堀で仕切られていた

 地図で事前に調べたときには、ただの平城でここまでの防御力を秘めた要塞だとは想像していなかった。やはり現地を訪れないと分からないこともある。

 

 興国寺城を堪能した後は国道1号を西進する。幸いにしてこの辺りは特に渋滞はしていないようだ。次の目的地は蒲原城である。

 

 蒲原城は宿場町であった蒲原を見下ろす山上にある。この辺りは東海道の中でも山がギリギリまで海に迫っているところであり、それを見下ろす山上は戦略上の要衝であることは誰でも分かる。築城年代は明らかではないようだが、今川氏が駿河守護として入国した頃に築城されたと推測されるとのこと。

 山を登ってから城の入口が分からずに何度もウロウロしたが、ようやく蒲原城の表示を見つけてその向かい側に車を停めて見学に移ることにする。

  ようやく入口発見

 山道を10分も歩くと本郭にたどり着く。本郭には神社が置かれていて太平洋を見下ろすことが出来る。単郭構造ではなく周囲にも曲輪があるらしいが、ここから降りていく道が見当たらない。北側には堀切越しに北曲輪が見えるが、そこも鬱蒼としている上に降りていくルートは見当たらない。帰り道で北曲輪に通じると思われる分岐を見つけたが、その先は鬱蒼としてとても道と言える状況ではなく、進もうと思うと鉈が必要に思われるので見学は断念した。

一本道を進んでいくと本丸に到着する

左 神社になっている  中央 太平洋が見える  右 堀切越しに北曲輪が見えるが降りていけない

 蒲原城を降りたところが宿場町であった蒲原になる。車で通り抜けたところ、かつての宿場町の面影はとどめているものの、具体的に見学するほどのものは見当たらなかったので、車で通過しただけでとどめておく。

蒲原の町並み

 国道1号をさらに西に進む。今日の宿泊地へ向かう前に昨日立ち寄れなかった静岡県立美術館に立ち寄るつもりである。昨日は駐車場に全く空きがなかったが、今日は近くの駐車場に車を置くことが出来た。


「富士山−信仰と芸術−」静岡県立美術館で10/12まで

  

 霊峰富士は古来より聖地として崇拝され、独自の山岳信仰も発展している。そのような富士山にまつわる信仰と、その富士を扱った芸術作品などを展示する。

 富士は古くから格好の画題として扱われてきて、美術的にも独自の表現やいわゆるデフォルメのパターンのようなものもある。その一つのスタイルを確立したのが雪舟である。彼の一種の記号化した富士の描き方は、後の多くの作品に影響を与えている。

 ただそのようなパターン化の中でも作者の心象風景を反映して、まさに百万通りの富士の描き方がある。その辺りの違いなどが非常に面白かった。

 なお信仰関係の展示の方は・・・。無信仰の私はあまり面白いものではなかった。残念ながら。


 なお市民ギャラリーの方で「ふれる空海」展なるものが開催されていたのでこれも見学したが、空海の信仰に関する言葉をフリップで掲げたり、空海に纏わる品を展示したりで、印象としては漫画などをテーマにした展覧会と同じように感じられた(実際に、この後に訪問した「進撃の巨人展」などと展示のパターンについては奇妙なほどに類似点がある)。高野山も訪問したことがあり、空海のゆかりの地も何カ所か訪問したことのある私としては、人間としての空海の歴史には興味があるのだが、彼の信仰となるとサッパリ。

 やはり無信仰を通り越して「人類が次なる段階に進化するために克服すべきは宗教である」と考えている私とは相性の良い展示ではなかったようである。

 

 一渡りの見学を終えたところで移動することにする。今日の宿泊地は島田だが、島田に向かう前に時間的にもう一カ所ぐらい立ち寄る余裕がある。ただ山城に立ち寄るには体力がもう限界である。どこか適当な立ち寄り先はと考えた時に、この近くに登呂遺跡があることを思い出す。

 

 登呂遺跡は静岡の南の東名高速のすぐ北側にある。現地は一大観光地となっていて観光用の駐車場も完備、ただし駐車料金は1日400円とやや高い(そう言えば駿河匠宿の駐車料金もほぼ同額だが、これが静岡相場なのか?)。

 

 車を置くとまずは博物館を見学して登呂遺跡についての事前学習。要はこのような土地柄であるから昔から人間が居住していて、稲作も早々と導入されたと言うこと。この辺りは佐賀などと類似である。ここの屋上からは登呂遺跡を上から見晴らすことが出来る。

登呂遺跡博物館と屋上から見た遺跡と田んぼアート

 博物館を出ると復元建物を見学。と言っても吉野ヶ里やその他の遺跡と大した違いはない。まあこれは雰囲気を感じるだけのものである。やはり遺跡は掘ってみないと分からない(無断で掘ってはいけないので決して本当に掘らないように)。

 登呂遺跡の見学を終えたところでほぼ5時頃。そこに見えている東名高速を経由して島田に向かうことにする。宿泊するのはカンデオホテル島田。吉田ICのすぐ近くにあるホテルである。私が予約したのは風呂なしの部屋だが、たまげたのはトイレと洗面所がカーテンで部屋と区切ってあること。さすがにこれでは落ち着いてクソもできない。

 このカーテンの向こうがトイレ

 チェックインするととりあえず最上階の展望浴場に向かう。ここのホテルは展望大浴場を完備しているが、男女入れ替え制である。男性タイムが7時まで(その次は10時半から)だというから、まず入浴を済ませておくことにする。

 

 大浴場はかなり開放感のある露天風呂がついているが、洗い場の数が少々足らない。先日来の酷使で足がかなり張っているので露天風呂でよくほぐしておく。風呂からは一昨日に訪れた小山城のなんちゃって天守が見えている。なるほど、歴史考証はともかくとして観光的には意味があるのだろう。

 

 入浴してから一息つくと、着替えて夕食に出かけることにする。ホテルから歩いていける範囲にはまともに店がないので車で出かけることになる。ネットで周辺の店をザクッと調査。その結果ウナギでも食おうかと思っていたのだが、目星をつけていたウナギ屋は生憎と駐車場が満杯。結局は店を探して車で走り回る羽目に。しかしほとんど店がないことから面倒くさくなってたまたま見かけたラーメン屋「松壱屋」「醤油チャーシューメンの大(1000円税込)」で済ませることに。

 夕食を済ませてホテルに戻ってくると激しい疲労が訪れると共に何もすることがないという暇に苛まれる。結局は昨晩途中まで見ていた「ヒロイックエイジ」の続きを見ることに。最終26話まで一気に見終わって気が付いた時には午前2時前になっていた。それなりに面白い作品であり、主人公の無双さと無垢さは快感でさえあったのだが、終わってみると「それで結局何を言いたかったんだ」という一抹の不満も残る作品ではあった。

  

☆☆☆☆☆

 

 

 翌朝は7時に起床。正直なところあからさまに寝不足で、目覚ましに叩き起こされたという感じである。足が張っているだけでなく体も非常に重い。

 

 朝食のためにレストランに行くが大混雑のためにしばらく待たされる。今日は殊更に急いではいないので良いが、計画が厳しい時なら朝から何分も待たされたら予定どころではないところだ。やたらに待ち時間の長いエレベーターといい、どうも細かい不満が出るホテルだ。

 食事内容自体は悪くないのに・・・

 チェックアウト前にもう一度入浴してから9時頃にチェックアウト。さて今日の予定だが、ほとんど何も入れていない。と言うのも今日は一気に関西まで長距離ドライブになる上に、遠征もこの頃になると体が大分ヘロヘロになって無理は出来ないだろうことが予想されたため、今日は予備日のような扱いにしている。ここまでの日程でこなしきれないスケジュールが残ったら今日に回すつもりだったのだが、例によって私は仕事以上の勤勉さで予定のスケジュールをガツガツとこなしていったため、予備日に回すスケジュールがなくなった次第。

 

 とは言ってもこのまま移動だけで一日終わるのもつまらない。と言うか、それだとホテルに早く着きすぎる。そこで考えているプランはある。それは岡崎に立ち寄るというもの。初日に岡崎で宿泊したものの、あの時は本当にただ泊まっただけになっている。やはり岡崎城ぐらい立ち寄っておくかということと、あの宿泊で受け取った「家康公クーポン」を全く使用していないというのがあまりに勿体ないというのが理由である。

 

 東名高速で岡崎を目指す。ある程度予測はしていたが岡崎手前で渋滞に遭遇、そこで1つ手前の音羽蒲郡ICで東名を降りる。ここから国道1号線で岡崎を目指すが、こちらもところどころでつかえまくる状態でスムーズに走れない。なかなかにストレスの溜まる行程である。

 

 予定よりもかなり時間を費やしてようやく岡崎城に到着する。岡崎城の観光用駐車場に車を置くと岡崎城の見学に入る。岡崎城は2008年に訪問しているが、あまりに昔なので詳細は覚えていない。

 駐車場から見える石垣がかなり立派だが、中に入ってもとにかく堀の規模の大きさに驚かされる。ここは南は川で守られているので、後はこの堀と組み合わせて万全の守備を誇ることになる。

本丸と二の丸の間の堀は規模が大きい

 家康公クーポンには天守の入場券も付いているので一応入場する。とは言うもののコンクリートの城型展望台はあまり興味の持てるものではない。内部は大勢の観光客でごった返していたし、早々に降りてくる。今の私にはコンクリート天守よりもこの立派な堀と石垣の方が魅力的だ。

  

天守 表側と裏側から

 岡崎城内には、あまりに強すぎて某アニメではとうとうロボットにされてしまったホンダムとこと本多忠勝の像もある。また三河武士の館なる博物館も。ここの展示は家康の生涯にまつわること。関ヶ原の合戦のジオラマが最大の売りらしい。

 機動武士ホンダムこと本多忠勝

三河武士の館とからくり時計

 岡崎城を一渡り見学した後は、家康公クーポンを使うために茶店へ。宇治金時を頂いてクールダウン。

 生き返る・・・

 岡崎城の見学後はここから西の川を渡ったところにある味噌工場に立ち寄る。ここでの飲食に家康公クーポンが使える上に、赤味噌をもらえるとの話である。しかし行った先は車を止める場所もないぐらいで、食堂の方も一杯で40分待ちとのこと。とてもそんなに待っていられないので諦めるが、家康ラーメンにもクーポン使用可能とのことなので、土産に家康ラーメンを持って帰ることにする。

 味噌屋に立ち寄る

 さすがに岡崎は家康一色であった。ただ関西人は豊臣家を滅ぼした家康に対してあまり良い心証を持っていないと言われており、そのメンタリティーは実は私も持っている。だからあまりに家康一色だと時々イラッと感じるところもある。元をたどればそもそも秀吉は尾張の人間なので非合理な話ではあるが、感情の問題というやつである。これは理論や知識でどうなるものでもない。だから感情の問題はこじれるとややこしいのである。

 

 今日予定していたところはこれで大体終了。もう昼は過ぎているし、渋滞が怖いのでさっさと今日の宿泊地に移動することにする。今日の宿泊地は滋賀のおごと温泉。滋賀では昔から知られる古湯。つい最近まではいかがわしい歓楽街としてのよろしくないイメージが先行していたのだが、近年になってイメージチェンジを図っている温泉地でもある。

 

 幸いにして大した渋滞に出くわすこともなく夕方前におごと温泉に到着する。ここに来て今日は昼食を摂っていなかったことに気づいたが、今更昼食を摂るのも遅すぎるので諦めることにする。

 

 宿泊ホテルである雄山荘はその名の通りびわこを見下ろす山の上に建っている。雄琴温泉の山の上に建っているから雄山荘であって、某マンガのやたらに偉そうで口やかましいグルメ親父は関係ない・・・はずだ。

 

 今回はシングルプランなので、私の部屋はシングル洋室。シンプルな部屋だが琵琶湖の見えるなかなか良い部屋でもある。

  

部屋はシンプルだが眺めは抜群だ

 チェックインを済ませるととりあえず大浴場で入浴。おごと温泉の泉質はアルカリ単純泉とのこと。ややヌメリがあるがそう強くはない・・・と言うか、困ったことにあの強烈な梅ヶ島温泉を体験してしまった後では新湯に思えてしまう。普通によい湯なんだが、普通なんだな、あくまで。

 

 テレビを見ながらマッタリと夕食の時間を待つ。夕食は6時からレストランで。いわゆる懐石料理だが、品数が多くてさすがに秋の味覚ということであちこちに松茸が入っているのが特徴。海原雄山ならゴチャゴチャ言いそうだが、私には十二分。一品一品がうまい。デザートなんかにしても、単純にグレープフルーツでなくゼリーにするという一手間かけているのがポイント。

 部屋に帰るとベッドに横になってテレビを見ていたが、この頃から昨日の寝不足と疲労から急激に体がしんどくなってくる。結局この日はそのまま8時頃には意識を失ってしまっていた。

  

☆☆☆☆☆

 

 

 翌朝の起床は7時。かなり寝たはずだがとにかく体は重い。体中にかなりダメージが来ているようである。

 

 とりあえずまずは朝風呂。昨日入浴した時はまだ時間が早かったのでほとんど誰もいなかったのだが、今朝はかなり多くの客でごった返している。ヌルヌルした湯が体に心地よい。ようやく目が覚めてくる。

 

 目が覚めたところで朝食。朝食は和定食だがこれもうまい。 

 ホテルをチェックアウトしたのは9時過ぎ。最終日になるとかなり疲れているだろうとホテル代をやや奮発したのだが、結局はその高級ホテルでしたことといえばほとんど寝てるだけだった。いささかもったいなさも感じつつホテルを後にする。

 

 今日の予定はシンフォニーホールで開催されるコンサート。ホール近くの駐車場に車を置くが、まだまだ開場時刻には数時間ある。そこで大阪市立美術館に立ち寄ることに。ただしその前にまずは昼食である。例によっての「グリルマルヨシ」に立ち寄り、「タンシチューランチ(2400円税込)」を頂く。

 

 コクのあるデミグラスソースが私好み。ただ全体的に味付けはやや濃いめに感じる。内容的にはまずまず。

 昼食を終えたところで美術館に向かうことにする。


「伝説の洋画家たち 二科100年展」大阪市立美術館で11/1まで

  

 文展に対して在野の公募展として発足した二科展は、最先端の流行を取り入れつつかなり尖った運動として、官展のアカデミズムに対抗してきた。その中からは多くの分派なども現れて日本の洋画界に多大な影響を与えてきている。そのような二科展を代表する画家の作品を展示。

 近代日本洋画界の主立った画家たちが関与していることから、近代日本画の歴史をたどるような展覧会でもある。ただ作品自体は明らかに当時の「前衛」を目指している作品が多く、その点では好き嫌いも出やすい内容ではある。個人的にはシュルレアリスムの影響が濃厚に出ている時期の東郷青児の作品や古賀春江の作品などが興味深かった。

 残念ながら時代が下ってくるにつれて、画家の名前は知ってはいるが私としてはどうでも良いような作品が増えてくる。これは毎度のことながら仕方ない。


 市立美術館の見学を終えるとホールに向かう。既に会場前からホールの前には人だかりが出来ており、結構入場者が多い。なおこのコンサート、A席10000円とかなり高めなのだが、これは所謂辻井君価格なんだろうか。


オーケストラ・アンサンブル金沢 大阪定期公演

 

[指揮]井上道義

[ピアノ]辻井伸行

 

シュニトケ:モーツ・アルト・ア・ラ・ハイドン(ハイドン風のモーツァルト)

モーツァルト:ピアノ協奏曲 第27番 変ロ長調 K.595

モーツァルト:交響曲 第40番 ト短調 K.550

 

 1曲目は音楽と言うよりは一種の寸劇みたいなもので完全にパフォーマンス。これをどう評価すべきかは微妙。

 2曲目がいよいよ話題の辻井君のピアノだが、確かに「盲目のピアニスト」という看板を掲げるまでもなく普通のピアニストとして十分に通用する腕を持っている。ただ彼の演奏は彼独自の微妙なテンポの揺れのようなものを含んでいるので、オケと協奏曲ではやや演奏が窮屈そうに感じられる。アンコールの彼独自のアレンジによるトルコ行進曲を聴いたところで、その感はさらに強くなった。彼の本領はテンポも含んで自在に揺らす演奏にあるようである。ピアノソロの方が演奏に俄然冴えがある。

 最後はモーツァルトの定番。室内オーケストラであるアンサンブル金沢のまさにアンサンブルの妙が遺憾なく発揮された内容であった。アンコールの武満徹のワルツも、彼の曲にしては世俗的な聴きやすい曲で、このオケの性質には良くマッチしていた。


 アンサンブル金沢の演奏は良かったのだが、やはり私のようなミーハーには、室内オーケストラでモーツァルトというのはいささか渋すぎたかなという気もした。まだまだ派手な曲でガチャガチャやった方が私向きであるようだ。

 

 シルバーウィークをフルに活用した大型遠征で、主旨は「静岡地区の宿題を片付けつつ、温泉でゆったりと休養しよう」というものだったのだが、前半はともかくとして後半の方は目的とはかけ離れてしまった。何か毎度毎度大型遠征が終了する度に同じことを言っている気がするんだが・・・。

 

戻る