姫路市立美術館

赤煉瓦の落ち着いた建物

正面からは姫路城が見える

公式HP

美術館規模 中

専用駐車場 無(付近に公営駐車場有)

アクセス方法

 JR姫路・山陽電鉄姫路から徒歩20分(駅からバスも有)

お勧めアクセス法

 駅からかなり遠いので、私は車で行っています。ただし駐車場は意外と高い。

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展覧会レポート

 

「色と形のハーモニー展」 2006.11/12〜12/17

 この美術館が所蔵する抽象作品を中心に展示した展覧会。

 抽象作品と言うことで、反射神経に訴えかけてくる類の作品ばかりである。ただいずれも十人並みというか、どこかで見たことのあるような個性の薄いものばかりであり、私に強烈にアピールしてくる作品は皆無だった。

 

「ロダンの系譜」 2006.9/16〜11/3

 近代彫刻においてロダンの与えた影響は実に大きい。そこで、彼の作品を元にして、それが後の彫刻にどのような影響を与えたのかを考察するのが本展であるとのこと。

 展示品にはロダン以外にブールデルやマイヨールなどの作品もあるが、それよりもさらに最近の現代彫刻作品も展示されている。まず各コーナーごとにロダンの作品が展示され、それと他の作品との共通項が解説してある趣向になっている。ただし、彫刻に対して素人の私には、ロダンの影響が現れていると言われても、そうも見えるようなそうでもないようなというところ。それに現代彫刻はやはり面白くない。

 

「華やぐ日本画名品選」 2006.6/3〜7/2

 当美術館の日本画コレクションからの展示。酒井抱一、上村松園、村上華岳、橋本関雪、小野竹喬など有名どころのこれまた典型的な作品(華岳の観音図とか、関雪の動物画、竹喬の風景画、松園の美人画など)が並んでいるので、一見して楽しいというのが最大のメリットか。

 

「熊谷守一展」 2006.4/8〜5/28

 写生から始まった熊谷守一の絵画は、フォービズムの影響などを経由した後に、生物などを単純化した独特の画風に至ったという。本展は愛知県美術館が所蔵する木村定三コレクションの中から、熊谷守一の作品を展示した展覧会である。

 さて彼の作品であるが、対象の形態に対する並々ならぬこだわりのようなものがその作品からはうかがえるのであるが、一見しての印象は「子供の絵」である。実は彼自体が作意を持って描いた絵というものを非常に嫌っており、意図的にそのようなスタンスで描いているようである。そのため、彼の絵を見た天皇が「この絵の作者は何歳ぐらいか」と聞いたというエピソードもあるという。

 技巧というものと対局にある絵だけに、それをどう評価するかは好みが分かれそうなところである。個人的には、残念ながら趣味ではない。

 

「デルヴォーとマグリット」 2006.1/28〜3/26

 ベルギーの画家であるデルヴォーとマグリットは、共にシュルレアリスムの画家として知られ、非現実的な作品で有名な画家である。当美術館は以前よりこれらの作品のコレクションで知られているが、本展は収蔵品から代表的な作品を選んでの展覧会である。

 2人は共に非現実的な絵画を描いているが、その作風は明らかに異なる。無機質な女性を特徴的に配したデルヴォーの絵画は、いわゆる神秘主義の影響が強いように見えるの対し、非現実的な事物を特殊な空間に配したマグリットの絵画は方はいわゆる抽象絵画に近いイメージがある。また彼らの周辺の画家の作品も併せて展示してあるので、当時の画壇の状況が分かると共に、シュルレアリスムと一口に言っても、いろいろな芸風があることが分かって興味深い。

 なお面白かったのは、展示場の一角に、画面上に様々なアイテムを配置することでシュルレアリスム調の作品を作れるコーナーがあったこと。しかしこれって、シュルレアリスムの作品なんて誰でも作れると言っているようにしか私には思えないのだが・・・・。

 

「ケーテ・コルヴィッツ展」 2005.11/2〜12/24

 ケーテ・コルヴィッツは19〜20世紀ドイツにおいて版画を中心に活動した女性芸術家である。彼女の作品は常に生と死をテーマとして見つめているものであるが、彼女の作品にはこの時期に第一次大戦と第二次大戦という激動を経験したドイツの社会情勢が露骨に反映している。実際に彼女も第一次大戦では次男を、第二次大戦では孫を失うという経験をしている。さらに彼女の作品は社会性が強いため、第二次大戦前のナチスの台頭時には退廃芸術の烙印を押され、公職から追放されるとともに作品の発表の場も奪われるという弾圧も経験している。

 とにかく全作品から強烈なまでに死に対するイメージが満ちている。初期の農民蜂起を描いた連作など、社会主義的思想が強く滲んでいることはともかくとして、最後の死屍累々たる場面にはぞっとさせられるのである。また既にこの頃から、息子の遺骸を抱く母親という後の彼女の作品に共通するイメージが登場している。彼女の生と死に対するメッセージは時間ともに先鋭化していくが、銅版画から木版画に手法が変化した頃から、このメッセージは抽象化普遍化していったようである。

 魂の叫びのようなものが聞こえてくる作品である。とにかく重苦しく強烈。果たしてその重圧に耐えることができるか、作者と鑑賞者の真剣対決のような奇妙な感覚を抱かされる展覧会であった。

 

「水越松南展」 2005.9/10〜10/23

 水越松南は明治21年に神戸に生まれ、京都市立絵画専門学校などで絵画を学んだものの、写実主義に疑問を感じ、大正10年に結成された日本南画院に活躍の場を求めた画家であるという。「虎穴図」がジャン・コクトーに激賞されるなどで名を上げたようである。

 その画風は自由にして奔放。写実にとらわれるのではなく、自分の心に映った形態を絵画に描いているようである。あまりにも自由な形態を描いているために、単なる下手くそな絵にも見えかねないのだが、どことなくユーモラスで楽しげなその画面は、なぜか人の心を引きつけるものがある。

 個人的には「適当」という言葉が心に浮かんできた。画題から画面の配置までがことごとく「適当」に見えるのである。その適当さの影に見えるのは常識に囚われない自由な感性。一見誰にでも描けそうにさえ見えて、その実はどうしてどうしてというところか。誰でも楽しめること請け合いなので、なかなかお勧めである。

 

「自然のかなた 現代美術家の視点」 2005.5/15〜7/3

 現代社会では自然の中にも人間の手が入っていたり、自然と人工の分離が困難になってきている。そのような現代社会の中で、芸術家の観点から自然を読み解いていったらどうなるか・・・というのがテーマらしい。

 展示内容は複数作家の競演になっており、それぞれの作家が自分の得意とする手法(というか、はっきり言って一発芸である)を駆使した作品を並べてコーナーをなしている。初っ端から左右対称に加工した気色の悪い富士山とか(富士の写真を単に左右対称にしているだけなのにもかかわらず、これがなぜか実に気色悪いのである)、精密に木の枝をデッサンしたもの、写真をデッサンに起こしたもの、スライド投影を使用したものなどなど様々である。作品は多彩であるが、テーマが自然であるので、作品自体はいわゆる現代芸術としては分かりやすい部類に入る。

 各人がいろいろと趣向を凝らしているので、それなりには楽しめる。ただそれはふーんと感心するだけの話で、いわゆる芸術的感動とはほど遠いものである。感心はし、それなりに面白いとは感じるが、特別な感慨は残らない。いかにもその辺りが現代芸術である。

 

「天才絵師 葛飾北斎」 2005.4/2〜5/8

 葛飾北斎とはいわずとしれた「富嶽三十六景」で知られ、西洋の画家達にまで大きな影響を与えたと言われる浮世絵の大家である。本展はその北斎の版画を始めとして、肉筆画や絵暦、また有名な北斎漫画といったものまでを集めて展示している。

 北斎は多くの名を持つことでも知られているが、その作風もなかなかに変遷が激しくてつかみ所がない。本展でも富嶽三十六景などの版画に見られる大胆で単純化された画像を思わせる作品だけでなく、非常に精緻な肉筆画などもあり、どうも一括りでは理解しにくい。専門家はこれらの作品の中から、後の作品につながる特徴を見て取るのだろうが、素人の私にはとてもそんな目利きはできなかった。

 どちらかと言えば、版画の方が私のような素人がイメージする北斎の作品らしくて分かりやすかったが、意外と面白かったのが「北斎漫画」である。ここでいう漫画という意味は、いわゆるコミックではなく、適当に思いつくものを書き散らかしたスケッチ帳のようなものという意味とのこと。確かに風景のスケッチから身の回りの品々の絵というように、とりとめのない内容であるが、非常に自由な線で描かれており、また北斎らしい大胆な描写の片鱗が現れていたりなど、楽屋裏が見えるような感じの楽しさがあった。

 

「松岡映丘とふるさとの美術」 2005.1/29〜3/27

 松岡映丘とは医師の松岡家の末弟として生まれ、その兄には柳田国男を始めとして、多くの文化人を輩出している。また映丘自身も戦前の日本画壇において確たる地位を築き、その門下からは多くの画家を現れているという。そのような松岡映丘の作品を中心として、姫路・播磨ゆかりの作品を展示した展覧会である。

 展示の1/3ほどは映丘の画が占めるが、これ以外にも酒井抱一の作品あり、橋本関雪の作品あり、果ては刀剣の類までと、よく言えば実に多彩な展示品、悪く言えばテーマが不明でまとまりのない展示である。

 さて目玉である映丘の絵画であるが、実に美しい絵画であり技法的には見事であるが、個人的には「美しいだけ」という印象を受けないでもない。典型的な日本画というイメージ以外の特別な感慨が残らないきらいがある。どうも私のようなひね者には、少々品が良すぎる絵画なのかも知れない。

 

「柳宗悦の民藝と巨匠たち展」 2004.11/8〜12/23

 「民藝」と民衆工芸のことであり、民衆工芸とは装飾過剰な貴族芸術とは異なり、実用の目的に沿っていながら、なおかつ粗雑な工業製品とは異なる製品であるとのこと。柳宗悦はこのような民藝に美を認め、李朝の工芸品の蒐集から始まり、やがては日本の工芸品の蒐集に至ったという。本展ではこのような柳宗悦の収集品及び、民藝運動に関わった富本憲吉、バーナード・リーチ、河井寛次郎、濱田庄司、芹沢_介、棟方志功、黒田辰秋などの作品を展示、民藝運動の軌跡をたどろうというものである。

 さてかような理念の元の展覧会であるので、展示品は屏風から陶器、さらには着物までと実に種々様々である。柳宗悦の収集品に関しては、そこに美を見出すかどうかは人によるであろうが、確かに昔の日本にはどこにでもあって存在感を放っていたであろう代物ばかりである。今となってはこれらはすべて工業的大量生産品に駆逐されてしまったことを考えると、柳宗悦とは異なる感慨を抱かずにはいられない。

 なお民藝運動作家らの作品については、素朴な美しさが特徴のものばかりである。芸術品という堅苦しさではなく、ごく普通に日常に使えそうな印象を受けるのは、やはり民藝である所以か。なお棟方志功については現在ATCミュージアムで展覧会が開催されているので、私も近日中に見に行きたいと考えている。

 

「ヨーロッパ幻想の系譜」 2004.9/1〜10/24

 本展では神話や宗教世界、精神世界などに基づいて制作された作品を「幻想芸術」として絵画、彫刻、果てはガラス工芸まで展示している。

 しかし実のところ「幻想」という括り方は極めて曖昧であり、展示されている作品は多彩である。最初は宗教や神話の物語に基づいたモノクローム版画に始まり、次のコーナーでは精神の内面を表現しようとした絵画、さらに神秘主義的絵画、そしてシュルレアリスムの作品なども登場する。またガラス工芸についてはドーム兄弟の作品などが展示されており、これはいわゆるアール・ヌーヴォーに属するものである。おかげでテーマがあるようなないような極めて曖昧模糊とした印象を受けるのが事実。確かにどの作品も「幻想」を含んでいるんだろうが、一本の糸でつながるようなものでないのは確か。

 もっとも、選ばれている作品はどれも印象が強い作品ばかりであり、展覧会としてのインパクトは十分、不可解で悪夢めいているマグリットの作品や、エロティックでありながら無機質なデルヴォーの作品など、勝手に頭に焼き付いて来るほど強烈である。

 そういう意味では、芸術的にある種のゲテモノ趣味の人間の方が楽しめる展覧会かもしれない。私個人としては意味不明の現代芸術など違って結構楽しめたというのは事実である。

 

「アンドリュー・ワイエス水彩素描展」 2004.4/6〜5/23

 ワイエスは20世紀のアメリカを代表する画家である。彼の精緻なタッチでの風景画は写実主義と呼ばれ、写真と見まごうばかりの絵画である。

 本展は彼の作品の中で、オルソン姉弟をモデルに描いた一連の絵画シリーズの水彩や鉛筆描きによる習作などを集めている。

 展示作品を一覧すると、彼のまるで写真のような絵画は、その制作の前に多くのスケッチを行うことによって描かれていることが分かる上に、その過程において彼が絵のディテールなどに微妙に変更を加えていることもうかがえ、実は彼はただ単に風景を写したのではなく、自身の中で再構成していることが分かる。さらに水彩画については、テンペラ画などとはまた異なった質感により独自の世界が展開されているので、単独の作品としても楽しめる。

 画家の制作の過程が垣間見えるので、どちらかと言えば私のような全く絵心のない人間よりは、実際に自分でも創作を行っている人物の方がより興味深いのではないだろうか。

 

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